2014年3月30日日曜日

新しいぶどう酒は、新しい皮袋に

[聖書]ルカ53339
[讃美歌]289,210,363、
[交読詩編]27:7~14、

昨年はかなり遅くまで雪が残っていたように感じます。それに比べると、今年は雪融けが早い、と感じています。それでも寒さは変わらないようです。暖かい日が続きましたが、室温は低い。暖房を入れていない部屋へ行くと、短い時間なのに手にした眼鏡が冷たくなっています。厚別の三月末ですから。

本日の聖書は、『断食についての問答』となっています。

マルコ福音書21839に同じ記述があります。前後の記事も共通です。

それに対してマタイ福音書はどうでしょうか。91417にありますが直前の物語は同じですが、直後には癒しの奇跡が続きます。

ルカは、明瞭ではありませんが、レビの宴会の続きとしています。

30節では、イエスの弟子たちにファリサイ人や律法学者たちが問いかけていました。

「何故、罪人たちと食卓を共にするのか」

それにたいして、イエスがお答えになります。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。・・・・悔い改めさせるためである。」

 

そして33節に入ります。

「何故、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。ヨハネの弟子やファリサイ人もたびたびしています。断食は、祈りや施しと並んで私たちの美しい、良い業のひとつでしょう。」

これに対してイエスは、譬えによってお答えになります。

 

 初めは34節、どういう時に、人は断食するだろうか。花婿が奪い取られる時が来れば婚礼の客は断食することになる。これは、主イエスを花婿と見るたとえ話です。

イエスの弟子たちは、ちょうど花婿を迎えた婚礼の客のように喜びの中にいます。慶びの祝宴が開かれています。誰が断食をするでしょうか。しかし、この花婿が奪い取られたら、喜びは悲しみに代えられ、人は全て断食するでしょう。

ここではキリストの十字架が暗示され、後の教会、ルカの属する教会が、受難の時に断食していることを、理由付けています。イエスが去って、弟子たちが残されたときこそ断食のときです。

 

 次は36節、新しい服、古い服のたとえです。新しい服から破り取った布切れで、古い服に継ぎを当てはしない。新しい服は破れて使えなくなる。また新しい布切れは、力に満ちているから、古い切れを引っ張り、弱い部分が破れてしまう。新旧両方の服が駄目になる。

古いものを守ろうとして、新しいものを駄目にしないように、求めているのでしょう。

 

 第三は37節、ぶどう酒と革袋の譬えです。

ぶどう酒は、ブドウの実を醗酵させて作ります。世界中で造られています。日本では、北は北海道、南は鹿児島に至るまで各地で作るようになりました。

その土地のブドウの実を絞り、果汁に酵母菌を加えると醗酵が始まります。「酵母菌がブドウ汁の中の等分を食べてアルコールと炭酸ガスに変えて行く」と書かれていました。

9月に収穫し、11月には一応飲めるようになります。そのまま醗酵させていると、いつかはお酢になります。

このぶどう酒は、酵母菌をろ過するか、火入れをすることで、醗酵をとめることが出来ます。上等なワインは、コルク栓をして、寝かせることになっています。それは、まだ醗酵が続いています、生きています、ということなのです。並みのワインは、スクリューキャップを使うようになりました。たいていは醗酵を止めているようです。

 

時代や地域、民族によってブドウ酒の入れ物が違っています。陶器を使うところがあります。ギリシャなどは、大きなアンフォラを使いました。アジアでは革袋を使うことが多かったようです。この革袋の文字について余分なことですが、お話しましょう。

動物の獣皮を「皮革」と言うのは「統言」(ひっくるめた言い方)であって、それを「析言」(微細な違いを厳密に区別した言い方)すれば、「皮」は獣毛が付いたままのもの、「革」は獣毛を除去してなめしたものをいう。部首名としては、「皮」は「けがわ」であり、「革」は「かくのかわ」とか「つくりがわ」と呼ばれる。(阿辻哲次著『部首のはなし』156P中公新書)

「動物の皮膚をそのまま剥ぎ、製品として使用したものを皮(かわ・ひ)といい、動物の皮膚の毛を除去しなめしてあるものを革(かわ・かく)という。しかし、後者も「皮」と表示する場合もある。これは、後者の文字が教育漢字となっていなかったことに由来する。wikipedia

 

口語訳、岩隈直訳、塚本訳、前田訳、いずれも皮袋

文語訳、革嚢(かわぶくろ)

NIV new wine into old wineskins.

