2015年8月30日日曜日

神からの誉れ

[聖書]Ⅱコリント11715

[讃美歌]200、132,457、
[交読詩編]31:15~25、

[聖書日課]箴言25:2~7a、ルカ14:7~14、



本日の聖書日課には、箴言が見られます。これは大変珍しいことだ、と感じています。

皆様が、ご自分で箴言を読むことが出来るように、箴言の概説から始めましょう。

箴言に関しては、辞典類のほか、松田明三郎(あけみろう)先生の『箴言』私訳と解釈、ケンブリッジ旧約註解、二冊だけです。松田先生は、詩人としては、詩集『星を動かす少女』を残されました。先生の『箴言』が出版された時、余り関心はありませんでした。1967年、修士論文も書き終え、任地はどうなるか、希望と不安が交錯する頃です。

箴言は、勉強することもなさそうだが、売れそうもないので、売り上げに協力しようと考えて購入し、書棚に上げていました。本当は、箴言の註解書は、これまでもなかったし、これからはもっと出版されないだろう、と考えたからでした。

時折手に取りますが、実に丁寧に仕事をしておられます。

私が先生の講義を伺ったのは、脳内出血のため休職され、やせ細ったお体で復職された時でした。申し訳ないことに、先生の声も小さく、滑舌が不自由でよく聞き取れませんでした。お元気な時は、この註解書のように綿密で明快な講義をなさっておられたのでしょう。

同級生が言いました。「松田先生は、お元気な頃は、恰幅もよく立派なものだった。背広だってダブダブになっているだろう。あの頃の講義を聞かせたかったなあ。」



さて名称です。箴言、当たり前のこと。

ある時、小学校の退職校長が礼拝の司会に当たりました。「交読文35、かんげん8章」。「かんげん・・・」、そのあとどうしたか、記憶には残りませんでした。

以来、考え続けています。あの文字には「かん」という読みがあるのではなかろうか、と。感動の感の字、箴言と同じ部分を持ちます。これが、かんではなかろうか、と。

戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。「箴言集」

旧約聖書の中の一書。道徳上の格言や実践的教訓を主な内容とし、英知による格言・金言・勧告が集められたもの。ソロモンその他の賢人の言葉と伝えられる。知恵の書。



ここからは、主に松田先生の著書によります。

「箴言は、旧約正典の三つの区分、律法トーラー、預言ネービーム、諸書ケスビーム、のうち第三区分に属するものである。第三区分が最後に完成したのは紀元90年ヤムニアにおけるラビの会議においてであったが、紀元前132年までに大体の形が出来ていたことは、ベン・シラの孫が、祖父の箴言集の緒言において、「他の諸書」という句で律法、預言と共にその存在に言及している事実によって証明されている。

本書が正典として第三区分に加えられたのは「預言」の成立(紀元前250年頃)以後における旧約のある時期である。知恵文学は、賢人或いは知者と呼ばれる人々によって産み出された文学である。エースタリーは古代エジプトやバビロニアにも、この類の階級の人間が存在していた事実を挙げて、イスラエル賢人の起源も余程旧いものであろうと推論している。

イザヤ2914、エレミヤ889、ヨブ29725、イザヤ551などはこの賢人に関わることである、と指摘している。

彼ら賢人は、マカベヤ戦争以後の国粋主義的風潮の中で衰退した。彼らの語ることは、世界主義的超民族的、純粋な倫理的教訓であったため。

イエスの教えの中には、賢人の特徴中最善のものが、摂取されている。」



ヘブル詩の形態は五つの観点から考えられる、とする。

韻律、教え歌、アルファベット歌、面白いと感じたのは「ヘブル詩の並行法」

1行目と2行目を対比していますが、邦訳聖書では分からないようになっています。

日本語聖書は、詩を改行せずに長く書き出しています。



同義的並行法、第1行と2行とがその思想内容において並行。箴言71

7:1わが子よ、わたしの言葉を守り、/わたしの戒めをあなたの心にたくわえよ。

8:1知恵は呼ばわらないのか、/悟りは声をあげないのか。

反語的並行法、同じく思想において相対立する詩型。箴言139122 8

13:9正しい者の光は輝き、/悪しき者のともしびは消される。

12:28正義の道には命がある、/しかし誤りの道は死に至る。

総合的並行法、第2行が第1行の思想を総合してゆく詩型、思想の点では真の並行とはいえない。後にいたり、形式的並行法と名付けられた(グレイ)。1101813

1:10わが子よ、悪者があなたを誘っても、/それに従ってはならない。

18:13事をよく聞かないで答える者は、/愚かであって恥をこうむる。



この書物の面白さは他にもあります。「聖書的箴言の資材的考証」という章節があります。

  1. 自然の観察より得た資材 2、人間世界の観察より得た資材 3、異邦世界の知恵文学より得た資材(エドムの知恵、エジプトの知恵…アメン・エム・オペの教訓と対照、バビロニアの知恵…アヒカルの知恵と対照)

