2014年4月20日日曜日

イエスは復活された


[聖書]ルカ24112
[讃美歌]533、325,328,326
[交読詩編]118:13~29、

ルカによる福音書は、その24章を復活物語にしています。

なんら罪を犯していないイエスが、二人の犯罪人と共に十字架に架けられました。通常は、数日にわたり苦しみ、命の雫を搾り取られて行きます。イエスは、人々が驚くほど速やかに絶息しました。陽が落ちれば、安息日です。誰もが、清い日に穢れた亡がらをそのままにしておきたくなかったようです。アリマタヤのヨセフは、自分自身のために用意しておいた新しい墓に、イエスを葬りたい、と願い出て許されます。

 

安息日が明けて、週の初めの日の朝早く、婦人たちは、イエス様の亡がらに塗る香料を持って墓を訪ねました。大きな石は転がしてあり、中に入ることが出来ました。でもイエス様の亡がらは見つかりません。「輝く衣を着た二人の人が」現れました。

「何故、生きた方を死者の中に探すのか」、と三日目の復活予言を思い出させます。

こうして、主イエスの甦りは使徒たちに伝えられます。しかし、信じてもらえません。ただペトロだけは、墓へ走り、その様子が聞いたとおりだったので驚きました。

 

人は誰でも風を見ることは出来ない。風が通った跡を見ることは出来る。その音を聞くことも出来る(ヨハネ38)。甦りも、これと似ている。人の常識では、これを理解することは出来ない。むしる否定し、拒絶する。ここには、何も生まれない。

甦りを受け入れ、認めるところでは、大きなことが生まれる。

 

エキュメニカルなキリスト共同体として知られるテゼ共同体の創立者、ロジェ・シュッツ師(90)は、2005816日夜、礼拝中、合唱団に紛れ込んだ一人の女性にナイフで襲われ死亡した。

 

  ブラザー・ロジェは、フランスのテゼの共同体で、世界中から集まった2,500名の若者と共に夕べの祈りの最中、おそらく精神的に不安定とされるルーマニア人の女性(36)に突然刃物で数か所を刺された。共に祈りに参加していた2名の医師がブラザーをただちに介護したが、その甲斐なく息を引き取った。女性は地元警察に逮捕されたが、犯行の動機などは不明。

 

  ブラザー・ロジェは、1915年、改革派の牧師である父カールとフランス・ブルゴーニュ出身の母アメリーの間に、9人兄弟の末子としてスイスで生まれました。1937年から1940年までストラスブルクとローザンヌで、教派分裂以前の初代教父を研究します。この頃から平和と和解に生きる、教派の垣根を超えた修道会を始める直感を持つようになります。

 

第二次世界大戦が始まった頃、苦悩に満ちたヨーロッパで、「せめてキリスト者同士が和解できたら…」と考えたロジェは、1940年に新しい修道共同体を始める場所を探して、母の出身地フランス・ブルゴーニュ地方を旅した。ロジェがソーヌ=エ=ロワール県の何も無い貧しい村、テゼに行き着きました。この時「ここにとどまってください。私たちは孤独なのです。」と語る老婦人に出会い、テゼに留まることを決意します。ロジェは、テゼに住居を購入し、ひとり祈りと労働の生活を始めました。

若きプロテスタント、ロジェは、ヨーロッパに戦争とナチズムが吹き荒れる中、フランスのブルゴーニュ地方の寒村テゼに家を買い、ユダヤ人など戦争難民を保護しました。

 

ロジェは、ストラスブールとローザンヌで神学を学びました。しかし、どの教会の任職も受けることはしませんでした。

第二次世界大戦が始まって以来、ロジェ・シュッツは、ユダヤ人その他ナチスに追われている人々を、クリューニー修道院に程近いブルゴーニュ・テゼ村の大きな家にかくまうようになりました。そこは、フランスがドイツを警戒して建設した要塞・マジノ線からわずか数キロのところでした。シュッツは、1942年にゲシュタポに目をつけられ、かくまっていた人たちをスイスへ送ります。その留守中、家宅捜査があり、ロジェはスイスに留まります。2年後、1944年フランスが解放されると3人の同志と戻ってきて、ここに修道生活を基礎とした《赦しと和解》のクリスチャン共同体を作りました。

 

戦後のフランスでは、ドイツに対する敵意と緊張が国内で高まる中、テゼ近くでドイツ人司祭が殺害される事件がありました。ロジェと3名の若者は、今度はドイツ人捕虜たちを訪ね始めます。そのために、テゼのブラザーに対する風当たりは厳しくなったが、ロジェは分裂のただ中で和解の道を模索する道を選びます。また、この頃戦争で親を失った子どもたちを引き取り、その世話を手伝うためにロジェの妹が隣村に住み始めた。

