2013年3月31日日曜日

主は甦られた

[聖書]Ⅰコリント15311
[讃美歌217,325,510、78、
[交読詩編]66:1~9、
 
 人間が社会生活を営む世界では、さまざまな利害が、各自の権利が衝突し、裁判沙汰になります。欧米人は、各自が、その権利を主張し、相手の権利を認めないようにします。日本人も、かなり欧米化しました。それでもなお、自分の主張よりも相手の権利も重んじなければ、と考える向きがあります。
 
 あるとき、機会があり、ベテランの裁判官に、裁判において最も重要なことは何でしょうか、とお尋ねしました。少し首を傾げて考えておられました。
「何が真実であるか、判断することです。」そのために裁判官は、訓練されてきている。
今、司法の世界は、裁判員裁判を行うようになりました。現職裁判官の中にも、この制度に反対する方がいるのは、このためでしょう。我々裁判官は、真実を見極め、判断する責任を担うために特別な訓練を受けてきました。そのための訓練を受けていない一般人にこの重責を担わせることが出来るのですか。担わせて良いのですか。裁判官が、鼎の軽重を問われることになるのですよ。声が聞こえるように感じられます。裁判員にはカウンセリングをすればよい、という発言もありました。
 
 大きな問題は、私たち自身が、日常的に裁判官になっていることです。どちらが正しいか、見極めることなく、個人的な感覚で正邪を裁く。真偽を決定しようとしていませんか。
そして、法廷でも、裁くことが出来ると思い込んでいる。実は、それが困難だから、プレッシャー、ストレス、神経の問題を引き起こしているのです。
 
 さて、このような裁判で、真実を見極めるために、証人の役割が重んじられます。証人は、自分自身が見た事、聞いたこと、触れたことを、そのままに語ることが求められます。
又聞き、推定、虚偽を語ってはなりません。
聖書の中には、法廷用語がずいぶん用いられている、と指摘されます。あるいは、言葉ではなく、法廷そのものが、想定されていることがある、とも言われます。
本日の復活の証言は、法廷で、復活を証言できる人たちの名簿を読み上げているように感じられます。
 
 『墓に葬られたイエスが、甦られて、その姿を弟子たちにお示しになった。その名前は以下の通り。彼らは、いつでもそのことを証言するでしょう。その一番最後にいるのが、この私です。』この手紙の発信人であり、証人の最後は、異邦人伝道のチャンピオン、パウロです。パウロは、自分自身を語ります。
 
「月足らずに生まれたような私。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。・・・他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」
 
 パウロは、かつてサウロと呼ばれていた頃、キリストを信じる者を迫害していました。
生粋のユダヤ人、ファリサイ派の一人としては、当然のことでした。迫害のため、ダマスコへ行く途中、甦りの主が顕われ、彼を導きます。彼は、迫害する者から、宣べ伝える者へと変えられました。このことは、使徒言行録9章に書かれていて、良くご承知の通りです。甦りの主が顕われたのは、私たちに、主のみ名を宣べ伝えさせるため、主の甦りを証言させるためだった、と語っています。主のなさることには、目的があります。
復活信仰は、キリスト教会の中心に据えられる事項です、着任して以来一年、厚別教会の「しんこうのことば」に、ある種の違和感を覚えていました。三位一体の神への信仰は、何とか表現されている、と認められるが、甦りに対する信仰が薄い、と考えたからです。教会総会の報告にもありましたが、2012年度の初めに、甦りの項目を入れることが出来ました。
 
福島の聖光学院高校はキリスト教主義の学校です。伊達市にあり、もとは工業高校として出発。各種運動部の活発な活動により、全国にその名を知られるようになりました。中でも硬式野球部は、甲子園出場も回を重ね、強豪校として知られています。
2013323日(土)選抜高校野球第二日、初戦突破。第2戦では、鳴門工業高校を破り、ベスト8に進出。今日も、11時から、敦賀気比高校と戦っています。勝利の度ごとに校歌が歌われます。
 