    著者と年代に関しても丁寧な考察を加えておられます。省略
    箴言は、現在の一巻の形になる前には七個の箴言集として存在していた。 
    本日の日課、2512927は、その第4集に属します。前半2527章には世俗的なものが多く、後半2829章では、倫理的・宗教的な面が強調されています。
    251には、ヒゼキヤの家臣が筆記したものとありますが、その歴史的真実性が認められています。したがってこの集の年代は、紀元前8世紀の終わりに近い頃と見られます。

    少し内容的なことを、ご一緒に考えて見ましょう。
    箴言、教訓を集め、編集したもの。ずいぶんカタックルシイのだろうな。昔の論語と同じだろう。あんなもの、とてもじゃないが読んでいられません。勘弁してください。
    そうでもないのです。面白いもんですよ。青年時代の記憶276
    「愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。」
    イスカリオテのユダを思い出しました。
    そのあと30章、31章は「ヤケの人アグルの言葉」となっています。
    3018は、不思議に堪えないことを四つあげています。「はげたかの道、蛇の道、舟の道、男の女にあう道」がそれです。ふーン、そういうものか、と感じたものです。
    3110以下は、賢い妻を見つけることは大変困難だなあ、と悲観的になった覚えがあります。
    倫理的な教訓を集大成したものですが、それだけではありません。人間の能力、努力が全てを成し遂げるのか、と言えば決してそうではない、と言います。
    35「心を尽くして主に信頼せよ。自分の知識に頼っては成らない。
    全ての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

    箴言の底流には、神がこの宇宙、世界、社会のすべてのものを創造され、支配され、保たれ、導いておられるという信仰があります。その意味で、箴言が説くのは現世利益的な助言というような類ではありません。その証拠に箴言の作者たちは、人間の知恵では、はかり知れないことがあることを認めていました。
     「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(1921節)
     「主の向かっては、知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない」(2130節)
     また、箴言の作者たちは、富や財産、名誉よりも、重要なものがあることも知っていました。
     「正しく歩む貧しい者は、曲がったことを言う愚かな者にまさる」(191節)
    いかに成功や富を得るかが第一義的なことではありません。あくまで重要なのは、すべてを導く神の意志なのです。神の創造、支配、保持を信じて、誠実に生きていくべきであるという生活が勧められているのです。

    251節~2927節は「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」となります。
    「ヒゼキヤによるソロモンの箴言」は、ソロモンより約200年後のヒゼキヤ王の時代に編集されたものと考えられます。松田先生の註解にあるとおりです。ある注解書には、ヒゼキヤに大きな影響を与えたのは預言者イザヤ(イスラエルの貴族アモツの子)であり、そのイザヤ的な思想が252節には含まれていると指摘されています。
     「事を隠すのは神の誉れであり、事を窮めるのは王の誉れである。」(252節)
    松田先生の解釈を引用しましょう。
    第二イザヤの預言にも「イスラエルの神、救い主よ、まことにあなたは、ご自分を隠しておられる紙である。」(4515)とある(ヨブ117参照)。またこれはパスカルが『パンセ』の中で取り扱っている主題である。「人間は神から遠ざかっており暗黒の裡にいる。また、神は人間から知られぬよう身を隠していたもう。さうして〈隠れたる神〉(イザヤ4515)、これが神の神自らを呼びたもう名前である。(津田穣訳『パスカルの言葉』)

    ワイブレイは、この節を次のように訳しています。
    「神の栄光は物事を隠しておくことであるが、
    王の光栄はそれらを測り知ることである。」
    神秘は神の本質であり、良き王は世論に耳を傾ける。ワイブレイに対して異議を申し立てます。まことの王は、神の秘密を明らかにして、人々を指導します。ある国の総理大臣は、おもてなし、を合言葉に競技大会を招致しました。時期は8月に設定されています。主要な施設建設において、冷房施設を経費節減のためとして排除しました。世論を重んじた、と言うでしょう。何を大事にするべきか明らかにして、説得するのが政治の役割です。
    この人は、全てを隠す神の如きものになっています。
    神が隠しておられることは多すぎて、考えることも出来そうにありません。ひとつだけあげてみましょう。私たちの命脈は何時尽きるのでしょうか。
    私自身のことを申しますと、ある時期から70歳まで、と考え定めていました。生活設計も。
    病気の時72歳まで生かしてください、と願いました。今は、それを過ぎて不明です。生かされるならば生きて、求められるならば働こうか、と考えています。それでも何時までか、わからないままです。期限は不明、でも確実に迫っている。よく生きて、よく死にたい。

    ”人間はいつかみな必ず死ぬ”、誰もが日一日と死に近づいている。無限に生きることは出来ない。人生には命によって期限が設けられている。それまでの間をどのように生きようとしているだろうか。私のしたいことは何か、私がすべきことは何か、見出しているだろうか。招かれた宴席で上座に着くことではない、人々の賞賛を受けることでもない、富や権力を握ることでもない。創造者が、どのように評価してくれるか、この視点を忘れてはいないだろうか。私が、なすべきことを、誤らずにして行きたい。なすべきことこそしたいこと。この考え、この信仰をご一緒に歩みたい。

2015年8月23日日曜日

正しい服従

[聖書]ローマ14:1~9、
[讃美歌]200、132,457、
[交読詩編]92:2~16、
[聖書日課]出エジプト23:10~13、ルカ14:1~6、

教会暦に従い聖書日課が決められています。主題も与えられています。
今朝は《正しい服従》となります。これを見て最初に感じたことは、それでは「悪い服従」があるはずだ、ということでした。