 

1949年になると、最初のメンバーに更に3名のフランス人青年が加わりました、その年の復活祭にロジェを初めとする7人が禁欲と、権威への服従と、私有財産の共有を誓い、教派を超えて共に修道生活をする誓願を立てた男子の修道会が始まりました。

テゼは今や70人を超えるメンバーを抱える、エキュメニカルなコミュニティーとなっており、フランシスコ派の修道士と、ギリシャ正教会の修道士が共に生活しています。ブラザー・ロジェはこの共同体の統率者です。夏になると、たくさんの若い人たちが世界中からテゼに集まってきて共に学んだり、瞑想したりしますが、これがきっかけとなって細胞のように、テゼの小グループが世界の各地に生まれました。メンバーは、科学の研究から皿洗いまで、様々な仕事に携わっています。こうした若い人々がクリスチャンとしての生活を共に経験できるように、世界青年会議が新たに結成されました。

一時はドイツの秘密警察に追われ逃亡を余儀なくされるが、1944年再びテゼに戻り、修道生活を基礎とした共同体を始めた。教派を問わないキリスト者の共同体は着実に成長し、今日も世界各国から集まる若者たちが、普遍的な兄弟愛、平和、和解のために祈りの生活を体験している。ブラザー・ロジェはこれまでにその平和への奉仕活動に対して数々の賞を受賞しているが、1988年にはユネスコより平和教育賞を授与されている。

ブラザー・ロジェの後継者のブラザー・アロイーズは、51歳のドイツ人のカトリックで、すでにブラザー・ロジェによって8年前に選ばれ、共同体の規律に従っている。

 

  カトリック教会と深い親交のあったブラザー・ロジェは、教皇ヨハネ・パウロ2世と毎年会見していた。故教皇もテゼの国際大会に毎回メッセージを送られていたほか、1986年のフランス司牧訪問の折には共同体を訪れ、「テゼに立ち寄るのは、泉に近づくかのようです。旅人はここで立ち止まり、渇きを癒し、再び歩き出すのです」という言葉を残されている。

ブラザー・ロジェの突然の悲劇的な死に、カトリック教会関係者は大きな衝撃を受け、フランスやイタリア、ドイツをはじめとする司教協議会や、様々な修道会、運動団体や共同体から次々に哀悼のメッセージがテゼ共同体に寄せられた。

  世界青年の日大会のためドイツ、ケルンに集っている若者たちにも事件の報がもたらされ、参加者たちは大きな驚きと悲しみの中で、ブラザー・ロジェの冥福を心から祈った。

 

祈りと労働、赦しと和解の種を蒔き続けるテゼ共同体。種は芽を出し、成長し、花を付け、やがて果実を結びます。

カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ師は、葬儀に祭司、次のように語りました。

“ 彼は優れた神学者というわけでも、いわゆる偉大な説教者といわれる人物でもありませんでした。そう、説教台に立って身振り手振りで会衆を魅了するような、そんな人ではなかった。彼は、誠実の人でした。語ったこと、行ったこと、すべてが一貫していた。その顔、姿、声、存在……彼のすべてが語っていました。平和に生きる可能性を、和解のうちに生きることができるのだと。 ”

 

 

私の神学校で同級生であった台湾の長老教会牧師は言いました。テゼとは関係ありません。

「僕の伯父さんも牧師だったけど、戦時中特高に連れて行かれて、帰ってこなかったよ。

でももう、赦したよ。」これには、蒋介石総統の信仰的決断があった、とも聞きました。

甦りの主イエスをキリストと信じ、告白するところには、赦しと和解が生まれます。十字架は、人の罪を明らかにします。甦りは、新しい命を与えます。

今この世界には、独善と自己中心がはびこり、相互の不信と対立、混乱が厳しさを増しています。それだからこそ、赦しと和解を大切にしたいものです。

2014年4月13日日曜日

イエスの十字架


[聖書]ルカ232643
[讃美歌]533,313,299
[交読詩編]24:1~10、

 本日は、棕櫚の主日The Palm Sunday、マルコ11111、マタイ21111

ルカ福音書では、19:37以下、エリコから、険しい山道を登ってこられた。オリブ山の近くで、ようやく下りに入ります。東から西に向かう下り坂。子ロバの背には服がかけられています。鞍の代わりでしょうか、敷き皮のつもり、と考えます。子ロバの背に乗り、道を進まれました。

