2013年4月28日日曜日

恵みと平安があるように


[聖書]フィリピ1111
讃美歌21]280,493,522、
[交読詩編]9819

ゴールデンウィークに入りました。何が、ゴールデン・黄金なのか、考えましたが、よくわかりません。戦後間もなく、休む間もなく一生懸命に働く日本人の間に、4月末から5月初旬にかけて日曜、祝日が集中するようになりました。貴金属のように貴重な休日が続くので、GW、ゴールデンウイーク。これは、私の考えです。

本日から、フィリピ書を読んでまいります。

初めに、説教の主題と聖書箇所について、お話しておきましょう。

説教者の個人的な主観が強くなることは好ましくない。

聖書の極短い所を切り取って語るとき、何でも語れることになる。


例・ローマ1215「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
個人的な経験談でも良いし、絆のことでも。先週は幼稚園の誕生会でお読みしました。保育の話にもなります。より長く読むなら、文脈が明確になる。文脈または前後の関係が重視される。パウロの意図は、愛を語ることであり、「善をもって悪に勝つ」ことです。


最初に主任者となった教会では、時間はたっぷりあります。じっくり説教してください。
156名どまりの礼拝者、一・二を除いて、高齢者ばかり。ときに一時間を超えることも。
以来、習慣となり、短くても40分の説教が続いた。その間、学校では、6分か17分程度に決まっていました。
厚別に来て25分ほどが要請されている、と感じ、努力してきました。最近ようやく、感じがつかめてきたようです。かつて1回で説教したものを二回に分ける感じ。

フィリピ1111は、かつては、1回の説教でも足りなかった。そこで今般、三回に分けることにした。1回でどこまで語れるか、予定することは難しい。融通が利くようにした、というわけです。

次に、この手紙に関する概略をお話しましょう。
この時代、すでに手紙の書き方、形態が周知されていました。
だれだれから、だれだれへ。多くの場合、その居住地が記されます。いわば、自己紹介。
多くの場合、知り合いに向けて手紙を書くので、この部分は不要、と感じるかもしれない。それにもかかわらず、パウロは、いつでも自己紹介する。自己顕示欲の塊り、自己主張の強さ、偉いという思い上がり、などいろいろ解釈されています。

「キリスト・イエスの僕、パウロとテモテから」、これはパウロの自己理解、認識です。
(パウロス カイ ティモセオス ドウーロイ クリストウー イエスー)
キリスト・イエスの僕。ドウーロイは、複数形。奴隷を指すことば。
この時代は、奴隷によって成り立っています。消費財の生産や家事労働、教育、医療、商取引、などあらゆる面で重要な役割を担っていました。すでにモーセの時代、エジプトで、奴隷の国外脱出事件が起きました。その国、その社会にとっては、重大事件でした。生活が出来なくなってしまいます。出エジプト記に記されたことです。イエス、パウロの時代でも、重要な労働力、財産でした。19世紀でも、まだ奴隷に頼っていました。19世紀半ばの奴隷解放運動のときも、使用者側も、奴隷の側も、生活ができなくなる、と言うことで解放に反対しました。

自分が、キリストの奴隷である、と言うのは、卑しい身分です、と言う意味があるでしょう。同時に、働き人としてなくてはならない大事な存在、欠くことのできない重要な存在である、との主張が隠れているように感じます。

パウロに関しては、使徒言行録819章に報告されています。これは、福音書記者であり、パウロの伝道旅行に参加した主治医ルカの手になるものです。同じような雉は言行録22章、26章に記されています。また、ガラテヤ12章には、パウロ自身の手による、と考えられる自己認識が語られています。おそらく、この部分は、ルカには語らなかったことなのでしょう。

テモテに関しては、言行録161その他に記されます。この16章は、パウロとルカの出会いについて語ります。9節に、トロアスでひとつの幻を見た、とあります。ひとりにマケドニア人が顕われ、助けに来て欲しい、と懇願した。このマケドニア人が青年ルカ、と考えられています。

「フィリピ」について
ギリシャの北、マケドニアの主都。アレキサンダーの父フィリッポス王が建設。
ローマの時代には、拡張され、市民権を有する植民都市となります。ローマは市民の国防軍から、傭兵による遠征軍が主体となり、その古参兵たちが、満期除隊、引退後の居住地としてフィリピの土地を与えられた。

