2012年11月18日日曜日

肉の苦しみを受ける

[聖書]Ⅰペトロ416
[讃美歌21]200,209,530,78
 
4章のはじめで、手紙の筆者は、主イエスの十字架を、「肉に苦しみを受ける」と表現しています。単純に、肉体において苦しまれた、と考えます。肉を罪と考える二元論には立たないほうが適切でしょう。
イエスを信じる者は、みな同じように肉の苦しみにあっているのだ、と語り、罪とのかかわりを絶ったのだ、と言われると困ります。イエスの十字架は、罪のない方が、罪ある者が本来味わうべき苦しみを、代わって担われたもの、という点で、全く独自のものです。それにもかかわらず、「同じ心構え」と言われても、直ちに承服はできません。地上の肉体が、闘う心構えなら判ります。ゲツセマネの戦いもありましたから。
 
 ただ、ここでは「武装しなさい」とあります。闘うために必要な武具を身に付けることです。この時代、個人の武装は、甲冑、弓槍(投刺突)、刀剣、大楯小盾。
ローマ帝国の軍制は、長い間、防衛戦のための市民兵でした。しかも自己負担で軍装を整える責任を担いました。やがて、防衛のためには、国境線をできるだけ遠くにしよう、と考えるようになり、周辺諸国を征服するようになりました。そのため出兵期間が長くなり、自由な市民兵では間に合わなくなりました。奴隷や外国人を兵士とし、装備は支給するようになりました。こうして防衛のための市民軍から戦争予防を名義にする常備軍へと変化して行きました。
 
 ここでの武装は、何に対して戦うものでしょうか。罪との戦いです。
既に、罪とのかかわりを絶った、と言われますが、絶縁状態を保つためにも厳しい戦いが必要です。洗礼について語るペトロです。洗礼は「神に正しい良心を願い求めることです」と語りました。大きな、強い武器を求めることです。
 罪は私たちを、キリストを拒絶することへと誘います。さまざまに形を変えて、いつも見えないように、気付かれないような攻撃を仕掛けているものです。
 
この手紙の読者像は、ここで明らかにされます。
律法を無視するかのように、異邦人同様の行いをしてきた人々です。
好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝。偶像の神殿では、不品行が何の疑いも持たれず、行われていた。
これらは、罪のカタログ、目録と呼ばれます。
無教養、不品行、衝動的享楽(Ⅰコリント1532)、の数々が挙げられます。
  もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
これらを倫理的基準に従って節制し、抑制するところに高貴な生活がある、と多くの場合考えられてきました。
 
少数の貴族による統治、政治が行われていた時代のローマでは、貴族が自己抑制を当然としていました。しかし、アウグストウス帝後の帝政ローマにおいては、皇帝の家族たちからも倫理基準は消えうせてしまいました。上のするところに下も従うのは道理。実際は下層の者たちのすることを、高貴な階層の人々が真似た、と言えそうなほどです。
 
この時代を見詰める伝道者パウロも、悪の目録を書いています。ガラテヤ51921
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類のものです。」
当然のことですが、善の目録があります。ガラテヤ52223
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じるおきてはありません。」
このような帝政時代が、キリスト教初期の時代でした。悪のカタログは、富裕な貴族や議員たちの日常の姿そのもの。
そうした破廉恥な生活を嫌い、キリスト教の清廉な生活に憧れを抱き、入信する人たちが多く出ました。そうした中には、ギリシャ哲学を学び、高潔な生活を求める貴族、貴婦人たちの姿を見出すことができた、と言います。
 
ローマの異教徒たちは、キリスト教に改宗した人々が、偶像礼拝と不品行に背を向けたことを怒りました。これまで同じ価値観をもち、同じ事を楽しんでいた人々の目には、背を向けた人たちは、裏切り者に見えたことでしょう。
キリスト教信仰へ導かれた元異教徒たちは、回心によって全く新しい考え方、判断を獲得しました。異教的生活は、今や「放蕩の泥沼」と感じられました。彼らは、神の恩寵によって、そこから引き上げられたのです。
人々は、唖然とし、憤慨し、罵り、侮辱するようになります。
異教徒は、キリスト教徒が彼らとの交際を避けることに憤慨した(Ⅱコリント614、エフェソ57)。更に、彼らの倫理的に厳格な生活をばかげたことだと嘲り(Ⅰコリント1532)そこには不純な動機があると非難し、神とキリストに対する彼らの信仰を嘲笑する。
 