イエスがエルサレムに入ろうとされた時、人々は衣服を道に敷き、棕櫚の枝を打ち振りながら神を讃美し、イエスを歓迎しました。世を救う神の子、メシア・キリストがおいでになった。ハレルヤ、万歳。

ベツレヘムでお生まれになり、ナザレで成長されたひとりの人生の頂点です。

 

このことが主日に起きたか否か、論が分かれますが、私は他の時であろうと考えています。その理由は、ルカ17章以下の流れと、ユダヤの掟によります。

 

先ずユダヤの掟は、夜間の活動を認めません。福音書も殆ど夜間の活動を書きません。私たちは、書かれていない事共の存在を考えることがある、と思いますが、ここではそうしたことはほぼありえないでしょう。

次に、17章以下の流れですが、1711に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」とあります。サマリアからエルサレムは、直線で180キロ以上はありそうです。山道が多い地域です。一日30キロ以上進んだとしても56日はかかります。

以下場所の記述はなく1835「イエスがエリコに近づかれたとき」となります。

エリコからエルサレムへ行くには、およそ25キロほど、ひたすらに山を登るだけです。

朝出発して、日暮れまでになんとかオリブ山を下って城門を入るか、間に合わなければ東側の村々の宿泊所を利用することになるでしょう。

ユダヤには、安息日規定があり、労働を禁じています。歩くことも、日常の生活で必要な距離は許されますが、それを少しでも越える距離になると、労働になる、ということで禁じられます。生きるための厳しい労働からの解放をもたらすものが、自由な歩行の喜びを奪い、抑圧するものになりました。

もちろん商売に関わること、畑へ行くことなどは禁じられます。会堂へ行くことが認められるような距離。英国ダーラム市は、この伝統を受け継いでいます。土曜の夜、翌日、日曜の昼食の準備をします。そして教会の礼拝へ。パブもレストランも閉店です。旅行者は困ります。教会でそのような人を見つけると、自宅へ招きます。これが、知る人ぞ知る、ダーラムのサンデイランチです。

 

このような歩行禁止の規定の中を生きていれば、後の時代に主の日と呼ばれる日曜日にエルサレムに居ようと思えば、安息日に歩いていなければならないのです。これは考えられません。木・金を使う可能性はあります。土曜日・安息日に入場されたことと同じように、日曜にエルサレム入りしたとは考えにくいのです。

でも、こんなこと、いつでもいいじゃないですか。これまで多くの学者が、受難週の行動を確定しようとしてきました。それだって確定できません。そのために復活が否定された、とは聞いていません。

 

主イエスの生涯の最終ステージは、受難と甦りです。十字架が過ぎ越しの金曜日。三日目の朝早く、空っぽの墓が見出されます。それを基準に、逆算して時間表が作られました。それでも不明な点があり、推測しても埋まらず、意見の相違が残されています。

 

キレネ人シモン(リヴィア、首都はトリポリ)、年来の宿願達成のため過越祭のエルサレムに来た。彼がユダヤ人であれば、おそらく商人であり、商用をかねて父祖の地を踏んだのでしょう。他方アフリカ人であれば如何でしょうか。ローマ帝国は、ナイルの流域を穀倉地帯としています。エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、これら北アフリカ一帯は、穀物の生産地であり、輸出国でした。シモンは、大胆な推測をすれば、アフリカ人の改宗者、農地所有者、穀物生産・販売業者、後には、ローマへ出ている。

 

チャーチルの書いた『第二次世界大戦』第3巻に、キュレナイカという地名が出てきていました。第二次世界大戦、北アフリカの戦場

エジプトの西側に接続。それと、ローマ時代を描く歴史書

ハリウッド映画『偉大な生涯の物語』では、名優シドニー・ポワチエが演じていた。

 

このシモンに関係する聖句が、いくつかあります。

マルコ1521「アレキサンデルとルポスの父でシモンというキレネ人が」、マルコの教会では良く知られた兄弟。

ローマ1613「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とによろしく。」

マルコは、その福音書をローマの教会のために書いた、という説があります。シモンの一家がローマにいる、よく知られている人々、となってくるのです。シモンの名は出てきません。20年近くの間に亡くなってしまったのではないでしょうか。

 

かつて、『強いられた恩寵』という題の説教を聴いた覚えがあります。印象的な説教題でした。内容は記憶していません。いくつか考えることが出来ます。

キリストの苦しみに与ることが許されたこと。

息子たちが福音を受け入れたこと(少なくともマルコの教会では、父親より良く知られている)。お連れ合いとルポスはローマへ移ってもなお信仰の交わりの中にいる。

自らは求めず、知らず、ただ神の愛に基づくご計画によって与えられたことが、強いられた恩寵です。私などが伝道者にさせられたことも、強いられた恩寵かな、と考えています。