神学生の頃、『異常心理学講座』全10巻を購入しました。とても全部を読むことなど出来ません。気になるところだけ拾い読みしました。
異常心理学とはどのようなものか。人間心理を考えようとする時、正常な心理とはどういうものか分らない、分りにくい、なかなか説明できない、となります。
そこで研究者は考えました。「正常」が分らなくても、何が「異常」であるかは判るだろう。これは異常である、というものを研究し、そこから正常とはどういうものか、見つけることが出来るだろう。こうして異常な心理を研究する学問が発展しました。

大阪の高槻市で女の子の亡骸が発見されて十日ほどになります。多数の切り傷、窒息死。何による窒息かは知らされていません。捜査上必要な秘密なのでしょう。絞殺か、扼殺か、それ以外の理由、失血性ショックなのか、不明です。このような事案は、まさに異常心理学・犯罪心理学の対象になります。そればかりではなく、浅く、致命傷にはならないたくさんの切り傷、これ自体異常としか言えません。

こうした学びによって、物事には表と裏がある、陽と陰、正と負(プラスとマイナス)があることを知りました。すでに生活の中で知っていたことですが、学問的にも指摘されたことになりました。一面的ではなく、多面的に物を見て、考え、語るようになりました。
学長は、伝道師の頃の私の説教を聞いて、肯定的なことだけではなく、異なった意見、主張を挟んで、それを否定して肯定的なことへ移ると、説教が深くなるよ、と教えてくださいました。説教と異常心理とが結びつくとは、思いがけないことでした。

本日の日課のうち旧約から読むことにしましょう。出エジプト記231013です。
ここには、安息年と安息日の定めが記されます。安息年は、大地に七年目毎に休みを与えなさい、という定めです。その休みの間は、土地を持たない貧しい民が自由にその畑から取って食べることが出来ました。農地に休耕年を与え、地力を回復させる。同時に貧しい人を助ける。現代の集約・収奪農法とはだいぶ違います。

「肥料の大量投下による大量収穫は、やがて大地が何も生み出さなくなる時を迎える。人々は地球を棄て、地球から離れ、銀河宇宙へ飛び出して行く。長い歳月の後、彼らの子孫は、銀河の果てに美しい星を見つける。伝説のテラだった。そこでは、人間が鍬、鋤を手に土を耕していた。伝説の母星へ還ってきた者たちは新しい希望を見出し、慰めを得た。」
これは、アイザック・アシモフ『銀河帝国の興亡』の記憶です。半世紀前。
大地には、休みを与えねばなりません。人間も同じです。それが、安息日です。

安息日は、すべての人が七日目ごとにすべての仕事をやめて休息を取り、家畜も奴隷も寄留の者も、すべてが元気を回復する定めです。これは、神が創造の仕事を完成された日を記念するものです。(創世223209113114153421、レビ233、申命51314参照。こうしたことをヘブライ人は、3000年前に知っていました。

主イエスは、安息日を知り、守っておられました。
本日の福音書日課、ルカ福音書1416、を御覧ください。
安息日にイエスは、ファリサイ派の有力者の家に入られます。ファリサイ派の人は、掟にあるように親切にすること、学ぶことを大事にしていたのでしょう。イエスを招いて会食し、その教えに耳を傾けました。大勢の人たちがいました。彼らは、イエスとはどんな人だろう、と様子を伺っています。そこに水腫を患っている病人がいました。

「水腫」とは、リンパ液や体液のバランスが崩れて、患部が異常にむくむ病気です。心臓や腎臓の機能が低下したり、栄養不良になったりすると、全身に浮腫が現れることがあります。当時は、この病気に対する偏見があって、神から呪われた結果であると受け取られていたようです。ラビたちは、性的不品行の罪の結果と考えたとされています。ですから、彼に同情を寄せる人はなく、当然彼の癒しを願う人もなかったと思われます。本来、彼はこのファリサイ人の家にいるはずがありません。その病人、神に呪われたと考えられている人が連れて来られた時、その噂が伝わりました。何かが起こりそうだ!
家の中や外から、多くの人がイエスの様子を伺っています。

そこで主は、律法学者やファリサイ派の人たちに質問されます。安息日に病気を癒やすことは許されているか、いないか、と。当然、公式的には許されていません。しかし、誰も答えませんでした。彼らは公式のもつ問題を承知していたのです。
彼らの眼の前で主イエスは、この病人を癒やされました。そして皆に言われます。「人間の場合、病気を治してはならない、などと言いながら、あなたがたは自分の息子や牛の問題であれば、大胆に掟を破るでしょう」。彼らの沈黙は承認です。主は律法厳守の現実をご存知です。掟が禁じていても、自分にとって不利益になることは、大胆にも破っていました。

「水腫の人」が癒されても誰の利益にもなりません。喜びにもなりません。彼は、主イエスが安息日に病気を癒されるか否か、癒されるなら掟を破った、と言って攻撃するための材料とするために連れて来られました。彼は、ここにいる多くの人の道具にされています。彼に対する愛は見られません。非人間化、非人格化されています。主イエスの癒しは、病気を癒すことによって、病気の人の人格を回復されました。