If he does,the new wine will burst the skins,the wine will run out

And the wineskins will be ruined.     

英語聖書ではスキン(skin,皮製の器、皮袋)があり、レザー(leather、革、なめし皮)があります。ギリシャ語は、アスコスが皮袋。山羊、羊、子牛などの皮で作り、四肢を堅く縛って、もれないようにし、ぶどう酒、水、油などの容器にした。  ぶどう酒はオイノス。                                                   

古い革袋は、革が乾燥していることが多く、固くなっていて、中にはヒビ割れていることもあります。そういう古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、どんどんガスが発生して袋が膨張しても、革が伸びないので、弱い所からパーンと割れてしまうことがあります。それで革も袋もダメになります。

もちろん、ぶどう酒は流れてしまいます。

でも、新しい革袋なら、まだ革が柔らかくて伸びしろがあるので、新しいワインを入れても割れずに保存することができます。

 

古いものは、新しいものに凌駕される、と言っているように聞こえます。ユダヤ教とキリスト教との関係を考えると、古いものを捨てて新しいものをとりなさい、と教えるように考えられます。実は、そうではなくて、古いものを守るためにも新しいものは新しい入れ物にしなさい、と言っているのです。

 

第四、最後、39節は、古いワインを飲むと、新しいワインなど欲しがりませんよ、と言っています。新しいぶどう酒は、飲むことが出来ない粗悪品と言っているのでしょうか。新しいぶどう酒も、熟成するまで、時間をかけて、待つのが当然、と言っているのです。

ベン・シラの知恵915には、「古いものは良い」とあります。

ぶどう酒の場合、「古い」ということは、十分に醗酵したもの、熟成した良いものを意味しています。決して、賞味期限切れではありません。不用品、ましてや不良品などではありません。それに比べるなら、新しいぶどう酒は未熟で、もっと時間をかけるべきなのです。

この譬は、新しいもの、古いものを比較検討して優劣をつけるものではありません。ひとつを存続させるために、他を捨てることを教えるものでもありません。

 

 

現代の状況は、諸宗教の寛容な態度を要求しています。諸宗教間の対話。民族の対立の陰に、それぞれの宗教の問題があります。真理と権威の問題です。真理を保持している、との主張は、その信仰からは当然でしょう。しかし、それは、他の信仰を排斥するものではないはずです。ともに成長することが期待されます。教育においても、親や教師が自分たちを絶対化するのではなく、子ども、生徒、学生と共に成長することが教えられ、求められているのです。更に言えば、主イエスにあってはどのような人も、どのような考えも捨てられることはありません。感謝して祈りましょう。

 

 

 

2014年3月9日日曜日

イエスは彼らの信仰を見て

[聖書]ルカ51726
[讃美歌21]289,208,574、
[交読詩編]91:1~13、

 

本日の聖書には中風の人が、登場します。福音書には、「ちゅうぶ」とカナが振られていますが、PCでは「ちゅうふう」となります。

これは、非常に誤解しやすいことですが、病ではなく症状ですよ、と言われるところです。

 

私のことでお話します。97104日、脳動脈瘤の異常により、瘤が破裂しました。その結果、くも膜下出血となりました。私の場合、最初の打撃が2時過ぎ。間もなく、痛みが収まりました。仕事をしていると再び痛みが始まりました。予定していた病院へ行きました。待合室で、横になるほどです。呼ばれて時計を見ると午後7時。その日、最後の患者でした。教会と二つの学校へ提出した欠勤届に添付した診断書には、次のように書かれていました。「脳動脈瘤の先天性奇形による破裂によりくも膜下出血を発症」、その治療のため開頭手術を行いました。私の場合、後遺症は全くありません。風が当たったので、頭が以前よりも良くなるかといえば、そういうこともありませんでした。やっぱり、馬鹿は死ななきゃ治らない、と納得しました。

破裂時に、大量の出血が脳を圧迫し、重大な障害が残ることもあります。速やかに病院へ行くことが大事です。手術時に脳の一部を傷つけることが、非常に多いと聞きました。私の執刀医が言いました。「今回は奇跡的に100パーセントの手術が出来ました。それも今までの失敗があるからです。」正直さに驚きました。どれほど殺したことか。数年後、手術から手を引いたようです。腕の良い医師が居られたことも奇跡のひとつです。

後遺障害が残ると、これを中風と呼ぶことになります。昔は、差別的、侮蔑的に「ヨイヨイ」などと呼んでいましたが、今では使われなくなりました。

 

