2015年4月26日日曜日

命のパン

[ヨハネ福音書]6:34~40、
[讃美歌]280,528,56、
[交読詩編]78:23~39、
出エジプト16:416、Ⅰコリント8:Ⅰ~13

 

本日の聖書はヨハネ福音書からです。

連続講解説教を続けていたら、私はヨハネ福音書を選ばないでしょう。難しいからです。

好きな聖句はあります。断片的には好むけれど、全体としては好みではありません。説教し難いのです。

聖書日課に従って説教しようとすると、今までとは違うことをしなければならなくなります。それは文脈研究です。前後の脈絡を意味します。連続なら、当然一回ずつ、解っています。福音書では、場所、状況、その前の場面の出来事。手紙であれば、その序論があり、論理的な構成もあるわけです。

その上、各巻概説・緒論的なことも話さなければなるまい、と感じます。かなり時間がかかることになります。最低限必要なことであっても、それを感じるのは、私だけであろう、と考えて、時には省略させていただくことになりそうです。

 

多くのことは省略。この6章に記されていることだけに留めましょう。

まずここでは、5000人に対する給食があります。場所はユリウス・ベツサイダ。ガリラヤ湖の北、ヨルダン川を少し上流に行った辺り。時は、過ぎ越しの祭りが近いころです。

200ディナリ分のパンでも足りないだろう、とフィリポが答えています。それをパン五つと魚二匹で満腹させ、12のかご一杯のパンくずが出ました。これも一つのパンの奇跡物語。

そして、水上渡渉の奇跡。それから、パンに関わるレクチャー、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。場所は、カフェルナウムに変わります(25節)。

「永遠の命の言葉」に続いてシモン・ペトロに12人の一人がイエスを裏切ることを預言される。

ペトロに語られた、ということに特別な意味を見出します。ここでの「裏切り」は、イスカリオテのユダのことである、とされるが、これを聞くペトロ自身、最後の時に裏切り、そこから立ち直る人物です。

 

イエスは、いかにも温かく、多くの人を包み込むような人柄。眼を瞠るような奇跡を行い、胸に染み入るような教えを語った。それでも、これを見たり聞いたりする者たちの全てが信じるわけではないことを知っておられた(36節)。

 

本日の旧約聖書日課は、出エジプト16:416です。この31節で主がお話しになりました。

荒野でイスラエルは、エジプトの肉なべを恋しがる。

神は、夕べには鶉を与え、朝にはマナをお与えになった。

 

それを聞いた人々は、飢えることなく、渇く事もなくなるパンがあるのなら、自分たちも欲しい。与えてください、と願いました。するとイエスは答えられます。

エイペン アウトイス ホ イエスース        イエスは言われた

エゴー エイミ ホ アルトス テース ゾーエース  私が命のパンである。

私に来るものは、決して飢えることなく、渇くことがない。

    エゴーエイミは、ここで初めて出てくるが、ヨハネの中で重要事項に用いられる。

人は、食べるものによって生きることが出来る。

料理されたものを食べることを知っている人は、恐らく人間らしい生活を生きるだろう。

火を知らず、料理することを知らない人間は、野獣に近い、原始的な生き方をすることになるだろう。人間進化の段階に従って食べるもの、食べ方に変化が生まれるでしょう。

他方、どのような生き方を、そして死に方を求めるかによって、その食べるものも変わってくる。「われ、渇しても盗泉の水を飲まず」という言葉があります。「武士は食わねど高楊枝」と似たようなことでしょうか。一つの生き方です。それには相応しい食べ物があり、食べ方があるわけです。

 

山形県には修験道の修行地としてよく知られた出羽三山地方があります。月山、湯殿山、羽黒山。修行者は、昔から『即身仏』を修行の頂点としてきました。生きながらミイラになる。最後には、食べるものは木の実と少量の水だけ。骨と皮だけになるのでしょうか。生き方であり、死に方です。

 

最近はグルメという食べ方、生き方があります。特別に高級な食材を、特別手の込んだ料理法で造り上げたものを食べる。これなどは豊かな社会で富の偏りが生まれた格差社会のあだ花と感じています。ローマ帝国の宮廷、貴族や富裕な人々の間