そして、イエスが彼を癒すかどうかに、みなの視線が釘付けになりました。このような敵対的な視線の真っ只中で、イエスは癒しを行われたのです。
旧約聖書では神に呪われた結果とする箇所もあるのですが(民数記521-22)、〈水腫〉という病気のすべてが呪われた結果とされているわけではありません。これは、他の病気にも言えることです。
このように、部分的な記述や信条の一部だけを絶対的な原理と見なして、それであらゆることを一元的に解釈することを、原理主義と言います。原理主義が価値観や世界観に現れると、大きな悲劇に繋がることがあります。原理主義は、現在の国際社会への最大の脅威ですが、元はといえば、個人の心の中で起こるものです。イエスは、このような原理主義の立場を決して採られませんでした。イエスの聖書解釈は、聖書の一部によって、世界のすべてを解釈する原理主義とはまったく違ったものです。まず聖書全体を網羅するような包括的なものでしたから、また、解釈の適用も相手の立場を無視して一方的に押し付けるものではなくて、相手の立場を十分に理解した上で、適切に適用されたのです。このような聖書解釈が、癒しに繋がったのです。

本日、使徒書の日課はローマ1419です。
ここで語られているのは、ユダヤ人が守るべき食物規定遵守に関わることです。ユダヤの律法には、食べ物に関する規定があります。反芻しない動物、蹄の分かれていない動物、鱗のない魚は食べてはならない、とされます。
ここには問題があります。神様は、お創りになったものすべてを、よろしいといって祝福されたではないか(創世1章)、何故穢れているから食べてはならない、とするのか。

長い間、ひそかに問題視されていたのでしょう。主イエスの登場によって安息日規定が見直されると、弟子たちの教会では、神が創られたもの、神が清められたものを穢れているなどと言ってはならない、とされました(言行録11118)。特定の規定や慣習に従うことで神に義と認められるのではなく、神はすべての人をその食習慣に関わらず、受け入れてくださっているのです。
これは食物にとどまりません。大きな展開が用意されていました。人間そのものに関わることが明らかになります。それまで異邦人と呼ばれ、ユダヤ教の中に受け入れられなかった人たちが、キリストの教会に受け入れられるようになったのです。
人は自分を基準にして他の人を裁きます。自分が食べない穢れたものを食べているから、あの人は悪い。自分がした良い事を彼はしていないから駄目だ。
このような裁きをやめるように、パウロは書いています。すでに赦され、共に生きるように勧めています。受け入れられているからです。Ⅰコリント1025以下は、食物規定に関するものです。そこでパウロはこのように書きます。31
「だから、あなた方は食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を表すためにしなさい」。

ローマ148で、パウロはこのように語ります。彼の信仰の言葉です。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」
「主のため、主のもの」、これは主の栄光を表すことだ、と理解できます。

正しい服従は、律法の字句を忠実に守ることではありません。あるいは、人の立てた思想や学説、解釈を絶対視することでもありません。もし私たちの実績などが赦しの条件になったら、それを満たすことの出来る人はいません。
無条件、無前提で、罪の赦しが与えられるところに福音があります。律法をお与えくださった神の御意志を知り、その恵みの意志、救いのご計画を受け入れることが信仰、正しい服従です。感謝して祈りましょう。



 


2015年8月16日日曜日

恐れるな、私はすでに知られている

8月16日(日)は、持田牧師は、横須賀・田浦教会での説教の奉仕を行ったので、その説教要旨を掲載させていただきます。なお、厚別教会は札幌教会の米倉 美佐男 牧師に説教奉仕していただきました。

横須賀・田浦教会説教2015816

《恐れるな、私はすでに知られている》
[聖書]ルカ福音書1247131ページ)、

[交読詩編]139124、讃美歌21120、主はわがかいぬし
[讃美歌]讃美歌54、よろこびの日よ、ひかりの日よ、303、めぐみのみちかい確かなれば、



讃美歌120、初めて聞いたのは神学生時代。ヘッセリンク教授が奥様と二重唱された。

Ⅱ編41には、DESCANTが付いていました。バスの先生がその部分を歌い、ソプラノの奥様が旋律を歌われ、見事なハーモニーを醸し出していました。歌い終わって暫く、拍手が消えなかった、と記憶します。主日礼拝で歌った記憶はありません。 

              

主の日、主日とは何か。キリスト・イエスの甦りを記念する日。主日礼拝は、全体として甦りの主イエスを証しするものです。礼拝説教は、神のキリストを語り、説き明かす。

私たちの教会には、説教者の経験やその他個人体験は語らない、という傾向があります。確かに自分の経験などは小さいこと。語るべきではない、それはそれなりに判る。



ビルマに伝道したアメリカ人宣教師アドニラム・ジャドソン、困難な生活の中でようやく改宗者が与えられた。ビルマ語・英語辞書もできた。牢獄も経験した。ビルマでは、仏教以外のものを信じれば投獄される。本国活動・休暇の時が来た。次の宣教活動の準備期間、支援者達は各地を回る講演会を計画。ジャドソンはどこへ行っても同じように、キリストによる罪の赦しの福音を語る。少しはビルマでの経験を話してください。いや、キリストの福音以上に素晴らしいことは何も知らない。自分の外国体験談よりもキリストによる救いを語るほかにない。



然し、個人的な経験は、たとえ小さなことのように見えても神が計画されたこと。何かの意味がある。目的があります。それを探り、語らなければならないのではないでしょうか。自分を誇るのではなく、神の僕としてどのように用いられたか、その不思議は積極的に語るベきだろう、と考えるようになりました。(葬儀説教も同じ)



今日は、816日。終戦記念日の翌日、70年もたって記憶も薄れがち。

多くの方々が感じていることを私も感じている。後何回語れるだろうか?