 
聖光学院高等学校 校歌
平 野 彬  子 作詞
増 田 瑠々子 作曲
1.桃李一時に咲き競う
         春たけなわな信達野
         希望に燃ゆる若人が
         復活の主 仰ぎゆく
         高き望みに 恵あれ
         ああ わが母校 聖光学院
2.青嵐の彼方吾妻嶺に
         夏来るらし雲湧きて
         希望に燃ゆる若人が
         山上に訓 守りゆく
         清き望みに 光あれ
         ああ わが母校 聖光学院
3. 錦繍の野に風立ちて
              北斗は青く空に冴ゆ
              希望に燃ゆる若人が
              世に勝ちし主に倣いゆく
              望き希いに 守りあれ
              ああ わが母校 聖光学院
 
 
 
 
 
 
 
校章の由来
中央にある「聖光」は、マタイによる福音書第5章14節の「あなたがたは、世の光である」に由来する。  本校で学んだ者は、世の如何なる変遷にも変わることのない真理の生活の基盤とし、光の中を歩み、信仰と希望、愛を持って人々と交わり、自らもまた聖なる光を仰ぎ、人生を全うする者であるようにとの願いがこめられている。 また、校章の地は「X」と「工」を組み合わせたもの。「X」はキリストを表すギリシャ文字の頭文字であり、「工」は「工(たくみ)の家の人となった」キリスト、前身の工業高校を表し、総じて校訓「神と共に働く人に」の神の同労者の意味を表しています。
 
 
ローマ8:34、
主が、「甦って、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」
このことを信じて喜ぶことが出来るのである。
 
かつては、桜美林高校が甲子園でキリスト賛美の校歌を歌いました。
 
Ⅱコリント48を読みます。
「私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
 
桜美林学園は、清水安三先生が、戦後創立。先生は、戦前、北京朝陽門外に崇貞学園を
開設。中国人、朝鮮人、日本人が共に学ぶ所とした。これは、ポーランド、ワルシャワで、
コルチャック先生が作った学校と同じ理念です。ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人の共
学。清水先生の愛唱聖句、モットーは、「詮方尽くれども望みを失わず。」
この強い信仰、その実践は、何故可能となるのでしょうか。
 
同じⅡコリント414の言葉を読みましょう。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなた方と一緒に御前に
立たせてくださると、私たちは知っています。」
この言葉は、後方から支える役割を果たしています。戦争に負け、全てを失った時にも懼れ
ることがありませんでした。信頼する中国人の手に学園を委ねました。今も同じ所で、校名
だけを変更して学園は続いているそうです。
北京陳経綸中学です。現在も桜美林学園とは姉妹校の交わりを保っています。
無一物で帰国した先生は、都下町田市に学園を開設しました。学校名は、母校であるオベリ
ン大学から取った、と聞きました。教えてくれたのは神学校の同級生です。畏友と言ったほ
うが良いかもしれません。彼は、中国帰りのご縁で清水先生とは親しくしていたようです。
先生の後継者にぴったり、と思いましたが、早くに、60歳で隠退しました。
この学校には1960年代の前半に、行ったことがあります。質素な校舎でした。
   今では、たいそう立派な大規模校になっているようです。
 
学園の建学の精神は、『学而事人』  学びて、人に仕える。
学問には、目的がある。他者に仕えること。
キリストに学び、神と人に仕える者となるように。
 
桜美林高校野球部は、
1976年第58回全国高等学校野球選手権大会初出場、初優勝(東京勢60年ぶりの優勝)
      6739回選抜、7345回選抜、7749回選抜、
   勝利のたびに、校歌が演奏されました。合唱されました。2節では、復活の主が讃美されて
います。
   
   主イエスの甦りは、最初の目撃証人たちにより、証言されました。
   また世々の信仰者たちの、不屈の精神によって確証されました。
   彼らは、尽きることのない新しい命を信じ、平安を獲ました。
同じ道を歩む者たちによって、更に伝えられて行きます。
   この信仰者の群れが、キリストの教会です。