でも同じことが起こりました。帝国の没落と共に消えました。以来、一部の豊かな社会層で楽しまれました。自分の富、資産を使うのだ、勝手だろう、という生き方です。

それは、承認できません。高級食材を自分たちのためにかき集める。波及効果として普通の食材まで不足し、高くなる。一般のつましい生活、食生活の人たちが困窮します。

 

70年前、戦争の惨めな結果がこの国のいたるところを覆っていました。棲むところもなく、糧を得るための仕事もなく、着た切りで、少しの食べ物を分けて、かろうじて生きていました。多くの母親達は、食べたふりをして、自分の少しばかりの食物を子どもに分け与えました。その母達は殆ど死にました。その子ども達は、後期高齢者となっています。彼らは余り食べるものに関与しません。その次の世代以降ではないでしょうか。グルマンは。

 

父も母も、子どもには食べさせようとします。自分のものを削ってでも。

それでも食べようとしない子供がいます。理由は簡単です。外で食べてきたか、家で盗み食いをしているのでしょう。要するに、栄養や愛情とは無関係な食べ物で満腹しているからです。

 

父の御心は何か? 食べ物を供給することです。食べて、成長することです。

それが、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、終わりの日に復活させること。

これだけはっきり話しておられるのに、それを受け入れ、信じる者は少ない。

何故か、ユダヤでは、無理もない、と感じます。

 

イエスの裂かれた肉と流された血とが、まことのパンである、食物である、ということは、当時のユダヤ人にとっては、躓き以外の何ものでもなかった。なぜなら、彼らには血を口に入れるということは堅く禁じられていたからである。ヨハネもユダヤ人。

 

レビ記17:10以下(口語訳)

17:10イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。

17:11肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。

17:12このゆえに、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたのうち、だれも血を食べてはならない。またあなたがたのうちに宿る寄留者も血を食べてはならない。

17:13イスラエルの人々のうち、またあなたがたのうちに宿る寄留者のうち、だれでも、食べてもよい獣あるいは鳥を狩り獲た者は、その血を注ぎ出し、土でこれをおおわなければならない。

17:14すべて肉の命は、その血と一つだからである。それで、わたしはイスラエルの人々に言った。あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべて肉の命はその血だからである。すべて血を食べる者は断たれるであろう。

17:15自然に死んだもの、または裂き殺されたものを食べる人は、国に生れた者であれ、寄留者であれ、その衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れているが、その後、清くなるであろう。

17:16もし、洗わず、また身をすすがないならば、彼はその罪を負わなければならない』」。

それでは、この部分はどのように理解するべきなのだろうか。福音書記者ヨハネは、人となった言葉にして神の子たる方と人間との出会いこそ、何より重要なこと、と伝えます。

 

使徒書日課は、Ⅰコリント8:413、です。

この弱い兄弟のためにもキリストは死なれたのである。食物の故に弱い兄弟を躓かせてはならない。と記されています。

8:1偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。

8:2もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。

8:3しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。

8:4さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。

8:5というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、

8:6わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

8:7しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。

8:8食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

8:9しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

8:10なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

8:11するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。

8:12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、その弱い良心を痛めるのは、キリストに対して罪を犯すことなのである。

8:13 だから、もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは永久に、断じて肉を食べることはしない。

この日課は、不思議の思いを呼びます。命のパンならば、聖晩餐に結びつくのではないか、何故そうなっていないのか、という考えです。むしろ疑問といってよいでしょう。

ヨハネは、生命的な存在である主イエスを、聖晩餐にだけ結び付けようとはしなかったのです。広く誰でもが主イエスと一つになれる、と伝えているのです。

 

肉と血とは、イエスの全人格を指し示す言葉であり、この方と出会い、この方を知り、受け入れて生きることが出来る、とヨハネは伝えています。

イエスを命のパンとして受け入れ、私の血肉とするなら、そこには、真善美聖愛を基盤とする生き方が始まります。私たちが求める生き方は、この中にあるはずです。

 

 

2015年4月19日日曜日

復活顕現・彼らの真ん中に

[聖書]ルカ243643
[讃美歌]280,441,401,77、
[交読詩編]4:2~9、

 

