2013年11月24日日曜日

受胎告知


[聖書]ルカ1:2638
[交読詩編]89:20~30、
[讃美歌]Ⅱ編144、讃美歌21;386、175、練習246(旧101)

説教の初めに言い訳をするな、と教えられました。そうするつもりはありません。
ただ、私たちはひとつの教会です。事情は共有しておきたい、と願っています。

厚別教会の講壇をお預かりするようになって、説教の計画を数ヶ月前に作成するようにしてきました。実際は三ヶ月間でしょうか。二ヶ月が終わると、残るひと月の先、二ヶ月間を補充作成する形になります。現在進行中のものは、10月中ごろに、11月、12月、そして1月はじめまでの予定をきめています。
113日聖徒の日(永眠者記念日)《主はわたしの羊飼い》詩編23:1~6、
1110日《テオフィロさまに献呈》ルカ1:1~4、
1117日《祭司ザカリアは老人》ルカ1:5~20、
讃美歌8、464、78、交読詩編77:5~16、
交換講壇、持田の説教題《恵みを与える神》ヤコブ4:1~10、
讃美歌21;481(旧;259)

簡単に申し上げましょう。予定表に交換講壇のことを書き込んでいなかったために、17日の説教が欠落しました。せっかくルカ福音書を連続して読んで行こう、と考えたことです。その部分も含むように、今朝の説教を考えています。

福音書記者ルカは、献呈の辞を含む序文に続いて、その本文を先ず、祭司ザカリアへの御使いの現われをもって始めます。

当時の祭司の生活、神殿での働きは年一度、一週間

その他の時の住処、近辺の村々に、ザカリアは、組の人々から離れた所にすんでいたようだ。推測は他にもなされる。妻は、アロン家の娘。名門の名を残すことが期待されてきた。アロンはモーセの兄、口が重いことを自認するモーセの代わりに語る人。神の言葉を語る人。イスラエルでは、アロン系の祭司とレビの部族の祭司が重んぜられました。

 

直系男子が跡継ぎになるため、この時代、その数は二万人以上とも言われます。彼らは24の組に分けられ、年に二回? 一週間の務めが割り当てられました。過ぎ越し、五旬節、仮庵の三大祭には、全部の祭司が務めにつきました。香を焚く係りは、大事な務めとされ、多くの者は生涯に一度でも勤めたいものだ、と願いました。

 

祭司は、ユダヤ人の純粋な血筋の女性とだけ結婚を許可されました。中でもアロン家の血筋の女性は、他の誰よりも望ましく考えられていました。それだけに優秀な男子が選ばれ、血筋を継承する男の子の誕生が期待されました。

 

しかしその期待も空しく、すでに老齢となり、望みは絶えた状況。

二人は、支え合い、慰め合いながら、神の御旨に従い、非の打ち所のない歩みを続けています。それにもかかわらず、この二人に対する村人の目は、たいそう厳しく感じられていたようです。25節から。そのことを知らされます。

「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

 

 前に戻りますが、祭司ザカリアは、神殿で天使ガブリエルから驚くべきことを聞いたとき、それを信じることができませんでした。私たち夫婦は、共に歳を取り、そのようなことが起きるはずはありません。

これを読むと、いつもアブラハムとその妻サラのことを思い出します。創世記181112

さてアブラハムとサラとは歳が進み、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。それでサラは心の中で笑って言った。『わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか』。

天使ガブリエルは、この旧約時代の族長夫婦と同じ反応に対し、ザカリアが何も語ることが出来ないようにします。神殿の中で何が起きたか、知らせることが出来ません。

外にいた人々は、何事が起きたか、推測することになります。

やがて生まれてくる男の子、その名はヨハネ。イエスと親戚で、半年ほど年長者となります。一般的には、洗礼者ヨハネと呼びます。

 

『受胎告知』は、ナザレの村里に住む娘マリアのもとに伝えられたことを指しています。彼女は、ダビデ家の継承者ヨセフの婚約者です。まだ結婚状態ではありません。

ギリシャ語ではパルセノス、処女、未婚の女、おとめ、少女、

 