共和政ローマは、外敵が侵入すると、それを撃退するために市民を招集した。市民は、装備を自前で整えて指揮官の下にはせ参じた。侵入軍を撃退すれば、市民軍は解散される。通常、数ヶ月で、市民は家に帰り、仕事に復帰することが出来ました。事情が変わり、戦争が、一年中続くようになりました。市民の召集だけでは間に合わなくなります。傭兵の登場です。多くの場合、兵士たちには、さまざまな機会に、満期になれば、報奨金とローマ市民権、それに土地と家を与えよう、と約束されていました。兵士は、これが守られることを信じて、困難に耐え、勝利を目指しました。このヴェテランズを植民することで、その地方の治安も維持されました。

帝政ローマは、国を護る為には、国境を遠い所に定めればよい、と考えた。拡張政策は、長期に渉るため、もはや市民軍では無理、となり、傭兵を中心に訓練を重ねた精強常備軍が制度化され、不敗の軍団神話が生まれます。その頂点、紀元2世紀後半、ハドリアヌス帝は、拡張政策に見切りをつけました。

その好例が、イングランド、スコットランドの境を定めた長城です。ハドリアヌス・ウオールと呼ばれ、ローマ帝国の最前線を示し、世界遺産とされています。最初は、ケルト人たちが馬で超えることが出来ないほどの高さ、4~5メートルであったが、今では羊でも乗り越えられるほどである、と伝えられる。17世紀ごろまで、ブリトゥンとスコットランドの境界として機能していた。

この手紙は、獄中書簡のひとつとされます。(フィリピ、コロサイ、フィレモーン、エフェソ、これにテモテを加える人もある)筆者パウロは、場所は不明であるが、牢獄につながれている(ローマ、カイザリア、等)。決して黄金の日々を過ごしているわけではない。日々、暗い環境で、暗い気持ちでいたことだろう、と考える。

それにも拘らず、書かれたこの手紙は、喜びにあふれている。今に至るまで、この手紙を読む人は、喜びの書簡、という呼び名を与えている。闇の中にいながら、そこを光り輝く所に変えています。

「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
(カリス フミン カイ エイレーネー アポ セウー パトロス ヘモーン カイ
キュリウー イエスー クリストウー)
カリスは、特別な好意を指します。思いやりのある扱い、とも書いてあります。
エイレイネーは、普通に「平安」とも訳され、シャロームのギリシャ語訳と考えられています。ヘブライの伝統では、主なる神が共にいましたもうこと、と考えられます。従って、手紙の発信人パウロは、自分の獄中には神が共にいてくださっています。同じ神が、あなた方とも一緒にいてくださいます、と確信しているのです。

 この部分は、前文祝祷と呼ばれます。主イエスが、重要なことをお話になるとき、アーメンで始められたことを思い出します。ヨハネ519251017、「はっきり言っておく」、文語訳は、「まことにまことに」、口語訳は、「よくよく」、と訳していたものです。
語られる前から、そのことについて「これは真実である」と言っておられるように感じました。パウロも、手紙の冒頭で、その内容に関して祝福を与えているのです。
『主なる神が、共にいてくださいます』、この内容を保証して下さいます。

パウロは、かなり自由な囚人生活をしていたようです。ローマ時代の牢獄は、囚人を徹底的に苦しめるような、闇の世界、冷たい、暗い日々を送る場所でした。私たちの人生は、格子なき牢獄に似ています。出口の見えない長い長いトンネルかもしれません。それは、懼れるべきことでもないし、悲しむことでもありません。

パウロは、そうした所で、喜びの光を指し示してくれています。そこにも、神とキリストからの恵みが与えられるのです。そして、その所が、そのままで黄金の場となり、光り輝く、充実した喜びの日々を過ごすことが出来る平和な時となります。

感謝して祈りましょう。

2013年4月21日日曜日

追放も神の恵み

[聖書]創世記32024
[讃美歌21]280,361,437、
 [交読詩編]116:Ⅰ~14
  
金曜日のニュース、医療の分野で開発を推進するための委員会が発足する、と報じられました。山中伸弥教授のノーベル賞が契機となり、考えられたようです。45年ほど前に伺った講演は、すでに、この国が平和に存続する道は此処にしかない、と語られました。元最高裁長官、横田喜三郎さんです。世界の人々の健康に貢献することが出来るなら、その国を世界の国々は敬意をもって守るだろう、というものでした。世界連邦を構想。
健康と長寿は、すべての人の求める幸せでしょう。病気、貧困、戦争に反対。
 
創世記23章は男と女の創造とこのふたりの堕罪、そして楽園喪失の物語です。
神に創られた人間は、エデンの園に置かれました。
園の中にいる男と女には、職務がありました。この被造物は、園の世話をし、手入れをすることです。人間は、創造の当初から、招かれ、職務を与えられ、神の作業に加わることを期待されました。
彼らには、すべてのことが許されています(Ⅰコリント6121023)。この許可は、基本的な生命維持のためのもの、と理解されるでしょう。
そして、彼らには禁止があります。不思議なことに、物語は、禁じられた木の性質などには、関心を持ちません。告げられることは、禁止の事実、語られるお方の権威、服従することへの徹底的な期待でしかありません。
 