説教の方法を、少しだけ変えてみます。これまで、パウロ書簡や福音書を連続して読み、学ぶスタイルを試みてきました。最近は、ルカ福音書、だいぶ読み進み、もう少しで終わりが見えてきました。ここで一応終わりにします。すでに復活主日から、教団の教会暦・聖書日課に基づく説教に入っています。たまたま教団の教会暦、それに基づいた聖書日課もルカ福音書でした。余り変わりがないかも知れませんが、主題と聖句の選択において私の主観は極力排されている、とご承知ください。教団の教会暦、聖書日課に基づいた説教をするように務めます。

 

前主日は、エマオ途上の弟子達に現れた甦りの主イエスの記事を読みました。主イエスは、無理解な者、不信仰な者たちに現れ、自ら聖書を解き明かしてくださったものでした。

更に、一緒にいてくださり、パンを裂いてお渡しになっている時、弟子たちの目が開けました。彼らは主イエスを見分け、起こっていることの重大性を理解したのです。

本日は、その次に語られることです。ルカ福音書243643、このペリコーペと、詩編429は日課の記載のままです。ほかに旧約・イザヤ5116、使徒書・Ⅰコリント155058が挙げられています。

    

二人の弟子は、急いでエルサレムに戻りました。十一人とその仲間達が集まり、主の復活は本当だ、シモンに現れた、などと話しているところでした。クレオパともう一人の弟子も、自分たちが経験したことを全て、順序良く話しました。とりわけ、パン裂きの時にイエスだと解るようになったことを伝えたようです。いろいろ質問が出たり、確認されたりで、かなり心が燃えた状態になっていったことでしょう。

 

エルサレムへ戻ったことは、教会の歴史を考える時、重要な意味を持っています。

この朝、イエスの亡骸を求めて墓を訪れた女達、街中の弟子たちのもとへ帰りました。

其処から出発した二人はエマオの宿から、直ちにエルサレムへ帰りました。

どちらも自分たちの体験を伝え、分かち合い、証言しました。ユダヤの律法は、証言する者は、必ず複数であることを求めます。教会は、常にキリストに関わる証言を複数で行うようにしてきました。ホーリネス派では、今に到るまで、伝道者は夫婦揃っていることを定めています。またアメリカの教会は、海外宣教に赴く宣教師の任命は、基本的に夫婦一組単位にします。独身の婦人宣教師は、あったようです。

明治中ごろ、他の教派に遅れて、ディサイプルス派が宣教師を日本に送りました。全て夫婦一組単位です。大坪先生が赴任された秋田の本荘教会も、そうした宣教師達によって生み出されたものです。夫人が病死され、失意の内に帰国された方もあります。

大きな犠牲を払って宣教師達は、來日されました。それは十字架と甦りのキリストを信じ、それを宣べ伝えるためです。その喜びを伝えずには、いられなかったのです。

 

エルサレムへ戻ったことは、もっと深い意味を弟子たちの教会に示し、教えました。

主イエスは、その生涯の最後を、このエルサレムで迎えることにされ、ここに戻ってこられました。そして新しい命の始まりをこの地で始められたのです。まさに永遠の福音は、ここエルサレムから始まります。

パレスティナの宣教旅行を終えて戻ってきたシモン・ペトロ(言行録911章)、また宣教旅行を終えるたびごとに戻ってきたパウロ(言行録1321章)にも当てはまることです。

これによって人々は、キリスト体験を分かち合い、力づけあうことが出来ます。

 

その最中のことです。話題の中心になっている主イエスご自身が、彼らの真ん中に立ち、言われました。「あなたがたに平和があるように」、ギリシャ語聖書では、エイレーネー フミン と書かれています。これは間違いなく、ユダヤ人の日常の挨拶の言葉、シャロームそのままです。これも、平和があるように、と言う意味です。讃美歌Ⅱ編202

弟子たちの一団は、主イエスの亡骸がなくなった、主イエスは甦った、私は甦られた主イエスにお目にかかった、裂かれたパンを渡されました、などと報告し、話し合い、興奮状態を続けていました。彼らは自分の体験を分かち合っていました。良い知らせを分け合いました。決して平静な状態ではありません。主イエスは、そうした状態の人々の唯中に現れ、心を鎮めなさい、平和があります、と言われるのです。

 

主イエスの言葉通り平静になるかと言いますと、なかなかそうは行かないものです。受け入れていないからです。主イエスの言葉によれば、彼らは、うろたえています。彼らは、恐れおののき、亡霊を見ているのだ、と感じていました。