同様のことは、マリアの親戚の女エリサベトにも与えられていました。

実際は、神殿の祭司として職務を執行中のザカリアに告知されました。

『受胎告知』は、芸術家の感性を刺激するようです。『絵伝イエス・キリスト』という題の本があります。何枚もの絵が紹介されています。すべてマリアへのみ告げです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ、フラ・アンジェリーコ、その他。

『聖書人名辞典』では、ザカリアの絵があることを記しますが、エリザベトと並んだものや、洗礼者ヨハネの誕生が主題となっていて、『み告げ』ではありません。

 

大変美しい絵画です。実際の出来事は、あのように美しく、素晴らしいことだったのでしょうか。あの頃、ユダヤの男子は18歳から20歳、女性は134歳が適齢期、半年ないし一年の婚約期間が置かれるのが普通でしたが、婚約者たちは法的にすでに夫婦とみなされていました。

従って婚約解消には、離婚と同じ手続きが必要であり、婚約中に相手を裏切るような性的不道徳が行われると、姦通として死刑が科されました。

そうです。この受胎告知には、死の影がちらついています。輝くような知らせに見えて、この社会内では、決して喜ぶことの出来ないことなのです。38節、マリアの言葉は、絶望的な状況にもかかわらず語られたマリアの純粋な信仰です。

 

受胎告知を受けたマリアは、大変敬虔な態度で「お言葉どおり、この身になりますように」と応えています。34節、ここには、異なるものもあったことが示されます。不安と懐疑です。当然あるはずのものです。

その故にこそ、マリアに動揺があったからこそ、エリザベトにも同様の告知があったことと、すでに六ヶ月に入っていることが示されます。

人間が当然抱く不安と懐疑、動揺を鎮めるものは、神の言葉の確実性です。

 

福音書記者たちは、常識破りで不合理な受胎告知、男女間の交渉抜きの懐妊という着想を何処から得たのでしょうか。世界の諸国・諸民族の神話・伝説では英雄誕生物語があります。多くの場合、神々と人間との性的交渉を前提としています。「神聖婚」ヒエロ・ガモスという考えです。しかし、福音書の受胎告知には、いかなる形でも、男女間の性的関係が排除されています。

ユダヤ人にとって、唯一の神は、完全に人間を超越するもので、そのような神と人間との性的交渉などは、考えることは出来ません。とりわけ、ガリラヤのナザレという保守的な地方の人々にとって、女性が正規の手続きを経ないで妊娠し出産することは、恥ずべきこと、全く不法なことであり、罪悪視されていました。産まれてくる子供も、神の祝福を得ていない、と考えられたのです。

 

 福音書記者たちは、このような非合理的、非常識なこと、信じがたいことを何故大事な福音書に書き込んだのでしょうか。取り除く機会もあったことでしょう。

 

削除しなかったのは、彼らが、この出来事をよく知っていたからに違いありません。

この出来事、降誕にかかわる物語を、よく聞いてきたのでしょう。そしてその結果を見て、聞いて、堅く信じていたのです。「神にできないことは何一つない」。

 

 もうひとつの問題を感じてきました。それは、この記事は何処から来たのだろうか、ということです。ルカ独自の資料です。ルカが、行伝166以下にあるマケドニア人の医者で、その地方の教会のメンバーであるなら、このような情報を何処から得たのでしょうか。

パウロの同行者としての生活の中で、とするならパウロはこれを何処から得たのか。そもそもルカ独自の資料は何処で、何から作られたのでしょう。疑問は限りなく続きます。

最後は、マリアその人に帰するでしょう。

 マリアは、たいへん聡明な、考え深い人、純粋な信仰者だったようです。さまざまな出来事も胸のうちに収めて長い年月を過ごす。結果が回答となって現れたとき初めて周囲と分かち合う。

受胎告知もそのようにして長い年月を過ごし、十字架と甦りの後、初めて人々に語り、やがて教会の信仰になって行ったのでしょう。

 

 最近、マリアは不良少女だった。ローマ軍兵士と遊び、その結果生まれたのがイエスだ。

このような主張が見られます。お好きなように言いなさい。言論は自由ですから。しかし、それを聞いた人は、何か得るものがありますか。

 