タキトゥスは、『年代記』15巻-44節(筑摩書房版286ページ)で、ネロ皇帝時代の、ローマの大火のことを書いています。
 
民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみ消そうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の込んだ罰を加える。それは日頃から忌まわしい行為で世人から憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティゥス・ピラートゥスによって処刑されていた。
  
訳者(国原吉之助)注、キリスト教信奉者、信者、以下は異教の文献における最初のキリスト処刑への言及として有名。「日頃から忌まわしい行為」とは、嬰児殺しと人肉嗜食と近親相姦のこと。キリスト信者に対する世間のこのような非難を、タキトゥスは全面的に信じていたようだ。
 
紀元112年に、キリスト教徒を審問した、タキトゥスの友人、ビテニアの総督プリーニウスは、元首・トラヤヌス皇帝に報告しています。
「キリスト教信者は一緒に集まって食事をしますが、それは当たり前の罪のないものです。」最善の元首と謳われた皇帝トラヤヌス(98117)の時代のことでした。
このような報告が皇帝のもとに提出される。50年が経過しています。皇帝も五賢帝の一人
です。意に沿わない報告であっても退けられる心配はありません。
 
彼は、五賢帝(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス、96180年)の一人でした。
『ゲルマーニア』では、ローマ人が野蛮人として、巨人として恐れていたゲルマン人の生活、風習などを描いて、正しい理解を進めています。その中で、一夫一婦の婚姻制度と結婚前の禁欲などを称賛しています。一部貴族には、再婚する者があるが、大部分は生涯に渉り、ただ一人の配偶者を守る。
当時のローマにおいては、こうしたことが驚きであった、ということが判ります。
 
キリスト教徒は、少数派で、無力です。たとえ、証拠を示して、多くの非難が根拠のないことを立証しても、何の成果も収めることはできなかったでしょう。
しかし彼らは、終わりの日に正しい裁きをされる神に、安んじて全てを委ねることができました。異教徒は全て、彼らの言動について、この神の裁きを受けることになります。その時彼らは、自ら釈明せざるを得なくなります。
 
キリストを信じる者が、倫理的に立派な生活をしたとしても、信仰をことにする者たちが、承服するとは限りません。ペトロの時代の、ローマ市民たちのように、キリスト信奉者を悪し様に罵るようになるかもしれません。それは、彼らのうちに愛がないからです。キリストの愛をもたないために、それによって自分自身の愛もなくなってしまいます。
 
Ⅰコリント13
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 
愛はすべてのときに、最強、最良の武器になります。愛しながらの戦いLiebender kampf
と言ったのは、武藤光朗教授。元は、ドイツの哲学者、カール・ヤスパースの文。
 
結婚式、愛により結婚する。人間的な愛は変化・成長する。自分も相手も変化・成長する存在。基盤になりえない。
永遠に変わることのない神の愛を基として結婚する。
 
すべての人は、その口にした言葉や、行った全ての業、または怠った全ての業にたいする責任を問われることになります。神は裁きを遂行される準備をしておられます。
私たちは、人間の欲望に従って生きるか、それとも神の御心に従って歩むか、絶えざる戦いをすることになります。この戦いのための武装・戦備に関しては、伝道者パウロが丁寧に教えてくれます。エフェソ613以下です。
 
エフェソ613
06:10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 06:11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 06:12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 06:13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 06:14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 06:15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 06:16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 06:17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 06:18どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
 
ずいぶん難しいようにも感じられます。キリスト・イエスにおいて示された神の愛を内に抱きましょう。最善の武器です。愛されていることを堅く信じることです。そして愛することです。これなら出来るでしょう。これなら大丈夫ですね。 
本日はここまでに致します。祈りましょう。