脳血管障害を乗り切るためには、普段から、万一のとき、どこの病院へ行くか、決めておかれると良いでしょう。突然、激しい頭痛が襲います。3時間が目途です。

私は、終始自分の車を運転して行きました。もうそのようなことは致しません。どうぞ皆様方も、万一の時は、遠慮せずに救急出動をお求めください。

 

517を見ると、イエスの教室・教場には、様々な人が集まりました。教えを聞き、学ぼうとする人。慰めや勇気、力を求める人たちでしょう。不純な動機で加わる人もいました。彼らは、学ぶ気持ち、という以上に、批判し、攻撃し、排除しようと考えていました。イエスその人を排斥します。同時にここに集まってきた多くの人々の中にも、何か不都合なもの、不信仰な者を見つけ、非難しようとしていました。

 

時と場所に関する記述は見られません。見えないと観たくなる。知らされないと知りたくなるものです。いつですか、どこですか、と言う質問が出てもおかしくはありません。

場所は、おそらくペトロの家(438参照)であろうと推測されています。

時に関しても、手がかりはあります。病人を運ぶ、屋根に上る、屋根をはぐ、癒す。これらの行為は、安息日に禁じられた労働に該当します。こうした、人の動きなどから安息日ではないと考えられます。平日に起こったことでしょう。

 

518以下に登場する人は、脳の血管が切れたか、詰まったかする病気のため、半身不随、体の自由を失ったものでしょう。現代では、こうしたことは血管や動脈瘤の先天的、または後天的奇形による破裂、あるいは様々な原因によって梗塞が起きるもの、と考えられています。不自由になったことは大きな不幸でした。その中にも幸いなことがありました。

重い皮膚病の人と違うこと。家族、友人との離別はありませんでした。孤独にはなりませんでした。親しい友人が居り、イエスのもとへ、運んできてくれました。情報を集めたのも、彼らだったかもしれません。

 

運んできました。しかし、「群集にはばまれて」、イエスの前まで進むことが出来ません。

ルカは、盲人のこじき(1839)やザアカイ(193)などで人間の壁を描いています。ルカは、伝統的なユダヤ社会では異邦人でした。その中で、人間が妨げる、人間に妨げられることを経験していたのでしょう。

 

友人たちは、機会を逃さないために、驚くべき手段に訴えます。屋根に上がり、そこから吊り下ろすことにします。マルコ2:4では、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、・・・吊り下ろした。」となっています。パレスティナの家屋は木の枝を並べ、その上に漆喰や泥土をつめた屋根でした。これをはぐのは容易でしょう。

ルカは、屋根、かわら、を意味するケラモスというギリシャ語を使っています。ルカ自身の背景を顕していると考えます。パレスティナの建築様式には合致しません。

 

吊り下ろされてきた人を見て、驚かれたことでしょう。しかし主は、この人たちの信仰を見た、と記されます。イエスは、この集団の求めと、その必要とするものを理解し、さらにご自身に寄せる深い人格的信頼を理解されました。そして直ちに言われます。「人よ、あなたの罪は赦された」と。彼らの求めを超えた必要に応えられました。

病の癒しを求めてきたはずです。ところが、与えられたのは罪の赦し。

現代の私たちは、ここには食い違いがある、と言います。赦しと癒しは別物でしょう、と。

 

ところが、主イエスの時代は、だいぶ考え方が違いました。当人や家族の罪の結果である、と考え、病の癒しには罪の赦しが伴う、と信じていました。

主イエスも当然、そのことを知っておられます。

 

私たちの人間理解、肉体と精神、更に感情、魂を加えて成り立っている、とするのが普通でしょうか。基本的には、ギリシャ・ローマ思想、ヘレニズムの二元論が現代の底流となっています。しかし、主イエスは、ユダヤの伝統の中におられる。それはヘブライズムの一元論であり、統合された一体性を持つ人格、という考え方です。病気と罪、癒しと赦しは表裏一体のものと考えられていました。

この奇跡は、イエスが罪の赦しの権威を持っていることを確証するものです。

 

主イエスは、赦しと癒しの関係は、元来分かちがたく、密着していた、という点にまで私たちを招いています。従って、ここでも二つの力を神の力のもとに統一的に発揮しています。二つと言いましたが、二つでありながら、一つなのです。