 私たちは、すでにイエスの福音が、貧しい者、弱い者、低い者、病める者に向けられていることを知っています。それでは豊かな者、力ある者、壮健な者は如何なのでしょうか。

イエスの福音にはその居場所がないのでしょうか。彼らは、自らを正しい者、見ている者、義人とする限りイエスとは無縁のままでしょう。力の限りを知り、人々の冷たい眼差しを知り、排除されて居場所のなさを知るならば、イエスの福音の中に居場所を見出すことが出来ます。

 

アロン系の祭司の娘エリザベト、その連れ合いザカリア。

ダビデ王家の血筋を引くヨセフといいなずけの妻マリア。

輝かしい名門の血を受け継ぎながら、苦しみを知りました。悲しみを、嘲りを身に負いました。その故に彼らは、福音の初めに所を得ました。居場所を与えられたのです。

私は名門でもなければ、有能、有力な者でもありませんが、自分の居場所を見出すことができないとき、聖書の中に、イエス・キリストの中にそれを見出すことが出来、心を静めることが出来ます。新しい力を得たことを知りました。そして、感謝して祈ることが出来ます。ご一緒に祈りましょう。

 

2013年11月10日日曜日

テオフィロさまに献呈

[聖書]ルカ114
[讃美歌21]17,402、Ⅱ編144、
[交読詩編]105:1~15、

 

本日からルカ福音書を学ぶことにしました。クリスマスに合わせて選びました。

水曜日の集会、聖書研究・祈祷会では、使徒言行録を読み、学んでいます。

同じ人が書いた第一巻がこの福音書、その続き、第二巻が使徒言行録です。

ちなみに、役員会でも毎月の例会の冒頭に、使徒言行録を読んでいます。

 

イエス・キリストと同じ時代を生き、キリストと出会い、信じ、従う者になった人たちは、福音の第一世代と呼ばれます。この世代からそれを受けた人たちも、伝えられたことを次の世代のために書き残しました。これは第二世代、続く人々も同様にして第三世代、と呼ばれます。このように、多くの人が、イエス・キリストに関わる経験を書き残しました。やがてそれは、『福音書』と呼ばれる特別な文学形式になりました。60年代末から100年頃に掛けて書かれたもののようです。聖書正典には四つだけ残されました。

ご存知のマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。

 

この順序は、絶対のものではありません。これとは別のものもあります。

西方型本文と呼ばれ、「使徒ふたりとその弟子たち」、マタイ、ヨハネ、ルカ、マルコの順です。べザ写本Dはその良い例です。ご参考までに。

 

塚本虎二訳、をご参考までに供しましょう。

お聞き戴きご理解いただけるでしょうか。お読みいたします。

1、わたし達の間で(近ごろひとまず)完結しました出来事を、(すなわち、イエス・キリストの福音の発端から、それがローマにまで伸びていったことの顛末を、)

2、最初から実際に見た人たちと御言葉の伝道にたずさわった人たちとが(語り)伝えてくれたとおりに、一つの物語に編もうと企てた人が数多くありますので、

3、テオピロ閣下よ、わたしも一切の事の次第を始めから精密に取り調べましたから、今順序を正して書き綴り、これを閣下に奉呈して、

4、閣下が(今日までこのことについて)聞かれた話が、決して間違いでなかったことを知っていただこうと思ったのであります。

 

塚本訳は、分かりやすいことと、正確さを大事にしている、と感じられます。

そのために、言葉を補充しています。重複しますので、くどいような感じもありますが、分かり易くするためには止むを得ないことでしょう。

 福音の出来事には、多くの目撃証人がいて、御言葉を伝えてきた人たちがいること。

しかも、それを書き綴ってきた人たちもあること。この福音書を捧げられたテオフィロ様も、すでにこの教えを聞いていること、著者ルカもキリストの出来事を書いたので献呈したい、と著述と献呈の意図を明らかにします。このことは後ほど。

 その結果も想定します。受けた教えが確実なものであることが分かるでしょう。

 