2012年11月11日日曜日

救いの洗礼

[聖書]Ⅰペトロ31722
[讃美歌21]200,16,436、
[交読詩編]105:1~11、
 
ここには、洗礼の文字が出てきます。そこには、小さな文字でバプテスマと書いてあります。振り仮名です。これがあるのは、これで読みなさいよ、ということのように感じられます。他の振り仮名は、まさに読み仮名です。しかしこの場合は違います。
 
聖書の序文に続いて「凡例」が置かれています。次の項目があります。
『なお、訳語「洗礼」については、「せんれい」と読む場合のほか、「バプテスマ」と読む場合を考慮し、例外として「バプテスマ」の振り仮名を付した。』
私たちが、これを読む時、理解できるか、というと難しいですね。何らかの予備知識があれば、判ることでしょう。
 
この項が意味しているのは、教派によって、読み方の指定があることへの配慮のようです。新共同訳は、プロテスタントの「日本聖書協会」と「日本のカソリック教会」が合同で翻訳・出版した、世界でも珍しい聖書です。この中には、洗礼をバプテスマと読むことを求める教会もあります。そういう教会で読まれる時は、ここはバプテスマと読んでください、ということです。バプテスト派では、バプテスマと読むようです。
これとは違って、読み仮名はありませんが、無教会派では,教会とあるものは「集会」と読むようです。こうした違いを乗り越えて刊行されたのが新共同訳です。日本聖書協会の努力を高く評価します。
 
本日与えられた聖書は、なかなか困難を感じさせられるものがあります。何を語ろうとするのか判り難い、と言えば良いかもしれません。ある学者は、ここは、論旨が通っていない、とはっきり指摘します。それなりに読んでみましょう。
 
まず、17節は、一般的命題、と理解されます。正しい人イエス・キリストが、苦しみを受けられたことが語られます。悪を行って苦しむのは、自業自得と言われます。神の御心による正しい人の苦しみは、深い意味を持ちます。神の御子イエスが、世の人々に代わって苦しみをお受けになりました。正しくない者たちのために苦しまれました。神の許へ導くためでした。
 
1822節は、この手紙に見られる第四の「キリスト賛歌」(1391182122225)です。キリストの受難から天に挙げられるまでの歩みを、短い信仰告白の形式で描写しています。とりわけその歩みは、罪なくして義人が担う苦難がもたらす祝福の最高の例として提示されています。
この部分は、洗礼に際してなされる信仰告白の内容だったかも知れません。20bから21節からだけでも、これが洗礼における信仰告白であると推定できそうです。
 
また、一方でヘブライ書との関連が深いように感じられます。ただ一度限り(ヘブライ928)捧げられた贖罪の犠牲(ヘブライ727)。罪なき義人が、罪びとの代理として自らを生け贄として捧げた(ヘブライ1026、ローマ5883、ガラテヤ14)。この書が、第二世代のものと見る一因にもなります。
 
「肉において殺され、霊において生かされた」という一文は、元来キリストの死と復活を意味する定式であったのでしょう。
 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
(ローマ149
 
そして、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
 
この19節の解釈
創世記64、「堕天使」に関するもの。この堕天使は、人間の娘たちと交わる、というなすべからざる罪を犯した。後期ユダヤ教の伝承では、この聖書記事を拡大解釈して、これらの天使は罰として神により天から突き落とされ、永遠の桎梏によって地中深く縛り付けられ、審判のために留め置かれている、と考えていた(エノク10121811以下、211以下、なおⅡペトロ24、ユダ6)。エノク書の中では、彼らには赦しを与えることは不可能であることを宣言するために、エノクが彼らの許に赴いた、と拡大注釈している(エノク616章)。
その後、キリスト教の伝承において、エノクに代わってキリストが登場しました。ただし、
キリストは彼らに審判を宣べ伝えたのではなく、神の恩恵を提供した、という点で違ってきます。
 
19節に「捕らわれているもろもろの霊」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。創世記64にある堕天使という説もあります。面白いものですが、割愛します。
むしろこれについては、地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々は、その後どうなるのか、という問いに答えようとする試み、と理解されています。
  