彼らが不安や恐怖に支配されるのではなく、真実に拠って平安を得るために、主イエスは御自身を差し出されます。「手や足を見なさい。亡霊には肉も骨もないが、私にはそれがある」。これで真実がわかり、安心できるでしょうか。死んだはずだよ、お富さん。

もっと不安になります。こんなはずは無い、と思うからです。

 

この頃、と言うかもう少し前から、私たちの周囲では妖怪の人気が高まっている、と聞きます。水木しげるさんの魅力もあるのでしょうか。最近の妖怪ウオッチになると、まるで判りません。辞書は、同じような事象を指す言葉・類語を次のように分類します。

妖怪は人外が化けて出たもの。人間を見境無く脅かす。

幽霊は人間が化けて出たもの。未練が残っているため成仏できない。

お化けはこの2つを合わせたもの。

お化けを信じて、ここで現れると思っている人には、そこで見えるそうです。そのようには考えず、信じていない人には見えない。木の枝が作り出す陰や、風の生み出す物音が、人によっては幽霊・妖怪に見える、と言われています。感覚が非常に繊細な方のようです。

私は、そういう時でも見えたことがありません。

 

さて、なかなか信じることが出来ず、半信半疑の弟子たち。甦りの主は、食べ物を要求されます。ご自分が空腹になられたわけではありません。肉体を備えた実存在であることをお示しになるためでした。

焼いた魚の一切れが差し出され、彼らが見ている前で、主はそれを食べられました。

この部分は、ヨハネ福音書からの借り物である、とする説があります。多分そうなのでしょう。然し、信頼できる大文字写本は、本文通りです。この部分を削除する必要はないでしょう。古くから教会が採用してきた本文には、深い意味があります。

甦りとは、ギリシャ的な霊魂不滅の考えではありません。肉を伴う体の甦り、この手で触れ、目で見ることが出来る形への甦りなのです。甦りのキリストは十字架に死んだイエスである、ということです。この弟子たちの証言に私たちの信仰は立っています。見たことがない主イエスの甦り、私は、それだからそのことを信じます。

2015年4月12日日曜日

復活顕現・エマオで

[聖書]ルカ241335
[讃美歌]280,457,57、
[交読詩編]16:1~11、

エマオへ向かう二人の弟子、その日の夕刻のことでした。エマオはエルサレムから西へ60スタディオン、約11kmのところ、意見の相違があり、確定はされていません。

同じ日の朝早く、婦人たちが主イエスの亡骸に油を塗ろうと願い、出向いたところ、墓が空っぽであることを見出しました。そこで起きたこと、起きなかったことを他の弟子達に伝えました。必ずしも喜び迎えられたわけではありません。戯言のように感じられたようです。然し、ペトロは違いました。直ちに墓へ行き、イエスを捜します。何も見つけることは出来ません。

ヨハネは、もう一人の弟子が先についた、と記します。これは福音書記者、若いヨハネだったのでしょう。ルカが2424で「仲間の者が何人か」とするのは、この事でしょう。

 

クレオパともう一人の弟子の間ではこうした一切のことが、話し合われていました。彼らは、暗い顔をしていたそうです。無理もないですね。ガリラヤでイエスと出会い、人生の希望を託しました。イスラエル解放の希望です。この方に従って行けば間違いない、と感じ全てを委ねました。ところが思いもよらず、突然取り去られました。目先が真っ暗になる思いだったでしょう。まだまだ、明るい将来を思い描くことは出来ません。

私たちもこの社会で、将来の希望を思い描くことが出来ない、と感じた時、暗い顔になっているのです。失望や絶望が怖いので、何ものにも希望を抱こうとはしなくなることもあります。この二人の間に一人の男が顔を出します。福音書記者は、それはイエスである、と明かしています。然し、二人の眼は遮られていたのでイエスとは判りません。

 

二人は、このイエスにいろいろ説明します。その結論は、世にも不思議なことが起こった。

葬られたイエスの亡骸がなくなっていた、というものでした。

 

イエスは、二人の者が、実に物分りが悪く、心が鈍い、と嘆きます。古の預言者のこと、ご自身がなさったメシア予言のことなど、モーセと預言者から初めて、聖書全体にわたって、説明されます。イエスが聖書を説明されるのです。