 

刑場には、三本の十字架が立てられました。2237が成就しました。

『その人は犯罪人の一人に数えられた』。イザヤ5312の予言です。

 

二人の犯罪人の反応は、いかがでしょうか。

ひとりは、「自分と我々を救って見せろ」、そうしたら何だというのでしょうか。人は自分を救い、守るためなら何でもやる。しかし世界を救うキリスト・メシアは違う。彼は自分を救わないゆえにキリストと呼ばれ、信じられる。

「自分を救うが良い」、これは、はじめ議員によって、次いで兵士たちによって、嘲りを持った罵りの言葉です。この犯罪人は、彼らの尻馬に載って言っただけかもしれません。しかし、三度繰り返されることを重視するなら、この言葉が、人間の深い本性から発していることを示すように思われます。そ知らぬ顔で、ここで礼拝をしている私たちの心の底にも同じものがあるんだよ、と言われているのです。

 

もう一人は、自分こそこの刑に相応しいことを告白し、憐れみを求めます。

それに対する主イエスの言葉。アメーン ソイ レゴー、で始まります。まことに、

主イエスの重要な発言には、このアメーンが先行しています。                           

楽園・パラダイス、ペルシャの言葉で、囲いの内側、守られた場所を意味します。

人々の好奇の目や、侮蔑、差別、攻撃にさらされることのない、平和の国へ伴われる、と主は言われました。主イエスは、その生きる限り、病める者を、罪人を救い続けるのです。そのために、私は来た、と言われます。

感謝して祈りましょう。

2014年4月6日日曜日

大声が要求したもの


[聖書]ルカ231325節、
[讃美歌]533,209,298
[交読詩編]22:25~32、

早いものです、なんと四月になりました。本州では桜の季節、時期を違えて、次々と咲いては、潔く散って行きます。日本では、この桜を、武士たちがことのほか愛好しました。

余計なことですが、侍が敬遠したものがあります。首が落ちる椿、腹を割るイチジクです。

その伝統は、近代日本でも職業軍人たちに受け継がれました。そればかりではなく、その周辺の女性たちにも愛好されました。

御殿場教会の庭に、自分で購入した苗を植えました。「市の花」を盛んにしよう、との趣旨です。寒山、普賢象、大島、吉野、緋寒桜など・・・。富士霊園の桜は、質量ともに豊かで、ことのほか見事でした。赴任直後に天野三郎執事がお連れくださいました。

 

本日の聖書は、捕らえられたイエスが、夜が明けてから、最高法院へ連れ出された場面になります。サンヘドリンと呼ばれ、ユダヤの政治、軍事、経済、法律解釈、犯罪の審判、あらゆることに関する最高議決機関です。ユダヤ民族全体を律する法は、ただ一つ律法です。民族の存在は、この律法にかかっています。イエスが、この法廷に引き出されるのは、彼が法の各条に違反していることよりも、神のように見える、ということの故ではなかったか、と考えます。民衆に歓迎されたこと、奇跡を行ったこと、新しい権威に満ちて教えを語った事などです。従来の権威者たちの嫉妬心という理解もあります。自分たちの地位が脅かされている、ということも事実でしょう。様々な理由から、イエスは裁きの座に引き出されました。そして、問われます。「おまえはメシアか」。メシアは、旧約聖書で予言されている救い主、救世主のこと。地上で権力を握る王・支配者を意味することもあります。ローマ帝国が支配するユダヤでは、治安を乱す罪、反逆に問われる可能性があります。更に、「おまえは神の子か」。イエスの応えは、「それはあなた方がそう言っているのだ」というものでした。この言葉を得て、舞台は、ピラトの法廷へ移ります。

 

最高法院は、ユダヤの法で裁くよりもローマ法による死刑を求めました。皇帝に税を納めることを拒否する、自分こそ王たるメシアだ、という言葉がイエス自身のものであれば、治安を乱すものになります。ローマ総督の最大の任務は、治安の維持です。

 

 8節以下には、ヘロデ・アンティパスがイエスと問答を試み、話しかけたことが記されています。ヘロデの求めは、イエスの教えなどではありません。イエスが何か不思議なことを行うのを観たかったのです。イエスは、何も応えられません。何もなさいません。大祭司や律法学者たちは、これ幸いと、激しくイエスを訴えた、とあります。

 ルカはここで面白いことを書いています。「ヘロデとピラトはこの日以来親しい友達になった」とあります。領主ヘロデは、ローマ帝国の支配を代表するピラトと敵対関係にありました。この日、イエスを共通の敵と見ることで結びつきました。敵の敵は味方。