 アダムとエバは、この神の期待を、創造主が禁止されたことを、見事に破りました。
彼らは、自分の欲望に負けました。約束を守ることが出来なかったのです。かれらは、裏切り者になりました。
「神のように賢くなり、善悪を知る者となる」との誘惑に克つことは出来ませんでした。確かに彼らは、賢くなりました。裸の恥を知り、神に対して罪を犯したことを知り、神の権威を懼れることを知りました。その結果は、身を隠すことでした。善悪を知りました。そして残念なことに、初めにあった、呼べば答えるような、神との親密な関係は消えてしまいました。神を恐れ、身を隠すようになりました。此処に罪があります。
 
罪が存在する。このことが世界の特質です。
恵みが存在する。このことは、神がご自身を表す方法です。
神の恵みは、まさに罪に対する妥協、と考えざるを得ません。
「それゆえに、神の恵みそれ自体が、人間の罪を予想している」(K,バルト・教会教義学)。
罪を可能にするのは、神の憐れみに他ならない。〈ブルッグマン〉
 
大地は呪われたもの、人はこれと闘い、苦しんで糧を得るしかありません。
人は塵に帰る、大地に帰る。初め、この大地は恵みに満ち溢れたものでした。被造物が生きるために必要なものを、溢れるように出してくれました。その大地は、人間の行為の結果、すでに呪われたものとなり、人間が汗を流し、労苦して、糧を得るようになりました。呪われた大地に帰る死は、安息ではないし、休息とも言えません。
 
アダムとエバは、エデンの園から追放されます。神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せられました。これは「悲惨な状態に向かうための装備(フォン・ラートによるグンケルの引用)」です。このために、主なる神は、創造した野の獣の命を取られました。神のようになろう、これは人間の欲求であり、野望でした。ひとの欲求・野望は、いつの時代でも、混乱を引き起こし、何の罪もない命を、そのいけにえとして求めてきました。

 パラダイスからの追放、「失楽園」と言われます。しかしまたこの最後のところで、私どもは大切なことを知らなければなりません。それは、神様は神様の完全な守りから自ら離れてしまった人間、堕落した人間を受け入れて下さっている、ということです(フォン・ラートによるボンヘッファーの引用)。
 そして神様ご自身が、約束を破った彼らに皮の衣を与えられます。被造物の命を犠牲になさったのです。これによって、神様は、積極的に人間を守るものとなってくださいました。賢くなった二人は、自分の身を守るために木の葉を綴り合わせることしか出来ません。創造主なる神は、獣の皮を取り、彼らにお与えになりました。ふたりに、命を与えられたのです。
そう考えると、命の木から人間を遠ざける事も、神様の危惧でもなんでもない、むしろ何が善いもので、何が害をなすものかを自分で決断する存在になってしまった人間、やむことなく求め続ける人間を守るためのわざであったと言えるのです。人間にはそのようなものは、「今の状態では、到底背負いきれないもの(フォン・ラート)」なのですから。
追放も神の恵みなのです。
 
パウロは知恵と愚かさとを理解したひとです。彼は、人間の手の中にある知恵が死をもたらす可能性のあることを知っていました。けれども同時に彼の宣言には、良き知らせもあります。神へのばかげた信頼と、隣人へのばかげた、取るに足りない配慮とが、生命をもたらすものである(Ⅰコリント1:1825)と知っていました。
 
 この楽園追放の出来事を読んだ人の中から、質問が出ます。
神様は、冷酷だ。二人を裏切らないように造らなかった神様自身の責任があるじゃあないか。楽園に置いておいても良かったのではないか。
結局、神様って、けちんぼなんだ。
神様の愛っていうけど、やっぱり、自己中心で、自分のご都合じゃないのか。
 なかなか面白い疑問、質問です。
 
 約束を守らなかったから、二人を罰し、楽園からも追い出してしまう。
そのように造った神様の責任をどうするのか。
自分の楽園には、自分の意に適うものしか置きたくないのだろう。
園の中の、二本の木の実が、惜しくなったのじゃあないか。
 
 
追放とはなんだったのでしょうか?
楽園から追い出し、その後ろで扉をピシャッと閉じてしまう。
彼らが、決して戻ることが出来ないように、ケルビムと炎の剣に、その道を守らせる。
ずいぶん丁寧に、また厳格です。それも、侵入を許さない、という面において。
 