私たちは、聖書がイエスはキリストであることを説明している、つまり、聖書がキリストを解き明かす、と考えています。ところが、ここでは、キリストが聖書を解き明かしています。

ルカが伝えるこの出来事の要点は、キリストによる聖書の解き明かしと、エマオの宿で、キリストが弟子たちにパンを裂いて与えられた、という二つのことです。つまり、聖書の解き明かしとパン裂きがエマオ途上の復活物語の内容です。

私たちはしばしば忘れていたり、気付かなかったりすることがあります。それは、聖餐式がキリストに起源をもっているように、聖書の解き明かしである礼拝説教もキリストが起源である、ということです。従って牧師は、聖餐式と説教を、起源がキリストにあるように正しく執行し、 正しく語らなければなりません。説教者は恣意的にならないよう教えられ、訓練されてきました。自分の話芸を誇るのなら、噺家、漫談家になればよいのです。

そして、信徒も聖餐と礼拝説教を、キリストに起源をもつものとして、正しく受け取らなくてはなりません。聖書の福音が語られることを求めるのです。聖書の解き明かしとパン裂きこそが、復活のキリストに出会う奥義であることを、ルカは、指し示しています。

 

1516節に戻ります。この最初の段階で二人の弟子の目は遮られていました。『人は見るだろうと期待している、予期しているものを見るものだ』と言われます。見るだろうとは思ってもいないものは見ても見ないのです。目が開かれたのは、イエスが彼らと「一緒に席についた」ときです。この「一緒」という言葉、ギリシャ語ではシュンまたはスンと発音する語。シンフォニー、シンパシーなどでよく知られます。気を付けたいのは、一緒に別々になっていることです。砂場で幼児が遊ぶ姿を見ていると、一緒にいるのですが別々に遊んでいる、ということがあります。本当に共にいるなら、其処では何か新しいことが起きてきます。

イエスは「一緒に歩き始め」(15節)、「一緒に泊り…共に泊まる」(29節)、「一緒に席につく」(30節)というように、つねに彼らと「一緒に」おられました。其処では新しいことが起きました。「私たちの心は燃えていたではないか」、これは新しいことが起きたことを示しています。甦りの主イエスとの出会い。初めてのことです。彼らが知らなかったこと、気付かなかった事が起こりました。同じことが我々にも起きます。

 

じつは、イエスが我々と一緒におられるのに、それに気付かないという話が聖書にあります。最後の審判のとき、キリストが「わたしが餓えたとき、渇いていたとき、旅をしていたとき、病気のとき、牢獄にいたとき、わたしによくしてくれた」(マタイ2536節)と言いますと、言われた人々は、「わたしはあなたにお目にかかったことはありません」というのです。そのときキリストはこういいます。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことである」(マタイ2540節)。つまり、我々は苦しんでいる「最も小さな者・弱い者」と出会うとき、復活のキリストと会うのです。

復活のキリストが「最も小さな者」としていつも我々の目の前におられることに、気付くことが出来ます。甦りの主キリストは、このような形で、私たちの目の前に現れてくださいます。感謝しましょう。

2015年4月5日日曜日

ペトロは立ち上がって


[聖書]ルカ24112
[讃美歌]433、151,309、
[交読詩編]22:2~22

 今日はイースター。イエスが、甦らされた日です。この日を昔は、週の初めの日、と呼んだようです。教会は、その日を主の日と呼ぶようになりました。主イエスが、神により甦らされた日を記念するものです。

ふっかつ、復活 Resurrection 死んだイエスが甦(よみがえ)ったという主張で,キリスト教の使信の中核をなす考え方。もっとも、死人が再び甦る、という思想はキリスト教に限られているわけではなく,仏教においてもみられるし,さらに新約聖書においても,イエスに限らず何人かの甦りについて語られています。

