[聖書]ルカ3:21~38
[讃美歌]194、6,459、
[交読詩編]29:1~11、
ナザレのイエスが、その公生涯に入られる「時」が来ました。神殿の出来事は12歳のとき、以来およそ18年のときを数えて、30歳頃とされます。
ここで『時』というのは、自分にとって都合の良い時、と言う意味ではありません。
神が定められた、神の時です。あらかじめ、神ご自身により予定された時に外なりません。
「時」に関わる言葉が、マタイではもうひとつ用いられています。「今は、受けさせて欲しい」。本来、ヨハネが、イエスから洗いを受ける立場。しかし、今は、と言われます。
物事には、優先順序があります。それは絶対・不変のものではありません。むしろ、時によって、時に応じて変化する融通無碍のものです。
キリスト信仰においては、唯一・絶対、という言葉が用いられます。
これは、神を顕すもので、我々人間に関わる事柄には相応しくありません。
人間の場合には、時と場合に応じて変化します。相対的、と言われます。
洗礼とは何でしょうか。
バプトー、バプティゾー(動詞)、漬ける、沈める、船が沈没する意味でも用いられる。ユダヤ教では、儀式的清めのため全身を水に浸し沐浴すること。圧倒的に優勢な力に捉えられ、支配されること。
「父と子と聖霊の名により」は、これを唱えて、と言うよりも、当人が恵みにより三位一体の神の中へ浸されることを言います。
バプティスマ(名詞)、浸し、漬けること、滴水のような形式は本来的に論外。
バプティスモス(名詞)、浸し、漬ける行為、ユダヤ教の清めの沐浴や洗いのこと。
バプティステース(名詞)、浸す人、ヨハネのあだ名、
身についた穢れを洗い落とすこと。ここから、清められた新しい生涯、命が始まる。
日本の神道や修験道の修行にも見られます。禊、すすぎなど荒行に属することになります。
新共同訳聖書は、漢字で『洗礼』と訳語を書き、その右側にカッコ付でバプテスマと書いています。出版されたころだと思いますが、何処かで読んだ記憶があります。
「これは、バプテスマを常用している教会のためのルビです。一般の教会はどちらを読んでも差し支えはありません。」わたしたちは翻訳された聖書を使っています。ここでも、訳語を用いるし、洗礼と読みます。英語訳聖書は、たまたま訳語を見つけることなく、原語のまま用いました。原意を検討することもしなかったようです。
ヨハネの洗礼は、主の道を用意する彼の宣教全体の一部であり、まもなく来る「わたしよりも優れた方」(16節)に対して心構えをさせるものであった。
キリスト教では、罪の穢れを洗い落とし、新しい命に入ること。神の全的な支配を受け入れること。そのとき、そのところには、神の国が存在する、と考えられます。
かつては、洗礼式と、教会の入会式を分けていたようです。
いくつかの教会の資料に当たることが出来ました。原簿、受洗願書、証言。
今では、洗礼即入会と考えています。式文も、そのような形になっています。
教会の古い役員さんにお尋ねしました。「洗礼式の日付があって、別に入会式の日付があるけど、これはどういうことでしょうか。」答えは簡単でした。
「昔は、全く別のことでした。意味は分からないけど。」
洗礼式が、神の支配を全的に受け入れることであり、教会は神の国の先取りであるなら、
受洗のときが、入会のときであって差し支えない、と考えます。別にした時代は、入会の組織的な面を重く考えていたのではないでしょうか。
ルカは、マタイが記した細部を取り除き、イエスの受洗を簡潔に三項目で語ります。
天が開けて
聖霊が鳩のように目に見える姿で降って来た。
天からの声、『私の愛する子、私の心に適う者』
三つ目は旧約からの引用です。口語訳で読んでみましょう。
詩編2:7,8「私は主の詔をのべよう。主は私に言われた、『おまえは私の子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地の果てまでもおまえの所有として与える。』
イザヤ42:1「私の支持するわが僕、私の喜ぶわが選び人を見よ。私はわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国人に道を示す。」
12歳のイエスは、神殿で学者たちと討議した時、自分が何者であるか認識しました。「ここは、私の父の家である。私はヨセフの息子でありながら、神の子である、」と。
今、ヨルダン川で、救いを求める大勢のユダヤ人の中に混じり、悔い改めの洗礼を受けました。イエスは、これまで、家族の生活を支えていたようです。これからは、全面的に神に捧げられた生活、公生涯に入られます。
イエスが洗礼を受けられる場合、罪人ではないので、罪の悔改めのため、とは考えられません。神の支配を全面的に受け入れることに違いありません。
この時イエスは、祈っていました。そのことをルカは特に記憶されるべきこととして、書き残しました。記憶する人々には、この情景が、初めの教会が聖霊の降ることを待って祈っていた、ことと重なり合って思い出されることでしょう(使徒1:8,14、2:42,3:1)。
イエスの系図が記されます。
マタイ福音書は、アブラハムから、その系図を始めます。マタイ福音書の系図で知られる女性の名が、ルカ福音書では見られません。
ルカは、名前を七つずつ組にして十一のまとまりを作り、名前は合計して七十七になります。
ルカは、イエス、ヨセフから始めて家系をさかのぼり、アブラハム、アダム、神に至ります。その意味するところは何でしょうか。
ルカは、「イエスはヨセフの子と思われていた。」微妙な書き方、表現。何を伝えようとするのでしょうか。
イエスは、法的にイスラエルの子であり、ヨセフはイスラエルの子イエスの父親です。
しかし、同時にアブラハムにとどまらず、アダムまでさかのぼっています。アダムは全人類の始祖とされます。ルカは、この系図によって、イエスを民族の枠を超えた一人の人間としています。すべての人間の救いのために、今洗礼を受けました。神は、これを承認しました。
ルカは、このように公生涯の始まりを書くことで、この世界の、すべての人の救い主が現れた、と告げ知らせています。良い知らせをもたらしました。
これが、ユーアンゲリゾー、福音することです。感謝して祈りましょう。