2013年3月24日日曜日

禁じられた木の実

[聖書]創世記317
[讃美歌21]152,363、
[交読詩編]118:19~29、
 
 
今年は、雪の多い冬でした。積雪が100センチを超え、なかなか融けませんでした。それでも35日、啓蟄を過ぎて、着実に地熱が高くなってきているのでしょうか。320日ごろには、突然のように減っていました。気付かないうちに着実に季節は進み、春が始まっているようです。先日は、星置駅からJRで帰ってきました.。途中市立大学のあたりから見えるポプラ並木が、うっすらと緑がかって見えました。間もなく新芽が吹くことでしょう。啓蟄は、地中の虫が、地表面に出てくる時。蛇なども出て来るでしょう。
 
今年は、わが国の干支では、蛇に当たります。蛇は、音もなく近寄るので気持ち悪い、などと言われます。じっと瞬きもせず見詰め、赤く細い舌を、チロッ、チロッと延ばすのも気味悪い、と言って嫌われます。しかし、同時に蛇は、幸運をもたらす守り神のように考えられているようです。とりわけ白い蛇は幸運を招く、青大将も家に居つくなら家運隆盛間違いなし、として歓迎されています。昔から、ネズミを食べる蛇は、農村では歓迎されてきたようです。
諸外国ではどうなのだろうか。創世記の影響がある国では、蛇は悪魔の代名詞のように考えられてきました。
 
蛇の実体は、どのようなものでしょうか。手も足もなく、地面を、長いからだをくねらせながら、音もなく進む。表面は光沢があり、輝き、ぬめぬめと粘りつくような感じ。
そればかりではない。なかなかの美形です。
昔、上野動物園で見た網目ニシキヘビ。太く長い生き物。傘をかぶった裸電球の下、とぐろを巻いたまま身じろぎもしない。時たま、呼吸をするので胴の部分がピクッ、と動く。
重量感があり力が漲る感じで美しい。
触ったことがある人は、皆さんおっしゃいます。蛇のからだは、冷たくて乾いた、サラサラの感じです。蛇を愛玩物扱いする人が、意外と居られることにびっくりさせられます。
 
創世記31は、なんと言っているでしょうか。「蛇は、神のお造りになったものの内、最も賢いものであった」。口語聖書を初めいくつかの訳は、「狡猾」としています。
 
蛇は、大変賢い。賢さは、その使い道を誤ると大変な結果を招くことになる。
 
このところの伏線は、2916に敷かれています。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」
「主なる神は人に命じていわれた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
 
初めの人アダムが造られ、木の実に関する言葉が語られ、その後になって、相応しい助け手、女が造られました。相応しい助け手は、この禁止の命令を守ることにおいても、助け手になるはずです。
 
蛇は女に対し、巧みに質問します。創造主なる神に対する疑いを引き起こさせようとするものです。「本当に言ったのですか」
この質問は、神の言葉とは正反対です。女は、簡単にそれを退けることが出来るはずです。
詐欺師は、多くの真実の中に、小さな嘘をはめ込むものです。全体を嘘で固めるようなことはしません。それでは、すぐに見破られます。
詐欺を成功させるためには、相手の側に混乱がなければなりません。何か、関係の深く強い所で問題がおき、それがあなたにも深く関係するようになります。このような形で、相手の中に不安を引き起こします。此処では、食べるなと言われたのですか、と言う質問です。労苦せずに食べることができてきた。その食べ物を奪われたらどうなるか。
恐れと不安、女の中に混乱を引き起こしました。
 
女は、自分が直接知ってはいないことを、知っているかのように答えます。
現代法曹界では、直接見聞していない事柄は、伝聞証拠として慎重に扱うことにしています。時には採用しないこともあります。伝聞から推定に進むときでしょう。
 