それでは、福音書を構成する資料に関して、少しだけお話します。

マルコ福音書、または原マルコ、M資料

マタイとルカに共通している資料(仮説)、Qquelle)語録、

 例、ルカ379(マタイ3710)、ルカ4312(マタイ4310

ルカ独自の資料、L資料、大きな特別な譬話など。

大雑把に言えば、この三つのものが認められています。

 

ルカによる福音書、この物語を残して、イエスこそキリスト・救い主であると伝えたのは、どのような人物だったのでしょうか。ルカという名は、どこにもありません。

 

使徒言行録169、「一人のマケドニア人が、マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」と告げた。このマケドニア人こそ医者のルカ、との説が強力。

このマケドニア人が、ローマに至るまで、パウロの同行者、主治医であったルカであり(コロサイ414、フィレモン24、Ⅱテモテ411)、福音書、使徒行伝を書いた、とされます。

説得力があります。魅力的でもあります。この人物が、言行録を書いたに違いない。とすれば、その第一巻である福音書も同一人物によるものに違いない、と考えられてきました。

 

すでに2世紀の終わりごろには、ガリア、北アフリカ、イタリア、エジプトで、この伝承は広まっていました。しかし、決定的な証拠を欠いています。それ以上のことは分からないので、仮に、著者をルカと呼んでいます。

 

確実に判ることは、何でしょうか。

「私たち」は、キリストに関する教えを受けた人たちの集団、初期の教会、おそらくはその第二世代、第三世代だろう、と考えられます。著者は、その一人なので、直接の目撃証人とはいえないのでしょう。それでも第一世代から、直接聞くことができた人たちの一人です。

 そして著者、彼は、この集団の一人で、その調査者であり、また研究者でした。3節の「詳しく調べています」とあるのは、この意味でしょう。

 文体からは、教養ある文化人であることがわかる、と言われます。更に、ギリシャ・ローマの文化によく通じた人らしい文章である、とも言われます。

 また、ギリシャ語訳旧訳聖書との密接な関係も認められるので、ユダヤ教を経た改宗者とも考えられ、その可能性はかなり高い、とまで言われます。

 

 次に、この書を献呈された人物について、考えましょう。

「閣下」、という言葉は、私たちの実用するものではありません。ギリシャ語では、クラティストス、最も強力な、最も高貴な。クラティステ は尊称として用いられ、「閣下です」。

英語訳では、most excellent Theophilus となっています。このエクスセレントが、閣下に相当する語。辞書では、「excellency直接、間接に、呼びかけて閣下。もとは王族にも用いたが、今では大臣、大使、全権公使、使節、総督、植民地知事などに対しても用いる。夫人にも用いる」。

 

テオフィロという名は、テオ・神とフィレオー・愛する、という二語が結合したものです。この福音書がどこで書かれたか、どの土地へ向けられたものか、一切不明です。たいへんコスモポリタンな性格を持っているように感じられます。時と所にお構いなし、

この名に関しても、唯一神を信仰する者一般、「神の友」を意味している、という説もあります。とすれば、「閣下」ではなくなるでしょう。「高貴な」と訳すべし、となるかもしれません。個人名となれば、当然その人物像に関心が向くでしょう。

『聖書人名事典』には、以下のように、簡潔に記されます。

「ルカの友人。ルカによる福音書および使徒言行録はこの人物に献呈された。献呈の辞

からすると、彼はかなり高い地位にあった人物らしい。ローマの元老院の議員か総督であったかもしれない」とあります。これ以上書くことがないのでしょう。

福音書記者と親しく、当時のローマ世界で高位高官に属する人。しかも、ユダヤ起源のキリストの教えに耳を傾け、更に学ぼうとする人物。それでいて、このところにしか、名前が現れてきていない人物。

 

 この福音書が書かれた時期も分かりません。ルカ194144212024が、ルカによるエルサレム陥落の知識であるなら、ユダヤ戦争後の余り遅くない時期に書かれた、と推定することになるでしょう。マルキオンの正典表は、紀元140年頃のものですが、その中には、ルカ福音書が入っています。ある学者の意見では、紀元8090年が妥当な年代。これなら。福音の第二、第三世代という推定とも一致します。

 

 キリストの十字架と甦りから半世紀。その教えは、弱く貧しい人たちの間で受け入れられました。それだけにとどまりません。閣下と呼ばれるような一握りの支配階層の人々の間にも受け入れられるようになっています。