とすると、この書の成立年代と深く関わるのではないでしょうか。このような問いかけは、第一世代では考えにくいことであり、むしろ第二、第三世代のものではないだろうか。
 
ここで判ることは、僅かしかありません。
キリストは、生かされた霊として、復活までの短い間、死者の国にいる身体を持たぬもろ
もろの霊の許へ、降りて行かれたということです。復活までの間そこに宿り、かつてみ
言葉に従わなかった霊に仕えるためでした。
 
 
ここでペトロは、ノアの時代の洪水と箱舟に関心を移します。
ノアの時の洪水と箱舟、ノアとその妻、息子たちセム、ハム、ヤペテと夫々の妻、合計8人は、神の言葉を信じ、忠実であったので救われました。箱船と水を経ての救いが教会と洗礼の水に対比・結合させられています。
 
20節では、もはや堕天使への関心はなく、明らかにノアと同時代の不信仰な人々が、黄泉でキリストの宣教を聞く者と、されています。捕らわれている霊とは、地獄の処刑場に追放されているノアの同時代の人々を指しています。「神の忍耐」は箱舟が造られていた時期のことであろう(ヘブライ117)。あるいは寛容と訳します。
キリストは、地上の存在から解き放たれた霊的存在として、死者の国へ下られた時にも、救いをもたらす活動を続けられた、ということを筆者は語ろうとしているのです。
 
 
新約聖書の出来事は、旧約聖書の出来事の中に予表されています。そして、新約における出来事は、救いの完成という意味を担っているのです。
キリスト教の洗礼は、ノアの受けた「洗礼」とは違って、ただ身体的救出に関することではなく、人間の全存在を新しい土台の上に据えるもの、と考えられています。そうしたわけで、教会において洗礼は、より深く人間存在全体に関わる出来事です。
ペトロは、「神に正しい良心を願い求めること」、それが洗礼である、と明言しています。
ここでは良心の清めが問題なのです。洗礼は、善き良心を求める神への願いなのです。
 
この「願い」と訳されているギリシャ語は、古代の宗教的語法においては、託宣によって神の御心を伺うことの意であり、法律文書においては「当然受け容れられるはずの契約問題の提起」を意味します。
キリストの教会は、洗礼を密儀的、呪術的に考えたことはありません。それ自体が、何らかの力を発揮するものとは考えませんでした。水にも、授ける人にも、そのような力を認めることはしなかったのです。
洗礼の決定的な救いの効果は、水から出るものではありません。そうではなくてこの救いの働きは、キリストの復活の力から出てくるのです。すなわち、復活者が洗礼において働き,受洗者の新生命の土台を置かれるのです。
 
この手紙の著者、ペトロは、ここで洗礼について語ります。パウロは論理的な順序に従って語りました。それとは違ってペトロは、感覚的に語ります。私たちも、彼の感覚・情緒・心理を理解しないと、語られていることがわからなくなります。
 
ペトロは、洗礼式に際し、信仰告白としてキリスト賛歌を歌います。朗誦と言うべきかもしれません。その始まりは,罪なきキリストが死なれた,という極限の苦難でした。
罪なき人、と言うことは、義人ノアを連想させました。彼の時代の洪水と箱舟による救いが、強烈に思い浮かびました。この水からの救いは、洗礼を思い浮かべることになります。それは、かねてからの課題、「福音を聞いたことのない者達に対して神の計画はどのようになっているのか」、に対する答えとなりました。
 
そして、ここで洗礼と救いに関して、奨励を語られます。
洗礼は水によって洗うことではなくて、救われた者が、正しい良心を求めることです。
罪赦された事を知っただけで、正しい良心に従うことができるでしょうか。先ず、赦された恵みを知る者として、正しい良心を求めて行きましょう。
 
 求めるためには、それが自分に欠けていることを承認しなければなりません。
私たちは、既に良心をもっているのでしょう。シモン・ペトロのために、主イエスは祈っておられます。
「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ2232
持っているはずの良心が崩壊する危機を経験したのがペトロです。主イエスが祈り、ペトロが力付けてくれています。私たちも洗礼を受け、正しい良心を求めましょう。