3節には女の答えが記されます。注意深く読んでみましょう。ほんの少し、神の言葉が、変えられます。
「食べても良いのです」。事実は、「取って食べなさい」と言われたのです。
生存のために不可欠なもの、食べるも食べぬも心のままに、とは言われないのです。
女の答えは、食べることにおける、人の自由意志を主張しているのかなとも感じられます。
 
女の答えです。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」。
中央には二本の木があった。そのどちらが禁じられたのか、意識的に曖昧にされています。
触れてもいけない、とは言われていない。女が追加しています。取るな、食べるな、を強調しているのでしょう。
 
「死んではいけないから」。神の言葉は、必ず死ぬ、というものでした。死ぬことのない様に、厳しく禁じられました。必ず死ぬから、取るな、食べるな。行為の明らかな結果を示しています。女の言葉は、神の言葉の厳しさを緩和することになります。
 
一連の問答の中で、蛇の言葉は、巧みさを増して行きます。
「あなたがたは決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存知なのだ。」
蛇の言葉は、真実を主軸にしながら、それに対する少しばかりの疑いと、少しばかりの付け加えによって、自分にとって好ましい結果が得られると信じ込ませることを狙います。
 
好ましいものを食べると、目が開け、神のようになる。善悪を知る者となる。決して死ぬことはない。これが、蛇の言葉です。
蛇は、女に木の実を食べることを勧めます。
多くの誘惑が成功するのは、される者の側に、それに乗りたい気持ちがあるからです。
女にとって、見るに良く、食べるにおいしそうな木の実がある。触れたい、取りたい、食べたい。一口くらい大丈夫だよ。でも心配だなあ。
蛇が保証してくれました。死ぬことはない、と請合ってくれた。
そればかりか、善悪を知る者となる。期待以上の結果になるのでしょうか。
 
神のようになりたい、これは、ダビデ・ソロモンの統一王国時代のイスラエルの人たちにとっても大きな望みだったのでしょう。いつの時代になっても、人間の欲望は、変わることはありません。更に大きく、強くなります。地位、権力、財産、名誉、賞賛。
 
蛇は、人間の欲望が叶えられる、と保証します。
多くの文学作品が主題とするのは、欲望の充足が人生の主題・目的なのか、と言うことにあるでしょう。それが充足されない人生は、挫折、失敗なのか、と考えます。
石川達三著『青春の蹉跌』(毎日新聞に連載、若い男女がそれぞれに目標を持っている。その達成に励む。)
それを聞いた女は、恐れながらも手を伸ばす。取る、男に渡す、食べる。
 
 ここで問題が生じます。一切は女の責任であって、男は誘われて従っただけで、責任はない、と言うものです。女は男のあばら骨一本分の値打ちしかない、と言うのと同じ類です。女性を二次的、副次的存在としたい人たちの主張です。
聖書は、あくまで同等の責任があり、平等、対等な助け手である、と語ります。
 
禁じられた果実を食べた結果、何が起きたでしょうか。二人は、創造主なる神と等しい自分を見出したでしょうか。
目からうろこが落ちたように、彼らの目が開けました。
7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
人間の衣装は、飾ることよりも、身を隠し、守ろうとするものでした。
 
彼らは、神のような創造の力を持つものになることを期待しました。実際に見出したものは、互いの裸の恥でした。罪の姿だったのです。
偉大な神、全知全能、全ての人から仰がれ、礼拝される神の姿を見出しただろうか。
木の実を食べた結果見出したのは、裸で、それを隠したいと考えている自分たちでした。
ありのままの自分の姿は、神の禁止にもかかわらず、それを破った人間であり、相応しい助け手の発見でした。神との約束を破り、神のようになった、と錯覚しているイスラエルだったのです。これこそ、現代の私たちの姿でもあります。
 
このところを読むとき、現実のイスラエル王国の人々に向けた予言と考えるとよいでしょう。自力で繁栄を作り出した有能な人々。偶像礼拝をその国の中に引き入れて親しく交わる人々。エジプトから先祖を導き出してくださった神を忘れる忘恩のイスラエル、かれらに対して語りかけられています。そして、いつの時代でも、同じ状態の人々に問いかけ、神のもとへ立ち返るように招いてくださっています。
創造の秩序のうちに立ち返りなさい。待っていますよ。