そして今、癒しと赦しの双方の権限が弟子たちに与えられています。二つでありながら、一つなのです。私たちは、「罪は赦されました」と語り、「病は癒されます」と語ります。私たちは、その権能を委ねられたものです。歴代の教会と共に、この実現に努めねばなりません。希望と平安、感謝と賛美の源泉となるのがキリストの教会です。

 

 10月には、厚別教会50周年記念礼拝が行われます。次の50年を見据えて、教会の基本をしっかり共有したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「ちゅうぶう」とも。悪風に中(あた)る意》脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態。中気。ちゅうぶ。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」ともいいます。

 

脳卒中という言葉は一般的な用語であり、医学用語ではありません。正式には脳血管障害、または「脳

血管疾患」といいます。脳卒中の卒は卒倒そっとう(突然倒れる)の卒で“突然に”の意味、中は中毒(毒にあたる)の中で“あたる”という意味ですから、脳卒中とは脳の病気で突然に何かにあたったようになる(倒れる)ことを意味します。

 

これは中国から渡ってきた言葉ですが、西暦760年の日本の書物にすでに見られますから、この病気は日本でも長い歴史をもっていることがわかります。近代医学が発展する前から、人々は卒中という病気があることをある程度理解していたことの証拠でもあります。

日本では現在147万人が罹患しており、ガンの127万人と比較しても多くの患者がいる国民病です。

寝たきりになる原因の3割近くが脳卒中などの脳血管疾患です。

高齢者の激増や、糖尿病、高脂血症などの生活習慣病の増加により、脳卒中の患者は2020年には300万人を超すことが予想されています。

 

脳卒中は、脳の血管が詰まったり切れたりする病気です。

脳卒中は大きく2つに分類することができます。

脳卒中には、虚血性の脳卒中と出血性の脳卒中があります。

虚血性の脳卒中は脳の血管が詰まって起きるもので、主に脳梗塞(脳塞栓)(脳血栓)の事をいいます。

出血性の脳卒中は血管が切れて起きるものです。主に脳内への出血(脳出血など)と脳周辺(くも膜下出血など)への出血に分類されます。日本では患者のうち4分の3を「脳梗塞」が占めています。

2014年3月2日日曜日

主よ、御心ならば

[聖書]ルカ51216
[讃美歌]289,16,532
[交読詩編]125:1~5、

重い皮膚病の人。

社会的疾病、単に個人の病気にとどまらない。病気は、当人を不快にします。そればかりではなく、周囲の人たちを巻き込んで行きます。この病気では、進行するに従って肢体が不自由になり切断せざるを得なくなることもあります。しばしば視力が減退、失明にも至ります。原因も分からず、薬も治療法もなく、天刑病、不治の業病と言われ、嫌悪されてきました。従って、これを発症すると社会的に措置されるのが普通でした。時代、民族、国家を問わず。隔離する、孤独を強要する。

「私たちは、この病気になったという不幸の上に、この日本の国で病気になったという不幸を背負わされています。らい予防法、偏見と差別。」大戦中に特効薬プロミンが発見され、戦後日本でも順次使用されるようになりました。今では、感染症のひとつと考えるようになり、治る病気とされています。らい予防法は廃止になりました。それでも、根強い偏見はなかなか消えません。差別もあります。                                                           

 

私のこの病気とのかかわりは、神学校の五年生のとき、一年間の教会実習を洗足教会で行ったときのことです。副牧師の棟居牧師が関わっておられたことで、いろいろ教えられました。その後、途絶えてしまいますが、牧師になった頃でしょうか。父が言いました。『君が関わるによいことを考えていたけど、救らい協会が適切だと思うよ。会費三年分、払い込んでおいたから』と。これもそこまで。

それから七・八年後、御殿場教会へ赴任しました。関係する施設、特別養護老人ホーム・御殿場十字の園へ行きました。待っていたのが、付属診療所の所長、ホームの女医さん・林冨美子先生。「持田先生、待っていたのよ。いろいろ教えて差し上げようと思って。」

御殿場教会の礼拝者の中に、駿河療養所の所長さんがおられた。奥様は教会役員。

昨年9月、葬儀の司式をさせていただきました。この石原先生からは、多くのことを教えられました。病原菌や薬のこと、標本のこと、行政のこと、今は忘れてしまったが、他所では得られないものを得たものです。                                                                                                                            