私の小さな戦争体験を語らせていただこう。  

『人生は、死への前奏曲である』フランツ・リストがその作品の楽譜中に書きつけていた言葉。正確には次のようになります

リスト作曲:交響詩「前奏曲」ポケットスコア、解説 小船幸次郎、全音楽譜出版社

「われわれの人生は死により開かれる未来の国への前奏曲に他ならない。現世は愛によって明けるが苦闘の嵐の中に暮れる。自然の美しさは心に平安を与えるが、ひとたび戦いのラッパが鳴れば、人は必ず戦場に帰るものだ。」

リストは、人生を戦場、全ての人はこの戦場で倒れ、息を引き取る、と考えています。

中世ヨーロッパの修道院の壁には『メメント・モリ』汝死すべきを覚えよ、と記されていたそうです。また、佐賀・鍋島藩の葉隠れ論語には『武士道というは死ぬことと見つけたり』とあるそうです。日本の侍の中では、死は当然のこと、それをいかに美しいものにするか考え、実行する傾向がありました。全ての人は、死に向かって歩んでいます。

彼らにとって人生は戦場でした。『常在戦場』です。

大相撲の力士も『常在土俵』、大関三根山(横綱吉葉山の相弟子、高島部屋の後継者。栃錦・若乃花時代の人、吉葉が今の宮城野部屋を再興。横綱白鵬)が色紙に書いた言葉。高校・大学時代、駅前の小さいラーメン屋に飾られていました。

あの時代は、これは当然のこと、その下で訓練、稽古に励んだ。



戦争をイメージできない人がいます。イメージしても食い違う。日本を戦争が出来る国にする、と言う時、どのような戦争をイメージしているのだろうか。誰しもが、自分の体験を基に、或いは他の人の記憶を基に、戦争をイメージできる。

戦争とは、生きている人間が死ぬことです。殺しあうこと。殺さなければ殺される、早く大量に殺せば勝ちだ。



70年前、1945310日、東京大空襲の夜、東京の下町の二階にいました。

この日も、一日が終わり、布団の上に座り、両陛下、皇族方の写真に拝礼、そして教育勅語の暗誦。

「朕おもうに我ガ皇祖(こうそ)皇宗(こうそう)、國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹()ツルコト深厚(しんこう)ナリ。

我ガ臣民(しんみん)、克()ク忠ニ克()ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ、世々(よよ)()ノ美ヲ済()セルハ、此()レ我ガ國体ノ精華(せいか)ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)、亦(また)実ニ此(ここ)ニ存ス。・・・」

その後長い間覚えていましたが、今は忘却の彼方に消えました。

夜の眠りに就きました。その頃すでに大人たちは、今夜は何か変だぞ、何かありそうだ、と話していたことを記憶しています。庶民の動物的な勘ではないでしょうか。いつもより入念に、枕もとの衣類などを点検させられました。どれほど寝たのでしょうか。

たたき起こされ、急いで着替え、外へ出る。地下壕もあるのに見向きもしなかった。間もなく始まる惨劇を予測できるはずもないのに、広いところを目指していた。

母は、33日に長女を出産したばかり。祖母は、荷物を背負い、両手に三男四男の手を引いている。母の両手は長男次男がいる。すでに空は真っ赤になっている。まだ爆撃機は飛んでくる。音が聞こえる。燃える炎から逃げるように歩く、歩く。炎は前を遮り、後ろから迫り、追いかけてくる。良くその中を逃げたものだと思う。恐ろしさに判断力を失い、炎に向かって走った人だっていたはずだ。やがて川についた。



橋の袂で見た光景は恐ろしいものでした。310日の夜、寒いはずなのに、皆が暑い、暑いと騒いでいる。血を流し、息がとまり、立ち上がることが出来ない。川の中で立っている人もいる。私も、母に話した。「ねー、熱いよ、川に入ろうよ。どうして入らないの。」

「どんなに熱くても、川に入っては駄目。ああして立っている人たちは、すでに死んだ人たちの上に立っているんだから。もうじきひっくり返ってしまう。」

足下に先に息絶えた人の亡骸を踏み台にしている。やがてこれらは、東京湾に流れ出ていったと聞いています。この空襲で、手がかり一つ残さずに消滅してしまった人もいる。合算して10万以上の人々。

黙って川向こうを見ていました。疎開道路、防火用に建物を取り壊し広い空地、道路が作られています。その際まで火が盛んに燃えている。あんなに燃えるものがあるのだろうか。高熱が、燃えないものまで燃えるものにしてしまうのだろう。



川向こうの広い空間を、右の方からたった一人で男が走ってくる。私たちは、母と祖母、子供5人、一緒だった。きっとあの人は家族を心配して急いでいるのだろう。燃え上がる火を背景に走る、走る。その時だ、ひときわ大きな炎が巻き上がり、怪物が襲い掛かるように走る人にかぶさってきた。ほんの一瞬のことだった。

「燃える炎が、大きな長い舌のように」人影をなめた。その人は燃えてはいない。

でもパタッと倒れて、動かない。うつぶせになり、片足は後ろに蹴上げた形のまま。燃えた様子はない。煙など少しも上がっていない。どうしたのだろう?