2013年3月10日日曜日

助ける者を造ろう

[聖書]創世記21525
[讃美歌21;575,297,363、
[交読詩編]145:1~13、
 
15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
 
啓蟄も過ぎ、全国的に春の気配となりました。しかし此処北海道だけは、問題外の気候です。連続した真冬日は途切れ、かなり融けましたが、まだ雪が降ります。融けて、凍って、降って、積もって、この繰り返しが分かってきました。ゆっくりゆっくり、時が動いて行きます。最近は日差しが強くなり、融ける量が増えているように感じられます。やはり春が、一歩一歩近づいているのでしょう。
金曜夕刻から吹雪、3時ごろに除雪車。土曜昼前にいったん終わりましたが、深夜から今朝にかけてまた吹雪。今年の冬は、一年前の冬とは全く様相を変えています。北国の豊かな多様性に驚かされ、嬉しい気持ちになっています。
『八甲田山、雪中行軍遭難事件』を思い出します。青森、弘前の連隊が、雪中行軍演習を行う。日露開戦を想定しての陸軍省の指示。酸ヶ湯温泉方面は、二つの低気圧が同時に襲ってきたためまるで双子台風並みの状況となり、青森連隊が遭難したものです。新田次郎さんは、この事件を気象予報官出身の作家らしい作品としました。
 
事件の背景には、日本陸軍が冬季訓練を緊急の課題としていたことが挙げられる。日本陸軍は1894(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦し、そしてさらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦を想定し、準備していた。こうした想定は、事件から2年後の1904(明治37年)に日露戦争として現実のものとなった。
この演習は対ロシア開戦を目的としたもので、5連隊についてはロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなった際に、冬場に「青森~田代~三本木~八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査する事が主な目的であり、弘前第31連隊は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算であった。なお、両連隊は、日程を始め、お互いの雪中行軍の実行計画すら知らなかった。
 
「寒いときにはバッハを弾きなさい。寒いからフーガを繰り返し弾きなさい。ゆっくり、単旋律で始まり、次々に音が重なり、指が動いて行く。寒いときには、フーガこそ最適の練習曲であり、最高の音楽です。健康法にもなります。」
ヨーロッパで活躍している音楽家が、師匠から教えられたこと。
バッハは有名な『フーガの技法』という作品を残しました。ヘルムート・ヴァルヒャと言うドイツの盲目のオルガニストが演奏した二枚組のLPがありました。たまにこれを聞くと、何かとても落ち着いたものが生まれることを感じたものです。北国の素晴らしさ。
 
前回は、最初の人・アダームが造られたこと、エデンの園から流れ出る川のことなど、お話しました。今回は、人が造られた目的、あるいは意義に関して学びます。
私たち人間にとってエデンの園とはどのようなものでしょうか。前回、楽園であり、実在しないユートピア、ということを考えました。私たちは、労働を嫌い、働かないで、楽をして生きられる所がエデンである、と考える傾向があります。アダームは、そうした楽園に置かれて生きたのだ、と考えたいのです。
 
しかし主なる神は、「人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。神は、造られた人にも、存在の目的、意味をお与えになりました。労働です。
創造主は、被造物に、エデンの園を耕し、守る仕事を与えられました。
エデンの園は果樹園。エゼキエル318にはさまざまな木の名前が出てきます。香柏、モミ、ケヤキ。創世37にはイチジク。
エデンの園は、神の造られた所、其処も守るもの、耕す人を必要とされました。その必要を満たすのは、人・アダームです。人・アダームは、必要とされているのです。
今の世界にも、自分自身の生きる意味が分からない、と言って悩む人がいます。多くの場合、自分は誰からも求められない、必要とされていない、と考えています。
私たちひとり一人は、神によって、根源的に求められています。
 