諸方へ就任のご挨拶を差し上げたところ、すぐ返信が来た。棟居牧師、「御殿場とは良い所へ行ってくれた。早速、南の方、神山の療養所へ大日向牧師を尋ねて欲しい。」

教会の役員に相談しました。「あちらへは足を踏み入れてはいけません」と言われています。と言うことで、案内もしてもらえませんでした。家族だけで行きました。会堂に座ってお迎えくださった。「この時が来るのを17年間、お待ちしておりました。」林先生が待ってくださったのとは意味が違う。重く、深いものを感じました。

地元の教会とつながりの出来る日のことです。確か、神学校入学の翌年からとなります。

このために私は今まで生きてきたのか、と思いました。

この関係を終生続けよう、と思い定めました。以来、岩槻、玉出の28年、あわせて30年余り信仰の交わりを続けました。

今は出来なくなっていますが、御旨ならば、継続されるかもしれません。無理でしょう。

 

 聖書のギリシャ語は、この病人をレプラと呼んでいます。旧約聖書の時代から知られています。ヘブライ語ではツアーラトに対応するものです。どちらもどのような病気であるか、よく判りません。皮膚の病ばかりでなくある種のカビと考えられるものも含まれています。歴史的に、医学的に何の病気か分からないものを、特定の病気と結びつけることは出来ません。古い時代の和訳聖書は《らい病》と訳しました。新共同訳は、これを《重い皮膚病》と訳すことにしています。   

新約聖書には、「レプラ」の症状は全く記されていません。つまり、この病に関する情報としては、旧約聖書以上の事柄を知ることができないのです。このことも、新約聖書の「レプラ」を、ハンセン病と特定できない理由の一つです。

 

 様々な事情の中で、聖書の時代、この病気は不治のもの、うつるものとされ、非常に用心深く扱われたようです。レビ記13章にその記述があります。「患部のある者」とあります。これだと皮膚に腫瘍・できものがあると、全て疑われそうです。

「病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。」

 

家を出て、他所に住み、道行くときは、間違っても人々が近寄らないようします。長い杖

を持ち、その先には鈴をつけて鳴らします。そして大声で病人が来ていることを知らせます。多くの人々の健康と安全を守るために、この屈辱が、この孤独があります。それも2000年以上にわたって当然とされてきました。イスラエルの律法の定め。そして世間一般の常識によって守られていました。

 

町の中にこの病人がいました。イエスを待ち受けていたのかもしれません。孤独な病人にも友人は居ます。断絶させられていても、切っても切れない家族とのつながりはあります。そうしたところから良い知らせがもたらされたのでしょう。ナザレのイエスという名の不思議な人がいる、とのことです。この病人は信じました。むしろ、信じるしかなかったのでしょう。最後の望みを託することが出来るとすれば、この人しかいない、と確信して、やってきました。呼びかけます。これは掟破りです。

 

しかし、彼は知っていました。自分は確信している。後は、『主の御心しだいだ』。癒す能力があると信じる。しかし癒す気持ちがなければ、私は癒されない。「主よ、御心ならば・・・私を清くすることがおできになります。」必死で訴えています。

 

その主イエスは、どうされたでしょうか。お前は、ユダヤ伝統の律法を破っているよ。出直しなさい。とでも言ったでしょうか。イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」られました。イエスは、この人が置かれている穢れと孤独の唯中に入り込んで行かれました。

この人が掟に背いたように、自らも掟に背くのです。不法行為と穢れを共に担われました。

それによって、孤独から解放なさいました。

 

 初めて療養所の神山教会へ行ったときの事を思い出します。地元から初めてのもの、一緒にお茶を飲み、菓子を食べる。そこには孤独を打ち破る力が働いていたのです。私は、感性が乏しいので、当時はそこまで理解できなかった。私ごときものがやって来ることは、それほどたいしたことではあるまい、と思っていました。それなのに、たいそう喜んでくださった。偉い先生ではなく、

普通の牧師が来た。聖書の言葉が現実になることだったのですね。

 

イエスにおいて、愛は信仰・希望を凌駕するものとして評価されるようになります。

それは律法を完成させるものだからではないでしょうか。

またパウロは、様々なときに、律法厳守の限界を悟り、愛の発揮する無限の力を実感したのです。

 

「誰にも話してはいけない」。何故でしょうか。奇蹟の後、それを人々に語り、宣伝しなさい、とは言われません。この活動、医療行為は、語り伝えられれば必ず誤解を招くに違いありません。悪魔祓い師、悪霊のかしら、これらはイエスに対する誤解であり、同時に癒しに関する誤解となり、癒された病人の社会復帰を遅らせることになります。