  ルカは当時の事情に精通している。更に、人間心理に通じている。

  二人は、互いに相手を危険視している。それもあって、イエスへの判決は相手に譲る。

 

ピラトは、非常に残忍な総督、機会を捉えてはユダヤ人に権力を思い知らせた。紀元37年、サマリヤ人からひどい暴行の訴えが出されたため、シリア総督ビッテリウスは、彼を罷免した。ビッテリウスは、このとき同時に、カヤパと言う別名を持ったヨセフを免職させ、新しい大祭司を任命した(古代史184)

 

群集の求め、これは大声でなされました。

大声には、形容詞が付くことがあります。「傍若無人、周辺に人がいないかの如し、人も無げに。」

電車内などで大きな声が聞こえると、どこの国人か、と考えてしまう。

酔っ払いの声は計算外。日本人としての常識がなくなっている。

何故あれほど静かなのだろうか、と考えることもある。たいていは、話す必要があっても声を潜めるようにしている。そこまでは要求されていないだろうに、と思う。

 

このごろは、様々なことに関する情報が変化しています。「大声」に関しても全く新しい情報が現れています。

「大声ダイヤモンド」、作詞:秋元康 作曲:井上ヨシマサ、200810月、AKB48の楽曲

走り出すバス 追いかけて 僕は君に 伝えたかった 心のもやもやが消えて 大切なものが見えたんだ こんな簡単な 答えが出 てるのに 何にためらって 見送ったのだろう? 僕が僕であるために 衝動に素直になろう ...

大声で叫べばダイヤモンドになる、ということらしい。

 

 大変人気のあるグループであり、ある意味エポックメーキングな楽曲であったらしい。

しかし、歌詞を読んでみたけど、大事なことが分からない。如何やらこういう類のものは、頭で理解するよりも情緒、感覚で感じればよいものらしい。その辺は、阿久悠さんとの違いかな。あの人の歌は、きちんと頭で理解できて、心の深みで感じることが出来た。

詩というものは、そういうものだと思う。抒情詩、叙事詩、いろいろな分類があると思う。思想の歌と言う分類があっても良いのではないか。欧米では、哲学者・神学者が詩を書いている。それも、多くの人によって受け入れられる優れた詩を書いている。

 

大きな声には、他の人々を脅迫する効果がある。

大きな声は、その語る内容が正しいと思わせる効果がある。錯覚でしかないのだが。

大きな声には、賛同者が大勢いると錯覚させる力がある。

 

年寄りに対する一番の親切は、大きな声で話すことです、と大阪の教会で聞きました。

年寄りは、自分の耳が聞こえないからどうしても大きな声で話します。そのくらいの声で話してもらうのがちょうど良いのです。

私は普通、小さな声で話します。自分の耳には聞こえています。少なくとも、自分の話は聞こえる。その程度の声で話しています。

 

大きな声は、強い自己主張ではないでしょうか。地声、ということもあるでしょう。

ある時、中国育ちの同級生が言っていました。彼は大変大きな声が出る人です。

「大陸では、赤ん坊が泣いても、隣近所への遠慮など考えなくて良いので、ほって置くよ。

よく泣いた子どもは声帯が強くなり、大きな声になるんだろう。日本は、向こう三軒両隣

にご迷惑かけないようにしなければならない、と考えるから小さい声で話すようになるわけさ、ということです。」

 

大きな声を出すと、正々堂々の主張である、というイメージを広げます。でたらめな内容であっても、真実が語られている、真理を語っている、と印象付けられます。日本の政治家の条件は、大きな声で話すことではないでしょうか。中身がなければないほど大きな声が求められます。

同じ内容でも小声で、囁くように言ったならそれは秘め事になってしまいます。聞く人は、その内容に対して確信を欠いているのでは、と疑ってしまいます。

 

大声は、小さな声を押しつぶすものだ

 

祭司長や律法学者たちは、自分たちの考えが通るように大声を求め、細工しました。しかし真理はそのようなところにはありません。

創世記281022「ヤコブの梯子」

Ⅰ列王191213、「風の中、地震の中、火の中にも主はおられなかった。

火の後に静かな細い声が聞こえた。」

                                                                                                    

大声は、何を要求したのでしょうか。イエスを十字架で死なせることでした。そのためには、暴動と殺人を犯した、とされるバラバを釈放することを要求しました。ここに、群衆の罪があります。この群集は、ほかならぬ、私たち自身です。

細い静かな声で語りかける真理の言葉を聴きましょう。