 ただし、無制約ではありません。園の中の全ての木は、好ましく、食べるに良いものをもたらす木です。その全てから、取って食べることが許されました。「ただし、中央にある善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と禁じられました。これを読むと、神様は、なんと意地悪なのか、と感じます。食べてはいけないものなら、抜いて、見えないところに持っていけばよいのに、とも言うでしょう。
『食べてはならない』という禁止、制約は、『死なないように』という、神の人に対する愛に基づいています。更に神は、この愛に対応する人の愛を求めています。これが人格的関係、という言葉が示すことです。
創造主は、人を御自分との人格関係へと招いておられます。
 
 制約、禁止を守る、労働をする、というとき、人は助け手が必要になります。
いつの頃からか、「嫁を持たせにゃ働かん」と言われて来ました。
創造主は、多くの生き物を作り、アダームのところにつれてきました。彼は、それを見て名をつけましたが、思わしいものはいません。
名前をつけると言うことは、そのものを知ること、支配・被支配の関係になることを意味します。犬も猫も、創造主の意図した、助け手の関係ではなかったのです。
 
 ついに神は、アダームのあばら骨の一本を抜き取り、それをもって女を作り上げました。
アダームは、この女を見て言います。
「ついに、これこそ  わたしの骨の骨  わたしの肉の肉。
これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう  まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
 
男が先に造られたから偉いのだ、女は男の一部分の価値しか持っていない二次的存在、と主張された時代もあります。ここで語られているのは、そうしたことではありません。これは、時間的な順序や、値打ちを決定しようとするものではありません。ここで言い表されているのは、アダムが、イスラエルが見出したものは何か、ということです。彼は、かけがえのない自分の骨肉を見出した、と言っているのです。これを欠いては、自分自身が全うされない存在。本来的な同質性、一体性を示します。アダーマー(土)からアダム(男)、と同様のヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。
 「人、独りなるはよろしからず。」
この言葉に関して、あるところで質問されました。
「この言葉は、すべての人に当てはまるのでしょうか。また、結婚のことだけを言っているのでしょうか。私は、独身です。」中年の女性でした。
結婚に定められていない人も居ます。パスカル、コルチャック先生もその一人でした。
高知教会の多田素先生、北森嘉蔵先生も終生独身でした。
全ての人は、婚姻関係を超えて,助け合い、応答する人格関係に招かれています。
 
24節は、ユダヤの結婚観の根底の考えです。元来、イスラエルでは、男と女とは互いに相思相愛の共同体を作り、家庭をもつのが当然とされていました。原始社会の乱婚から発した婚姻関係の発展した形を示しています。
 
25節「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とあります。彼らは未だ罪を知らず、恥の意識も生じなかったのです。「恥は、罪の外的表現である」と言われます。
 
第二章は、ダビデ・ソロモン王の統一王国時代に編集され、読まれたものです。
当時、イスラエルは大変な繁栄を誇っていました。領土も最大になっています。ハマテの入り口から紅海まで、と言われました。諸国の富が入ってきました。物が動く時には、人も付いて来ます。そしてそれら人や物に関わる考え方も付いて入ってきます。
そうした中で、名前を伝えられていない預言者が、神の民イスラエルとは、このような存在なんだよ、と語りました。それが、このヤハウェ資料です。
わたしは、これをイスラエルの信仰告白だ、と考えた時、感動しました。
多くの者が、全く違う道、偶像礼拝へ走るとき、自分の信仰を告白し、神の御心に従え、と語りました。宣言しました。私たち一人一人にたいする信仰への招きです。

2013年3月3日日曜日

エデンの園

[聖書]創世記24b14
[讃美歌21487,298,225、
[交読詩編]86:5~10、
 
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
2:5
地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
2:6
ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
2:7
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
2:10
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
2:11
第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。
2:12
その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
2:13
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。
2:14
第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
 