追放は、確かに命の木の実を、彼らが食べることのないようにするためでした。
それは神のご都合でしょうか、吝嗇でしょうか。私たちであれば、そうかもしれません。
神様は違います。彼らの状況を、よくご覧になります。彼らは、自分たちのしたことを、既に後悔しています。
 
楽園追放の目的、意味は、「ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木への道を守らせた」、という一文に良く顕われています。ふたりが、そのの中で、命の木から実を取り、食べないように。また帰ってきて、侵入しないように、とされています。
「ケルビム」は、有翼人面獣像.大小さまざまな像が残されている。大きなものでは、幕屋の契約の箱を守るものが、よく知られる。出2518、代上2818、ヘブ95、その他。新共同訳末尾の用語解説参照。イザヤ3716は、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と記している。
「回る炎の剣」は、他に用例がなく、また図画中にも見受けられないため、説明不能。
 
 主なる神は、エデンの園の東に彼らを追い出し、その土地を耕して、生きるようにされました。呪われた大地と闘うようにして、生きることになりました。此処に文化が始まります。多くの言語は、カルチャーを語源として、文化を表現します。これが、耕すと同義です。
 
創造主は彼らを愛しています。彼らの苦しい状況を、その失敗ゆえの苦境を理解しています。この楽園で生き続ける事も出来ます。しかし、彼らは、善悪を知る木の実に手をつけました。命の木の実を食べる欲求に克つことができる、とは考えられません。
そうしたなら、罪の重荷を担ったまま、永く生きるようになります。裏切り者たちですが、神の愛は、彼らを守ることを選びます。自分たちの勝手で、神の守りをかなぐり捨てたものたち。しかし彼らが、そのままで永く生きることは、決して喜びではありません。
それは、このふたりにとっても、神にとっても喜びとはなりません。
 
私たちは、長生きを求めます。それも、ただ生きているのではなく、健康で活動しながらの長生きです。これが多くの人により「幸せ」、と言われるような生き方でしょう。
 
本来、無限の命だったのでしょう。そこに終わりの時を組み入れられました。命の木への道が閉ざされたことです。罪の重荷を担ったままで永く生きることのないように、という神の憐れみによります。追放も神の恵みです。
 
今朝は、二つのことをお話しました。
第一は、裏切り者となったふたりに対し神は、皮の衣をお与えになったこと。
命を与え、身を守ることが出来るようにされた。ここに神の愛が示される。
第二は、罪を担う二人に、その命の終わりの時を与えられたこと。
重荷を担い永遠に生き続ける事は、喜びではない。
アルベール・カミユは、その著書『シジフォスの神話』で、この問題を書きました。
シジフォスは神の世界よりも人間の世界に留まることを希みました。
その彼に人間の世界を選んだ罰として与えられたのが
先の尖った山へ岩を運び続ける「不条理」といわれる人生でした。
 
私たちの人生でも、神から拒絶され、周囲の人から見捨てられた、と思える時があるはずです。そうした時、失楽園、楽園追放を思い出しましょう。あの中にも神の恵みは示されていたことを。そうすれば、慰め、励まし、新しい希望が見出されるでしょう。

2013年4月14日日曜日

善悪を知る者となる

[聖書]創世記3819
[讃美歌21280,227,205、
[交読詩編]16:5~11、
 
本日の聖書は、失楽園、あるいは楽園喪失の物語。あるいは、その場面です
蛇に誘われ、女は木の実を食べ、男にも勧めて食べさせました。
決定的なことは、「決して死ぬことはない。神のように善悪を知る者となる」との蛇のことばでしょう。このことばは、女にとって力がありました。彼女を捉えました。
そしてそれを実証するかのように、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように見えました。その結果はどうなったでしょうか。神のようになったでしょうか。
 
ふたりは、裸であることを知りました。それは恥を知ることでした。
あわてて、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。
これが最初の衣服・衣装です。裸の恥を覆い隠すのが、その第一の意味でした。肉体の裸は、現代のユダヤ人の間でも恥ずべきこととされています。ナチ・ドイツの強制収容所の記録があります。その中で、シャワー室と称されるガス室へ行くユダヤ人が一糸まとわぬ裸にされているのを見ます。注意深く見るべきです。親兄弟にも見せることのない裸を、衆人環視の中で強要されている。大変な恥辱であり、虐待なのだ、ということを。
 