2012年11月4日日曜日

祝福を受け継ぐために

[聖書]Ⅰペトロ3816
[讃美歌21]200,17,377,224、
[交読詩編]51:3~11、
 
前主日は、妻と夫に対する教えでした。
これは、以前は、キリスト教結婚式の折、夫婦に関する聖書の教え、としてよく読まれたものです。60年代に、内容が封建的だ、夫婦の関係が対等でない,夫唱婦随的であるなどの批判が大きくなり,次第に読まれなくなりました。それでも「どうしようか」お尋ねすると、読んで欲しい、と希望する若いお嬢さんが居られました。そういう方でも我慢できないことがあったようです。今は、分かれてしまいました。
素直な人でも、真面目なかたでも、それだけでは二人が生活するのは難しいのでしょう。
 
 さて本日もまた、牧者である方のもとに立ち返り、どのような生活をするのか、教えられます。同じ牧者のもとにいるなら、同じ心で、ひとつ思いになることが求められます。同情、愛、憐れみを相互のものにしなさい。何よりも謙遜が語られます。
傲慢ではなく、自分自身よりも他人をより貴とする謙遜が、兄弟愛の交わりを支配する原則です。
フィリピ23では、パウロが、語ります。
『何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考えて・・・』。へりくだって、とあるのは、謙遜ということです。
パウロもペトロも同じように謙遜を大切にするように教えます。素直になれることもあり、素直になれる相手もいます。
 
現実の場合、相手を優れていると認めたくない相手のほうが多いのではないでしょうか。いつも自分をひけらかし、押し付けがましく、はなはだしくは、謙遜であることを見せ付けるような相手。どれほど肩書きがあろうが、資産があろうが、学歴、業績、血筋に優れていようが、決して頭を下げたくはならない相手がいるものです。そこで私たちは、悩むのが普通です。悩むべきでしょう。でもそこそこにしましょう。相手を優れていると認めたくないようなことが多いことを知って、二人とも、このように教え、勧めるのです。
 
確かに、この勧めは、世の中一般の考えとは、正反対です。私たちの普通の考え方は、どのようなものでしょうか。幼稚園に入ったばかりの子ども、小学生、中学生、よく見ていると、やられたらやり返せ、やられっぱなしはダメだぞ、という親たちの言葉が聞こえてくるように感じます。これが、社会で普通行われている考え方です。自分の力を見せ付けろ、相手よりも自分のほうが上だということを示せ、力で押さえつけろ。
教会は、これとは異なる法則と尺度を通用するようにしようとします。キリスト者は、
受けた不正の故に、霊的新生、魂の牧者のもとに立ち返った者、に矛盾する行動に引きずられてはなりません。
「罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず・・・」(223)。
 
復讐の禁止は(すでに箴言1713、スラブ語エノク504)、初代のキリスト者にとって、決定的規範となりました(ローマ1217,)。
「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」(Ⅰテサロニケ515
 
キリスト・イエスは、ただお一人、罪を犯されなかったが、極悪の罪びととして、十字架につけられました。信じる者たちは、この御足の跡を踏み従う者です。そうするならば、未来の救いに与るときに、神の祝福を受け継ぐことになるでしょう。
 
この手紙を書いた人・ペトロは、かなり旧約聖書に通じています。手元において、そこから書き写す、という形ではなく、手元にないものを自由な形で引用することができます。
ユダヤ人は幼少時から、会堂学校で聖書をテキストにして読み書きを学んだようです。寺子屋教育と似ています。ペトロも一家を率いる者になるように教育を受けたのでしょう。
 
1012節で、詩編341317を引用します。
詩編341215(新共同訳)
「子らよ、私に聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」。
この詩編は、自分で自分自身を支配するものだけが、静かで、平和な生活を送ることができる、としています。余り、前段の思想を証明することに成功しているとは言えません。
 
ペトロは、未来の救いに与ろうと欲するものは、悪を避け善を行い、その行動において人々の間に平和を作り出すべく寄与しなければならない。そのためには自分に与えられている権利の放棄にまでも至るべきだ、と勧めています。
 
 
ペトロの時代、キリストを信じる者に対するいわれなき誹謗・中傷、名誉の毀損、は際限のないものがありました。身体、財産に対する攻撃となり、損傷を与え、社会的に葬ろうとするものでした。
 