それでも、「ああ死んだんだ。母さん、あの人死んだんだねえ。」

「待っている人がいるだろうにね。」母も見ていたのだろう。ぽつんと直ぐに応じた。

父のことを考えていたのだろう。兵営から駆けつけてくれることになっていたらしい。

落ち合う場所は家庭ごとに決めていたそうだ。そこへ行くのもたいへんだったろう。

三菱銀行業平支店?押上かな?  此処は焼け残った。

父は、この避難所に、翌日駆け付けてくれた。どうしてそんなことが出来たのか。

空襲地域の者は帰宅が許されたのだろう。

数日して、銀行業務再開のため罹災者は外へ出された。



父に連れられて焼け跡となった家まで行った記憶があります。ただただ焼け野原、家々の残骸、人間の暮らし、生活を偲ばせる物はない。ようやく家に着いた。一階部分が少し残っていた。玄関土間の脇に地下壕への入り口があり、下へ降りる。父は、米を入れた金属製のような箱の蓋をとった。蒸し焼き状態。ここへ逃げ込んでいたらみんな死んだはずだ。緊急時の判断の大切さ、それは事前にゆっくり考えておき、その時には瞬間的に出せるようにしておくのだ。それをしていたのだなあ、と感服する。

私は、残っていた数冊の本を持って出た。軍国時代の書物、間もなく廃棄されるようなものだが、字を覚えたばかりで活字に飢えていたのでしょう。



東京大空襲を怪我の一つも負わずに、生き延びることが出来ました。奇跡的です。

母の実家は、病臥していた祖母を守っていたそうです。祖父と長男、次女は、生き延びました。私と同い年の男の子、仲良しだったケンちゃんとは二度と会うことはできなくなりました。生き延びた者は、生き伸びたことに対して自らを責めていたかもしれません。

母は、何時までも諦めませんでした。「どこかで生きている。ひょこっと,帰ってくるんじゃないか。ずーっと、そう思ってきたよ」と母。戦後49年の頃、ようやく菩提寺に葬りました。父がそうしてくれた、と嬉しそうに語りました。あの時、ようやく平和が帰ってきたのでしょう。この話を聞いて、父が焼け跡から拾ってきた、というブドウの木を大事にしていたことにも意味がある、と感じました。父の母に対する優しさだったのです。あのデラウェアは、亡くなった方たちの命を受け継いで生きて来たのです。命の形見だったのです。



《私は知られている》

戦争は、巨大な力が、個々の人格・生命を呑み込み、押し潰し、破壊しつくす現象です。



「戦争とは相手にわが意志を強要するために行う力の行使である」と定義した(第1編、第1章2項)のは、クラウゼビッツ、彼はナポレオンと戦ったプロイセンの将軍です。

「戦争は本来、政策のための手段であり、政治的交渉の継続にすぎない。つまり、戦争は政治の一部分であり、政治に従属している。」

  外交のもう一つの、最終の手段、暴力の行使、個々の生命は重んじられません。

  外交や政策の目的は、決して人間の福祉や、生命ではありません。国家や、国の体制、政府そのものが、或いは国家指導部の名誉が目的となります。



欧米のキリスト教信仰の国々が、復讐の戦争に狂奔して、その結果には眼を覆い、自己正当化してきました。広島・長崎の原爆、ルーズベルト、チャーチルが指導しました。勇敢な日本兵の抵抗を早く終わらせるために、焼夷弾による無差別爆撃。原爆投下を許可しました。相手を絶滅することを最終目的として戦争を遂行する絶対戦争の現実化です。

戦争そのものが、自己目的化するのです。



これらの多くの人は、キリスト教徒であり、日曜日には、教会で礼拝を守り、神の祝福を求め、与えられているのだ。何と恐ろしいことだろうか。あの原爆投下も、無差別爆撃も、

あの人たちの祈りによって、キリスト教の神の祝福が求められているのです。

そこにあるのは、本当の祝福ではありません。私たち人間の罪深い自己正当化であり、傲慢な自己神化に他なりません。

人間は、自らを守るために王を求め、組織をたて、軍を造ります。やがてこれらはそれ自身を守り養うために、国民を利用し、食い尽くすようになります。

戦争の本質は、人を殺すことにあります。福音の本質は、人を生かすことにこそあります。



詩編139編で、ヘブライの詩人は、自分のような小さいものでも、存在以前から神に知られています、と歌いました。主イエスは、「五羽の雀は二アサリオンで売られている。その一羽も忘れられることはない」と教えられました。忘れられないどころか、値打ちもつけられないほどの、存在が認められない一羽であっても、神は数えられている、と言われました。その生命が、存在が値打ちあり、とされていることです。私たちは皆この雀です。初めから知られています。どんな小さい者、無能な者でも、神は愛して下さいます。