マルコによる福音書521以下,会堂長ヤイロの娘。

614,ヘロデはこれを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ。」

マタイによる福音書2752、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

ルカによる福音書711以下,ナインのやもめの息子。

ヨハネによる福音書1117以下,ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロ。


辞書は、復活 について次のように説明しています。

生きかえること。よみがえること。蘇生。

衰えたもの・廃止したものを再び用い,盛んにすること。 「対抗試合を-する」

ユダヤ教・キリスト教で,一度死んだ者が再びよみがえるという信仰。特に,キリスト教で,イエス-キリストの復活をいい,教理の核心をなす。

新約聖書のギリシャ語では、アニステーミ(アナ+ヒステーミ)で、おこす、起き上がらせる、立たせる、立てる、甦らせる(死者の中から起き上がらせる)、甦る、復活する。

  類語 エゲイローは元来眠りより覚ますこと、アニステーミは倒れて(横たわって)いるものを起こして立たす。

アナは、「上へ」が基本的意味。の真中に、の間に、

ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝一家には、アナスターシャと呼ばれる皇女がおられたそ

うです。ハリウッド映画では、主人公になっていたそうです。
 

 さて、ルカ24章は、最初の復活主日の出来事を語っています。見えてくるのは、空っぽ

の墓、ということです。それを見たのは婦人たちでした。ここには、その名前さえあり

ません。彼女達の名前は、ようやく10節に現れます。

空虚な墓は、死体がそこにない、ということを意味しているだけなのです。

復活された方は十字架につけられて葬られたイエスなのだ、という実に重要なポイントを

支える働きをしています。

 

墓を訪れた婦人たちは、意外な状況に驚き、戸惑いました。その中で、イエスの言葉を

思い出し、仲間の使徒たちに知らせようと、急いで帰ります。

彼女達は、甦られた主イエスとは出会っていません。ただ空っぽの墓とそこに現れた二人

の若者のこと、復活なさった、と告げられたことを知らせなければ、と考えました。

 

未曾有の出来事を知らされた使徒たちは、それを信じませんでした。当然のことですが、信じることが出来なかったのです。彼らは、大事な先生が亡くなられた。その体(ギリシャ語のソーマ、英語のボディが使われています)が無くなった、そこまでは認めることが出来ます。経験上ありうることです。甦らされた、これは常識と違います。

大部分の者たちは、そんな馬鹿なことがあるものか、と感じ、座り込んだままでした。

然し弟子たちの中でペトロだけは違いました。

何故か、ここでペトロにスポットライト・照明が当てられています。

ペトロは、12人の者たちの代表格。

それ以前は、ガリラヤ湖の漁師。自前の漁船を持ち、働き手を雇っていたようです。

イエスに従うようになってから大きな失敗がありました。悪意ではなく、善意から先生を諌めようとするものです。

落ち込み、沈んでしまい、とても立ち上がれなさそうなこともしています(2231以下)。

主を裏切った絶望感の中で、あの主のみ言葉を思い出し、すがり付いていました。

大祭司の中庭で、ペトロを見つめた主イエスの眼差しを思い返していました。

その後、外へ出て、激しく泣いた自分自身を思い出していました。

 

ルカ22:31シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけるこ

とを願って許された。

22:32しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っ

た。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

22:33シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたと

ご一緒に行く覚悟です」。

22:34するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴

くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。2254以下

 

大事な12節を、塚本訳は削除しています。前田訳はカッコ内に入れています。

英訳でも、RSV1971年版)や NEBその他で、注の部分に入れられています。

恐らくD写本がこれを欠いているためでしょう。ベザ写本と呼ばれ、6世紀のものです。西欧型本文の代表格で、自由な編集が特徴。より古い3世紀のP752世紀のP77或いはシナイ、アレキサンドリア、バチカンなどの大文字写本(46世紀)は、これを本文の中

に保持しています。

削除する理由は、これをヨハネ203からの借用、と考えたもののようです。

「ペトロともう一人の弟子は、外へ出て墓へ行った。」

もう一人の弟子は年若いヨハネと考えられています。

同じ記述であってもルカ福音書の調和を乱すものでもなく、このままで良いでしょう。

 

 イエスの甦りは、沈み込んでいたペトロを、立ち上がらせました。

絶望の中で死んだようなペトロを、生き返らせました。自分の悲しみに打たれてい

たペトロを、他の人々を励ますことのできる者に変えました。隠したい自分の失敗

を、大胆に語る者に変えられました。

甦りは、望みを失った者に希望を回復させます。

神は、イエスを死の中より甦らせ、全ての人に死に打ち勝つ、慰めと希望をお与えになりました。感謝して祈りましょう。