その頃、倫理的に正しい生活をすることが、必ず良い結果を生むとは限らなかったのです。キリストを信じ、正しい生活をすることによって、かえつて苦難を経験することが多い時代でした。それゆえにこそ、ペトロもパウロも同じように勧め、教えるのです。
悪に負けるな、善をもって悪に打ち勝て。復讐するは神にあり(ローマ1219)。
義のために苦しむ義人は幸いである。マタイ51012
「義のために迫害される人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。私のために罵られ、迫害され、実に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるときあなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
 
苦難に関しては、いろいろな考えがあります。何故、どこから、どのように、何時、何時まで、どれほどの大きさで、などなど。
それ以上に問われてきたのは、苦難の意味です。悪いことは何もしていないのに、何故?この苦難にどのような意味があるというのか。旧約聖書のヨブ記は、『神義論』が主題である、と言われます。普通には、苦難の意味に関する論議、と理解されるでしょう。1章から3章に、天地創造と反対に、天地が崩れるかと思えるような苦難が、次々とヨブを襲います。
現代的には、原因不明の病気もあげられるでしょう。
 
苦難は、信仰を試して、完全に本物にするためのもの。信仰は金と同じである。火によって純粋性が試され、精錬される。
信仰への召命は、同時に苦難への召命を意味します。
「ブドウの枝の覚悟」を思い出します。
 
111日の幼稚園教師の勉強会がありました、ヨハネ155が主題です。
『わたしたちは、ぶどうの木、あなた方はその枝である。』
用意した印刷物の一部に次のようなことを書きました。
「教会も、信ずる者たちも、自分たちは主イエスを幹とするその枝であると主張する。
切り落とされる覚悟はあるのだろうか。
今、厚別の街路樹は枝落しがされている。それによって木そのものが生かされる。
切り落とされ、死ぬことによって自らも生きることになる。イエスの言葉を内側に持っていることにより、イエスとつながるものとなる。豊かに実を結ぶ。生きる。弟子となる。
父なる神は、御子イエスを愛された。それと同様、私もあなた方を愛した。この愛のうちにいること、とどまることにより、枝のつながりとなる。」
 
実を結ばない枝は、切り取られ、棄てられ、焼かれる、と考えてきたでしょう。じつはそれだけではありません。役割を果たした枝も、幹を更に生かすために切られ、焼かれるのです。またその枝自体も、焼かれることで生かされます。肥料となることで生きて、他のものを活かします。枝打ちの効能は、梅の木で知ることができます。徒長枝を切り、風通しが良くなると、たくさんの花が付き、実が生ります。
 
私たちが、徒長枝であっても、実を付ける役割を果たした枝であっても、切られ焼かれます。何も悪いことはしていないのに。私たちを活かすために苦しみが与えられます。
 
この苦しみは、キリストの苦難に参与することであり、栄光への参与も保証されます。
信仰への召命は、イエスの御足のあとを踏み行くことであり、そのように生活を形成する
ことがその務めなのです。
全世界の主にある兄弟との結びつきは、苦難を分かち合うことにより、更に深くされます。
このことは、信徒にとって大きな喜びであり、慰めとなり、力の源泉となるでしょう。
 
 更にペトロは、語ります。
信仰者は説明責任を果たさねばならない、と。自分の信仰、その行動を説明することはで
きるだろうか。しなければなりません。優しく、判りやすく、慎み深くなされるべきです。
相手の態度を見て、自分の態度をそれに合わせるなら、確実に失敗します。大きな声で、
威圧的に語る相手に対して、同じようにして御覧なさい。確かに相手は黙ります。それは
怒りを秘めた沈黙です。それ以降、静かになりますが、陰険な方法に変わります。大きな
声や、威圧的な態度は、恐れていることを隠そうとしているのです。弱虫、臆病の徴です。
同じ態度で対応しようとしてはなりません。本当に勇気ある人は、穏やかに、静かに語る
ことができます。
 
あくまでも、忍耐強く、穏やかに説明すべきです。
 
本来、信仰は、言葉によっては説明できない部分を持ちます。
信仰者は、自分の生活を見てください、と言うことが許されます。生活、行動も言葉の一
種です。沈黙という言語。これなら、私たちにもできる。
あらゆる言語を動員して、主の憐れみを語り伝えて参りましょう。