何もできない者のように見えても、神は果たすべき役割を与え、必要な知恵と力を与えておられます。感謝して祈りましょう。












2015年8月9日日曜日

主の来臨に備える

[聖書]Ⅰテサロニケ1110、信仰告白、聖餐式執行、

[讃美歌]200,155,464,77、
[交読詩編]121:1~8、

[聖書日課]エゼキエル12:21~28、ルカ12:35~48、



主の来臨、というテーマはこの手紙の4章にもあります。そちらのほうが有名であり、葬儀や記念式、追悼礼拝などでも良く朗読されています。またこの後にある第二の手紙1章も、来臨について語ります。そちらではなく、この箇所が選ばれたのは何故だろうか、というのが、私の第一印象です。ご一緒に考えてゆきましょう。

 どうしたことか、註解書が見付かりません。どうしましょうか。



まず、テサロニケの信徒への第一の手紙とはどのようなものでしょうか。

パウロの13書簡のうち、最初に書かれたもの、として知られています。おそらく紀元50年から52年の終わりまでに書かれたものであるとみなされています。

この手紙は、テモテがマケドニアからコリントのパウロのもとへ戻った後で、テサロニケの教会の様子を知って書いたと考えられます(使徒言行録1815、Ⅰテサロ36参照)。テモテの報告からパウロはテサロニケの教会が良い状態にあることを喜びつつも、自分の教えが間違ってとらえられていることにも気がつきました。パウロはこの手紙によってそれらの誤りを正し、聖なるものになることを神が望んでいると重ねて強調します。



テサロニケとは何処にあるでしょうか。イタリア半島の東はアドリア海。それを越えるとアカヤ、マケドニアがありエーゲ海が広がります。多島海と呼ばれるように多くの島々が見える。北東へ行くとダーダネルス海峡があり、ここから北上すればマルメラ海を経て、ボスポラス海峡を抜ければ黒海に入ることが出来ます。

アカヤ東岸を北上してマケドニア。その北部にテルマ湾がある。テルマは温泉を意味します。昔は、この近くで温泉が湧いていたようです。この北端に位置するのが海港テサロニケです。ある時期はサロニカと呼ばれましたが、今は旧に復しています。

紀元前315年ごろ、マケドニア王カッサンドラがこの地に新しい町を建設しました。お妃テサロニカ(アレクサンドロス大王の異母妹)の名にちなんでテサロニケと命名しました。

ローマの属領と成ったのは前168年のことです。前146年、マケドニア州の首都となります。前42年、ローマ帝国内乱に際し、フィリピ付近の戦いでオクタヴィアヌスに加担し、褒賞として自由都市の特権を与えられます。



使徒言行録では、パウロの第二回伝道旅行に現れます。

第一回の伝道旅行は、アジア州(今のトルコ)の東南部分を巡っています。

第二回目は、アジア州を西へ進み、ヨーロッパに足を踏み入れることになります。

ことの始まりは16章で、トロアスに下ったパウロが、幻によってヨーロッパへ渡り、マケドニア人を助けることになります。行った所がフィリピでした。紫布の商人リディアという婦人が、パウロの教えを受け入れて、この地の教会の中心となります。



この町で、パウロとシラスは、金儲けが出来なくなった占い女の主人に訴えられ、投獄されます。その夜、大地震が起きます。囚人が逃げたに違いないと信じた看守は、自殺しようとします。二人は逃げていないことを告げて、看守を安心させます。看守は、命の恩人であるパウロとシラスが告げることを信じ、イエスこそ主である、ことを受け入れ、家族ともども洗礼を受けました。



朝になり、町の役人が釈放しようとしますが、パウロは抗議します。

1637「ローマ帝国の市民権を持つ私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」

これを聞いた高官、彼らはこの町の自治を委ねられた人たち、彼らは、驚き、二人に詫びを言い、丁重に、町を出てくれるように頼み込みます。

ローマ帝国は、属州などの自治を重んじます。それだけに治安の維持を大事にしました。

暴動や反乱などが起これば、自治は取り上げられ、ローマ総督と軍団兵により支配されることになります。パウロたちは、騒ぎ立てることなく、リディアの家に行って、仲間達に会い、事情を語り、励まします。

パウロは、ヨーロッパに渡って最初の活動をフィリピで行いました。

その後、テサロニケへ行きます。ここには、ユダヤ人の会堂がありました。

171節「パウロとシラスは、アンフィポリスとアポロニアを経てテサロニケに着いた。ここにはユダヤ人の会堂があった。」



パウロは、ユダヤ人の会堂で、三回の安息日に亘って論じ合いました。

言行録や、その他この時代の歴史を描いたものでは、このように時期、期間をはっきりさせるのは珍しい部類になります。何故、三回と書くのでしょうか。論じ合う状況で三回は長いか、短いか。短い、と感じます。内容、中身を見ましょう。