点が連続して線となり、線が面となるように、ウシオのように神のご支配が確実に広がって行きました。それは人間の力ではありません。あくまで神御自身の力によります。

我々が、人間の力によって福音宣教を支援し、完成させるなどと考えるなら、おかしなことです。そのようなものは、必要としておられません。小さな人間の力にも、参加させてくださっているのです。

 

 福音書記者は、いずれも自らの名を記していません。キリスト・イエスの事跡を伝える時、自分の名前など必要とは考えませんでした。実に、自分の力、働きすら不要だ、と言う自覚があったのでしょう。無名に徹しました。その名を明らかにしようとするのは、この覚悟、信仰を侮辱するものでもあります。

オラトリオは、素晴らしい作品が多く、その影響も大きなものがあります。そこでも、福音史家、と言う言葉が用いられ、決してマタイ、ルカのような名前は使われません。優れた音楽家の卓抜した見識、信仰が見えます。私たちも、同じ信仰の流れを歩んでいます。

神の働きに用いていただける幸い、その業に加えて頂くことを喜び、無名であることに徹し、主キリストに讃美と感謝を捧げましょう。

 

2013年11月3日日曜日

主は私の羊飼い


[聖書]詩編2316
[讃美歌]Ⅱ編_144、21_382,21_111
[交読詩編]51:3~11、

もっとも有名な詩編の一つ、それ以上に愛されている詩篇と言うべきだろう。
たいへん美しい信頼の詩編です
必ずしもダビデ王が書いた、とは考えません。
また、この詩人の若い日の作品、とも考えません。

この詩が書かれた背景を考えます。詩人は、イスラエルの人。このイスラエルの国土は、聖書では「乳と蜜の流れる地」と記され、美しい肥沃な所と考えられます。ところが、現実は大違いです。1000メートルぐらいの中央山脈があり、そこから西の方、地中海の海岸の平野部へ向かって傾斜しています。東にはヨルダン川が流れます。北のガリラヤ湖から流れ出し、死海へ注ぎます。このあたりは亜熱帯気候です。古代世界では、恐らく樹木も繁っていたようです。北にはアッシリア、バビロン、ペルシャなどが繁栄し、南にはエジプトが勢力を張っていました。双方が派遣を狙い進出しようとしました。南北が衝突する戦場は、ユダヤ、シリアでした。多くの大木が切り倒され、育つ時間は与えられませんでした。昔は樫や杉、柏、無花果、ブドウ、ナツメヤシ、オリーブ、アカシヤ等が繁茂し、野獣がたくさん居たそうです。

紀元70年、ローマの軍勢が、ユダヤ人の立て篭もるエルサレム城を包囲しました。続いてマサダの要塞を包囲。落城、ユダヤ滅亡までにどれほどの木材が必要だったでしょうか。

イスラエル・ユダヤの大地の多くは、砂漠のようになりました。石灰岩質の岩が露出しました。羊が生きるには、困難な場所です。羊飼いの力が重要です

 

この詩人は、自分自身を羊と同定しています。「私は牧場の羊」のようなものです。

羊は大変弱く、おとなしい動物、あの眼を見ても柔和そのもの、と感じられます。

羊は愚かです。草を食用にしますが、その根まで食べてしまいます。牛は、草の根は食べません。必ず残します。牛の牧場では、根が残っているので、必ず草は再生します。羊は、草のあるところを求めて歩き続けます。導く羊飼いが必要です。羊飼いに守られ、導かれ、生きることが出来ます。ある時には、その群れからさまよい出で、穴の中に転げ落ち、出ることも出来ず、羊飼いが見付けてくれるまで鳴き続けることしか出来ません。

 

それにもかかわらず、羊は大変有用な動物です。このことは北海道の人はよく御存知でしょう。何も捨てる所がないほどに利用しつくすことが出来る。毛は羊毛として、布や紐・ロープになります。皮は衣料品や敷物に。肉は食用、油をとることも出来る。内臓も食用に。更にガットと呼ばれて丈夫な縒り糸になる。あるいは肉を詰める。乳はチーズなどになります。しかも羊は多産系です。中近東では、大事な財産として数えられます。