もうひとつ考えても良いでしょう。この癒された男が、社会に復帰するためになすべきことを速やかになし終えるように配慮されたのです。「詳細は語る必要はないから、ただ行って癒された体を祭司に見せなさい。」

徹底的に病める人、弱い人を理解し、その傍らに立たれるのがキリストイエスです。

 

奇跡では、大きな力が出て行きます。主なる神に感謝の祈りを捧げます。さらに新しい力に満たされるようにと祈ります。これは、主イエスの秘密、奥義です。退いて祈られるのは、この時だけではありません。イエスにあっては、当然のこと、日常のことでした。

私たちも、感謝して祈りましょう。

 

 

 

旧約聖書の定め、レビ記(口語訳)

13:45患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。

13:46その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。

14:2「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、

14:3祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、

14:4祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、

14:5祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、

14:614:7これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

14:8清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、

14:7これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

14:8清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない

 

屈原は言った。

「私は聞いたことがある、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠のほこりを指ではじき落とし、水浴したばかりの者は、必ず衣類のほこりを振り払う』と。

どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられるのか。いや、受けられない。

むしろ湘流に入水し、江魚の腹中に葬られても(→魚の餌食となろうとも)、どうしてこの真っ白い身に、世俗の塵埃をまみれさせることなどできようか。いや、できない。」と。

 

漁夫はにっこりと笑い、舟をこいで去った。歌うには、

「滄浪の水が澄んだのなら、冠のひもを洗うがよい。

滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい。」

そして去って(→そのまま姿を消して)、再び共に語り合うことはなかった。

 

屈原  楚の詩人・政治家(おおよそ紀元前343278) 高潔に生き、そして自殺した憂国詩人 

 名は屈平、字が原である。戦国時代後期に楚の王族として生まれた屈原(くつげん)は、懐王(かいおう)から信任を受けて左徒の官に任命され、主として法律関係の仕事を行った。屈原は博聞強記で治乱興亡のあとに明るく、文辞詞章に長けていた。

 

 ある時、屈原の才能を嫉んだ上官太夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言した。懐王は怒って屈平を遠ざけた。その後、懐王が張儀(ちょうぎ)に騙され秦に出兵したが、この時、屈原は斉に国交回復の使者として赴いている。

 前二九九年、秦の昭王が懐王に会盟を求めてきたが、屈原はこれに反対。しかし懐王は臣下の子蘭(しらん)の進言を採り、秦に赴いて囚われの身となる。

 楚では代わって頃譲王(けいじょうおう)が即位したが、四年後、懐王が秦で釈放されぬまま憂死したこともあって、屈原は子蘭を憎んだ。一方の子蘭も屈原を妬み、頃譲王に讒言したため、屈原は再び江南に流された。

 やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、人生の幕を閉じたのであった。

 

「楚辞」と呼ばれる詩は彼の創始によるもので、後世の詩に絶大な影響を与えた。

 屈原の詩の代表作は「離騒」「九歌」「天問」「九章」がある。屈原の人柄を最もよく表していると言われる「漁父辞」は、実は屈原の自作ではないとの説が有力らしい。

 

 

『濯纓濯足(たくえいたくそく)』冠の紐を洗い、足を洗うの意。

時世の清濁に従って、身の処し方を変え、意のままに生きること。

出典「古文真宝後集・屈原・漁父の辞」。古くから詠まれてきた「古歌」である。

漁父は莞爾(にっこりと)として笑い、

「滄浪之水清(す)まば、以て吾が纓(えい。冠の紐)を洗うべし、

 滄浪之水濁らば、以って我が足を洗うべし」

と詠いつつ、枻(えい)を鼓して去り、再び言葉を交わす事は無かった。

(=櫂で船端を叩いてそのまま去ってしまい、そして二人の会話は終わった。)

即ち、万事は時世や時勢の清濁に従って、その時々に応じた吾が身の出処進退をすべきということ。

 「滄浪之水」とは、漢水の下流の別称であり、夏水とも漢水とも言われ、

 

これが難しい。私たちの多くは、穢れを共にするより、一人清いままでいたいのです。

中国の政治家・詩人屈原は、《漁夫の辞》を歌いました。紀元前343278戦国時代後期。

高潔な人。この詩の中では、漁夫に「『濯纓濯足(たくえいたくそく)』冠の紐を洗い、足を洗うの意。」を言われるが、それに馴染むことができず入水する。

万事は時世や時勢の清濁に従って、その時々に応じた吾が身の出処進退をすべきということ。