裸、ということばには、もうひとつの意味が隠されているようです。それは、内的な、精神の裸です。ふたりは、神との約束を破ったことを知りました。もはや、無条件で神に守られる自分に帰る事は出来ません。なんと愚かなことをしたものでしょう。これからは、誰にも守られないものとして、自分を自分で守らなければなりません。
賢くなる、とは自分の愚かさを知ることだ、という意味では当たっていました。自己防御、自己防衛のためには、無責任に振舞うことが出来る、という意味でも当たっていました。ふたりは、その責任を他のものに転嫁することを知りました。
 
「風の吹く頃」、園の中を歩む神の足音が聞こえたようです。神の足音を聞いた二人は、木の間に身を隠します。彼らは、合わせる顔がない、とでも感じたのでしょう。
神は、人がいるところを知らなかったのか?二人が身を隠したことに気付かれなかったのだろうか。「どこにいるのか」と問いかけています。
 
どこにいるのか、これが、私たちの間でのことなら、ずいぶん悲痛な呼びかけではないだろうか。若い人は、自分が結婚する相手は、今どこにいるのだろうか、と問いかけるでしょう。愛する者同士が相手の生活を知らない。今頃はどこに?
愛する時、相手のすべてを知りたくなるものです。
夫婦・親子であっても、相手を見失います。何を考えているのか、分からない。そうした時にも、「あなたはどこにいるのか。」この問いには、愛が響いています。
 
 造り主は、既にご存知でした。禁じられた木の実を食べたことを。禁止したことが、守られなかったこと、それゆえにこそ、ふたりが身を隠したことを知っていました。
そこで、11節以下の問答になります。
 
おとこは、あなたがお造りになり、私の傍らに置いてくださった、あの女が勧めました。
木から取って、与えてくれたので食べました、と答えます。女が、と言いながら、実は創造主、神ヤハウェに責任を擦り付けています。
 女は、蛇がだましたので、食べました、と答えました。最近、この社会では、詐欺が横行しています。成りすましから進歩、発達、悪辣化して、本格的なものになっています。さすが賢いものだ、と感じ入るほどです。だましのテクニックの基本は、蛇の中にあります。蛇は、神の造られたもののうち、最も賢かったのです。蛇を賢く造った神の責任だ、といっています。蛇は、神の言葉を疑わせ、やがて違うことを信じさせました。
 
 神は、裁きを下されます。
蛇は、呪われたものとなり、這い廻り、塵を食らう。これは、蛇の体内には、手足の痕跡が残っていることで証明される、という人があります。聖書は、解剖学に基づきません。そうした関心は持っていません。
蛇と女の間には敵意が残ります。これは、現代に至るまで、女の子孫の中に蛇に対する、理由なき敵意が存在することから考えられ、語られたのではないか、といわれます。
 
女に対しては、産みの苦しみを大きくする、といわれます。新しい命の誕生、本来なら大きな喜びになるはずです。そこに苦しみを加える。現実にある苦しみの起こりを主張している、といわれます。更に、男がお前を支配する、とも語られます。相応しい助け手として造られたはずです。互いに相手を利用しよう、陥れようとする現実があったのかもしれません。
アダムに対しては、汗を流して労働し、その結果として、食べ物を得る。呪われた大地は、お前の苦しみを見なければ成果を与えない、といわれます。労働は、祝福とは言われません。そして人間は、この敵対的な大地に、最後に帰って行きます。身を横たえるのです。(これは、恐ろしいことです。神の恵みの手から、呪われた大地に放り出されるなら)。
 
結局、この物語は何を語っているのでしょうか?
人の世は、独りよがりな思い込みと錯覚、誤解に満ち溢れています。その連続です。
神のように、善悪を知る者になるとき、ひとは知りたくないこと、必要のないことも知ることになりました。人は、知識の量を誇り、あれも知っている、これも解かっていると言います。知識によっては、他の人を慰め、励まし、力付けることは出来ませんでした。むしろ、その知識によって、他の人を傷つけ、苦しめることが多かったのです。
 
私たちにとって、本当に知るべきこと、知るに値することは何でしょうか。
ハイデルベルク信仰問答は、その第二問で、知るべきことは三つある、とします。
答え。「三つのことです。第一には、私の罪と私の悲惨とが、どんなに大きいかということ。
第二には、私が、どのようにして、私のあらゆる罪と私の一切の悲惨から、救われるか、ということ。第三には、私が、どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか、と言うことであります。」
 
 大学生の時、メモしたことを覚えています。
「つみ、罪、罪。罪を認めなければ、聖書の福音は成立しない。残念ながら、どれほど贔屓目に見ても、自分のうちに子供の時から大きな罪が巣食っていることは否定できない。」
覚罪意識、というのだと教えられました。私たちの知るべきこと。そして、この善悪を知る者になることを求めたいのです。いまや、この「善悪を知る者になる」ことを神が求めておられるからです。