ユダヤ人が信じる旧約聖書、その中のメシアの到来が中心の議題になります。このメシアについては、政治、軍事、宗教など様々な理解があります。テサロニケのユダヤ人たちも、平均的なメシア像を描き、信じていたことでしょう。

それに対して、パウロは、聖書が教えるメシアとは、十字架につけられ、葬られ、甦ったイエスという男です、と主張しました。論議は紛糾しました。



三回の安息日に亘って、というのは論議が決着したのではなく、中断させた、と推測します。紛糾して、相互理解不能と判断されたのでしょう。だいぶ熱い論争だったようです。

当分、頭を冷やしましょう、ということでしょう。

そうした中でも、ユダヤ人、ギリシャ人、主だった婦人達が、パウロたちの説明に納得し、二人に従いました。

このとき、会堂のユダヤ人たちは、妬みを起こしました。妬まれるほどにパウロたちの関係は親密なものだったのでしょう。



妬み、「妬み」=人の優秀さ、幸福、幸運などを、羨ましく憎いと思う、こと。

会堂のユダヤ人は、何に対し妬みを起こしたのでしょうか。

パウロたちに従っていった人々への妬みではなく、パウロたちに対するものと考えます。

主だった婦人たちやギリシャ人たちが、従って行ったことに対しての妬み。

彼ら、彼女達を説得する力、ひきつけ従わせる能力。

信じさせる人格的力。

これらは、持っている人にとっては当たり前のものであり、特別なものではありません。

しかしこれらを書いている人にとっては、全く特別、格別なものであり、垂涎ものです。



妬みが原因で、殺人事件なども起こされます。たかが妬み、と軽く見てはなりません。

英国の作家ウイリアム・シェイクスピアは、作品『オテロ』で、妬みの恐ろしさを描き出しました。



パウロたちもそのことを知っていたのでしょう。いずこへか身を隠しました。

人々は、ヤソンの家に違いないと思い込み、ヤソンの家を襲い、見付からないと、ヤソンと数人の兄弟たちを捕らえ、町の当局者のところへ引き立てます。後略



テサロニケのユダヤ人たちは、かなりユダヤ教の伝統的な考えに固執しています。



ここに登場するヤソンは、ローマ1621に、協力者テモテと並んで同胞のルキオ、ヤソン、ソシパトロがあなた方によろしく、と書かれています。長い間、パウロの働きを支えて、良い交わりを続けていたことが判ります。



パウロはテサロニケの最初の伝道者でした。その教会を建設した人です。同時に、テサロニケのユダヤ人たちは、パウロの活動を聞くと、その土地へ出かけていって、その活動の邪魔をするのでした。そうした状況の中でのこの手紙です。

パウロのもとに、テサロニケの人々の信仰について知らせが入りました。肯定的な、喜びに溢れる知らせでした。その中に見過ごせないものがありました。テサロニケの人たちが、「主の来臨」を誤解しているようだ、ということです。そこでこの手紙を送ることにしました。微妙な問題です。ほかのことを書きつつ、次第にそのことに触れるようにする。ずいぶん気を遣っています。

「主の来臨」については、本日の日課、福音書が教えています。

ルカ123548、人の子、僕の主人は、予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

40節,46節に同じ言葉が繰り返されます。「思いがけない時に帰ってきて」。

テサロニケの人たちは、間もなく主は来られる、と考えていたのでしょう。当時は、多くの人たちが、間もなく、と信じていたようです。使徒言行録5章のアナニアとサッピラの出来事の背景になっている、と考えられます。



紀元1世紀の終わりごろに書かれたヨハネの黙示録は、はじめから「後に来られる方(やがて来られる方、やがて来るべき方)」の来臨を、繰り返し告げ知らせています。14節、7節、8節。そして最後の22章において、主キリストご自身が「わたしはすぐに来る」(20)と、そして他にも二度繰り返して約束しています。22712節。

新約聖書の最後に登場する預言書。紀元96年頃、パトモス島のヨハネによって書かれたとされています。「黙示録」は恐怖に満ちた内容であるため、長い間“異端の書”として扱われてきました。ローマ・カトリック教会が正典として認めたのは2世紀中頃ですが、それ以後も「偽預言書」といわれ、なかなか完全には受け入れられなかったようです。



主が来られる、主の御意志によるものであって、われわれ人間の都合で決めるようなことではありません。パウロは、それを決めるのではなく、それまでの生き方を考えるように求めます。



大雑把に言えば、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐を勧めます。これらは、全てのキリスト者の持つべき信仰の姿勢です。一人ひとりの生き方がそのまま伝道になります。

伝道に必要なことは、第一に能力。この能力は言の能力のみではなく、生活態度そのものに能力があることです。第二は聖霊であって、聖霊の導きなしには如何に人智を搾り出しても真の伝道をすることはできない。第三は確信であって、自分が信じていないことを人に信じさせることはできません。この三つのうち一つを欠いても伝道者としての資格はありません。これらのすべてを欠く場合は、その伝道は全く無力です(5節)。

私たちは、再臨がいつか、ではなく、それまでをどのように生きるか、考えるように求められています。今の時を、より良く、多くの人と共に、平和に生きてゆきましょう。