昨年12月から、この冬の降雪量は、異常なほどに多い、と報道されています。
そこで悪い冗談を言ってしまうのが私です。これが昨年の冬だったら、尻尾を巻いて逃げ出しました、最初の冬がこれほど大雪だったら逃げ出しただろう、と言うわけです。
これは冗談です。どれほど真剣そうでも、真面目な顔でも、ジョ-クです。赴任した年の冬が大雪だったとしても、男の意地に掛けても逃げ出したりはしません。出来ません。
どうぞ誤解なさいませんように、お願いしておきます。
 
さて、本日は創世記第24節以下になります。第1章とはだいぶ容子が違います。
1章は、繰り返しの多い荘重な文体。礼拝で朗読されるのに相応しい感じです。事実、バビロン捕囚の民の間で、その礼拝の折に読み上げられたのでしょう。
2章以下の、第二の創造物語は、擬人法を用いて、生き生きとした語り口で話を進めます。おそらく聞く人たちも、生き生きと伸びやかに生きているのではないでしょうか。
学者たちは、適切な状況を推定しました。紀元前10世紀、ダビデ・ソロモンの統一王国時代を、この背景とします。
 
この部分が、ダビデ・ソロモンの統一王国時代に編集され、読まれた、と考えるとよく理解できるようになります。あの時代、イスラエルの民衆は、周辺諸国と同じような中央集権国家にすることを求めました。その求めを神に取り次いだのが預言者サムエル。厳しい警告とともに初代の王サウルが立てられました。彼は南のベニヤミン族の人。二代目がダビデ王、ユダの部族の人。三代目が、その息子ソロモン。ダビデ・ソロモン時代は、イスラエルの歴史の上で、忘れ難いほどに繁栄しています。王国の領土を示すのに、「北はハマテの入り口から、南は紅海まで」と言われますが、これは、イスラエルの最大版図の表現であり、最大の繁栄を示す言葉です。
 
ある国の繁栄は、その軍事、経済、文化、そして宗教など多様な力の総合でしょう。この時代、北のアッシリア、バビロニア、南のエジプト、クシなどは内紛もあって、内治に勢力を取られていました。その隙を狙ったようにイスラエルは、勢力を伸ばし、国土を拡張しました。
 
繁栄する時に起こることは、いつの時代でも同じです。物がたくさん入ってくる。それとともに人がついてくる。更に異なったものの考えも入ってくる。
このことは、私たちの国でも起こりました。1945年夏を境に、日本国は敗戦国となります。対戦国が勝利者として進駐してきました。占領軍です。物資が入り、人が来て、その思想も入ってきました。生活スタイルは一変しました。靴を履き、洋服を着て、パンとスープ、肉を食べ、クリスマスやバレンタインデイを喜ぶ。独立を回復したものの、同盟の名の下に、戦勝国の意志が優先されることは変わりません。経済大国になりました。繁栄を楽しむことも出来ました。
 
繁栄の時代には、人間たちの間に、自力ですべてを成し遂げた、という満足感と誇りが見られるようになります。多くの場合、神を忘れた傲慢になって行く。そして、自分たちの力が、豊かで余裕があるこの生活を築いたのだと誇るようになります。
力を持ち、繁栄すると、人間社会のどこでも傲慢さが出てきます。自分の力でこれを築いた、俺たちの力だ、神は、我々のいうことを聞くものだ。願いは何でも聞いてくれる。
こうした傲慢な人々に向けて、この物語は、語られました。
 
初めの人、アダームは、土のチリから形づくられました。いわば泥人形、わが国には多く産出されていた。信楽焼きの狸、博多人形も、古代の埴輪もこの一種。素材としては、至極ありふれたもの。それ自体には、値打ちなど全くありません。
神に造られ、命の息を吹き入れられ、生きたものとなったことに、大きな価値があります。人の素材は、価値のないものです。それが、神の息を吹き入れられることで生きるものになりました。神の息は、ルアッハ、ギリシャ語に訳すとプニューマ。霊と訳される言葉です。人間は、それ自体としてはなんでもないけれど、霊を吹き入れられ、生かされて生きています。これが、他の被造物との決定的な違いです。
 