大変従順で、先頭に立つものについて行きます。

 

こうした羊の姿は、矛盾に満ち、人間の姿そのままです。

あるときは従順に従います。次の瞬間には、羊飼いを見失い、自分の欲求のままに歩き出し、岩に足を取られ転倒し、起き上がることも出来ず、鳴いているばかり。次第に弱くなります。またある時には、向こうへ行こうよ、もっとたくさんの美味しい草があるよ、と言う声にだまされ、盗まれた羊となり、食い物になってしまいます。

これは、まさに人間の姿です。安全無事な道を導かれていることに満足せず、楽な儲け話に飛びつく。そして高転びに転び、その穴から抜け出せず、わが身の不幸を嘆く。

何故、私だけがこんな不幸になるのか?見えているようで見てはいない人間は近視眼の羊。容易にだまされる人間は、盗み出そうとする盗賊にだまされる欲張り羊。

とかくこの世は欲と金の世界。

 

 このような羊を、主は共にいて、守り導いてくださる。私の能力や、魅力の故にではなく、主御自身が救い主である故に、み名の栄光のために助けてくださる

 

ここには、青年の頃、これを読んで不思議に感じたことがあります。

「汝のしもと、汝の杖、我を慰む」。先ず「しもと」って何だ。

しもとは、難解でした。昔、罪人を打つのに用いたむち。比喩的に、人を責める厳しい戒め。「心を鞭(むちう)つ―」。細枝・・・長く伸びた若い小枝。葉を取り除いて、罪人を打つのに用いることも出来るでしょう。見るからに恐ろしいもの、人の意気を阻喪させるものです。これは鞭のことでした。

「杖」は、「転ばぬ先の杖」と言うように、人の歩行を支える大事なものです。しかし同時に、打ち叩くことにも使われました。 人を打ち叩く道具が杖、しもと、と考えました。

同じものが羊飼いの手にあるとき、羊は何を感じるでしょうか。慰めを、勇気を与えられる、と言います。羊飼いの手にあるしもと、杖は、羊を打ち叩くものではなくて、羊を守るため、盗賊や野獣と戦う武器になります。その様を見た羊は、安心することが出来ます。それは、恐れに縮み上がっていたものが、生き返る様にも似ていました。

 

もう一度、6節をお読みします。

命のある限り  恵みと慈しみはいつもわたしを追う。

主の家にわたしは帰り  生涯、そこにとどまるであろう。(236

 

神様の恵みと慈しみは追いかけてきます。そうです。神の恵みは私たちが必死に追いかけて、「これこれをしますから、与えてください」と言って取り引きをしてやっと得られるものではありません。恵みと慈しみは追いかけてきているのです。往々にして私たちが目を向けていないだけ。気づいていないだけの話です。この人にはそれが見えていた。私たちも見えるはず。

 

 そして、この人は恵みに追われてどこに向かっているのかも知っています。帰るべきところを知っている。それは「主の家・住まい」です。人生の終わりに帰るべきところを知っているのは、幸いなことです。本来の意味では、エルサレムの神殿を指しています。

6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

 

最後に、思い出しましょう。主イエスは、金曜日、十字架につけられました。その夕刻、アリマタヤのヨセフが自身のために用意してあった新しい墓にその身を横たえ、安息を得られました。マタイ福音書275761に記されています。

 

57夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。58 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。59ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、60岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。61マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。

 

主イエスの生涯は。決して名声嘖々たるものなどではありませんでした。慰めと希望をもたらそうとしながら、対立と嫉妬、羨望、流言飛語に曝されていました。絶えず迫り来る人々の求めに応えようとする日々でした。祈りの時間すら削らざるを得ませんでした。一息入れる、休息する、そうしたことは見られません。

 

それは、スピードアップされ、効率を求める現代社会。その中を生きる私たちが経験するものでもあります。「いやし」という言葉が良く用いられるようになりました。癒やしがなくて、癒やしを求めている時代であることを表しています。安らぎがないのです。

 

墓は主イエスにとっても、安息の場でした。死と埋葬は、この安息に連なることです。