人間の壊れやすさ、無価値であること。神の霊によって生かされて生きていること。
楽園エデンも神がお造りになったものであり、人は、その中に置かれたものであること。
これらは皆、傲慢な人を戒める警告の予言として語られました。
 
エデンの園は、神が造られた世界です。創られた人間は、そこでこそ生きるべきものとされました。被造物である人間、男と女は、神の世界の中に生きることが定められています。自分が造った世界に生きるのではありません。神の世界で、他の被造物たちと共に生きるべきもの、とされました。
 
エデンは、人間にとっての楽園、理想郷と理解されています。
世界中に理想郷の伝説があります。
中国では、桃源郷の名で知られています。
 
スコットランドはブリガドーン。ハリウッドのMGMは、ジーン・ケリー、シド・チャリシーが主演したブロードウェイ・ミュージカルの映画化作品『ブリガドーン』を、1954年に送り出しました。これは、スコットランドの伝説の理想郷。100年に一度、高原の霧の中から姿を現す村の名。『雨に唄えば』『パリのアメリカ人』の路線です。
この村の住民が一人でもここから出て行くと、この村は二度とこの高原に姿を現すことが出来なくなる。ところが、失恋した青年が、この村を出て行く、と言って姿を消す。
 
ユートピア、空想上の実在しない理想郷。
イギリスの作家、HGウェルズは『タイムマシン』1895年を書いた。時間旅行者の見た80万年後の世界。地上に暮らす人間は、ユートピアにいるもののようである。ところが、それは表面だけのことで、実は地下に暮らすモロク人の捕食生物であり、彼らの食用に放牧されているだけであることが示されます。
私たちは、働くことなしに衣食住が保障されるようなら、それこそ理想郷、ユートピア、エデンの園、私の楽園と考えるだろう。しかし、どのように理想的であり、楽園であっても、人が生きる所には、悲しみや、苦しみがあります。
 
 創造主は、被造物である人間に対して、そのようなユートピアを備えようとはしていない。彼らに、なすべき仕事を与えておられる。
また、何でもしてよいとも言われない。そこには厳しく禁止を告げておられる。
 
川への言及は、どのような意味があるのでしょうか。
四本の川は、11節から14節に記されます。
2:11 第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。
2:12
その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
2:13
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。
2:14
第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
 
第一の川は、不明です。インダス川と推定する人も居ます。
第二は、ナイル川と見て間違いないでしょう。
そして、ティグリス・ユーフラテスの両河です。
 
これを書いた人は、川の畔に生じ、繁栄した古代文明を知っていたのでしょう。
 
イスラエル民族には、エジプトを脱出してから、荒野をさまよった40年間の記憶が刻み込まれている、と考えるならば、水のない、過酷な生活での水に対する渇望が潜んでいるのでしょうう。これは詩編465が暗示しています。
 「大河とその流れは、神の都に喜びを与える。」
また、黙示録2212も、川のほとりの、命の木の実を示します。
 「命の木があって、年に12回実を結び、毎月実を実らせる。そして木の葉は諸国の民の病を治す。」
 
エゼキエル47112も、同じようなことを記しています。聖所から流れ出る水が、水質を浄化し、木の葉と実は、諸国民の食物と癒しの希望となる、と。
これを読んで、驚かされます。エゼキエルの時代にも、水質汚濁の問題があったのか、と言うことです。「人間が住み始めると、そこには公害問題が発生、拡大する」、と書かれていたことを思い出します。聖所から流れ出る水によって川が浄化され、賜物としての生命は、生かされるのです。
 
エレミヤ213も語ります。
 「真に、我が民は二つの悪を行った。 生ける水の源であるわたしを捨てて
 無用の水溜を掘った。 水をためることのできない こわれた水溜を。」
預言者も、創世記記者も、神への本当の信頼を忘れた人々への警告の予言を発しています。それは、現代の私たちへの警告でもあります。活ける水によって生きるものとなりなさい、と。私たちも活ける命の水によって生かされましょう。