2014年9月14日日曜日

マルタとマリア


[聖書]ルカ10:38~42
[讃美歌]507,204,456、
[交読詩編]62:2~23、


前週は、高橋俊男さんの海洋散骨葬のため、羅臼への出張をご許可いただきました。

散骨は、初めての経験です。散骨葬をしても良いか否かに始まり、さまざまなことを考え、経験することができました。感謝いたします。これまで、小樽、八雲町、定山渓・洞爺湖・支笏湖、層雲峡、栗山町、などへ行きました。函館は、赴任前に寄っています。今回は、北海道経験が一気に拡張されました。

 

 7日午後新札幌を出るJRで、知床半島の羅臼を目指して移動を始めました。老人に深夜バスは無理です、一泊してください、と言う役員会の助言により、釧路泊まり。

8日午前11時過ぎ羅臼に到着、午後3時45分、小型の観光船「エバーグリーン」に乗って沖合いを目指しました。シャチ、鯨、イルカが来遊する海域です。海洋動物を愛した故人の遺骨粉の袋を海に投じました。当人の遺志をご遺族が忠実に実施しました。その向こうには国後島が見えます。30㌔と聞きますが、本当に直ぐ近くに見えます。

9日は、荒天の予備としてありましたが、雨が断続的に降り、ホテルで休養。高橋さんご一家は、バスで、峠を越えてウトロへ行かれました。

10日は、ご一家は雨の中、徒歩で出発、釧路経由で厚別へ。私もホテル前からバスに乗り、知床横断道路でウトロを目指しました。乗客は、終始私だけ。驚きました。これでは路線廃止、多くの観光客が、地元の人が不便することになるのでは。着いてからツアーバスに乗って知床五湖のひとつを見学。海に落ちる『乙女の涙』フレペの滝も。夜は、知床第一ホテルで、北見から来た若い友人の木村志門さんと食事。

11日は、先ず浦幌海岸でカヌーを調べる。海が荒れている、とのことで諦める。オシンコシンの滝を見る。鮭鱒孵化場があり、川を登る鱒を見る。清里町の焼酎会社(町産のジャガイモを原料に『浪漫倶楽部』を生産)に立ち寄り、摩周湖の伏流水が湧いている《神の子池》、摩周湖を見て、釧路湿原で丹頂鶴を捜し、12倍の双眼鏡で見つけました。と言っても二つの動く白い点だけです。肉眼の他の人たちは、騒がないところを見ると、見付けられなかったのでしょう。この道中、エゾシカは何回も見ました。虹別は酪農の町、其処では牧草地にシカが入り、食事中。キタキツネも一回。赤ゲラも、すぐ目の前に来てくれました。羆は期待もあったのですが、残念でした。釧路の和商市場で勝手丼、更に白糠でラーメンをいただき、その夜9時過ぎに木村さんの車で帰り着きました。道央部に集中豪雨、と言うことでしたが、途中たいした降りもなく、無事でした。

出張を機に、ゆっくりして来てくださいと役員会で言われ、夏休みの気分でした。

 

 余分な話ですが、私の喜びを分かち合いたい、と願いお話しました。お許しください。

この旅では、三軒のホテルのお世話になりました。そうした機会に、いつも感じるのは、

笑顔の大切さです。はじめは、こちらも緊張しています。その時、笑顔が生まれるような会話が始まると、皆が笑顔になり、ごく自然に「有難う」、の言葉が出てきます。話が続くと、大事な情報を聞くことが出来たりもします。水曜日の朝、高橋さん一家が出発するのを見送り、ホテルの玄関に立っていると、従業員の一人が、『お連れ様は、雨の中歩いてご出発ですか』と聞きました。そして、「ご相談くだされば何とかしましたのに」と言うなり、車で出て行きました。街中のバス乗り場まで送ってくださる、とのことでした。お客さんと従業員という関係ではなく、有難う、と感じ、感じさせる笑顔があると、約束外のサービスも生まれます。笑顔と感謝は拡大再生産されるものです。

 

 

本日の聖書は、譬え話ではありませんが、ルカ福音書特有のものです。

ベタニア村は、エルサレムから山ひとつ、越えた辺り、と考えられています。   

「ヨハネ11では、エルサレムから東へ25丁(原文は15スタディオン、2,7キロ)オリブ山の南東麓に建てられた村。ラザロの名にちなんでエル・アザリエと呼ばれ、現在は人口700人(50年前のこと)。主として回教徒・イスラムである。住民は魔よけのため、魔が恐れるという青色を入り口の鴨居に塗り、室内の壁には青色の手形をやたらにつける習俗を守っている。」(この項、馬場嘉市)                                                                                

ここには、1951年に発掘されたマルタとマリアの家の跡があり、フランシスコ会の美しい『ラザロ教会』が建てられている。その近くには、岩床掘られた地下洞窟にラザロの墓がある。青い塗装に触れる学者は少ないし、的外れになっていることがあります。今でも中近東の町には青色に塗られた家を見ることが出来ます。特に玄関や窓枠を青く塗っています。これはイスラムであることの徴であって、美的センスではないそうです。             

                                         

マルタとマリアの姉妹は、ヨハネ11:1以下にも登場します。其処に登場する兄弟ラザロについては語られないのはどうしたことでしょうか。福音書記者にとって、ここで伝えようとすることとは関係を認めないからでしょう。譬え話で「削除と集中の原則」がある、とお話しました。出来事を伝えるときにも、同じ原則を用いているようです。ここはマルタとマリアの出番。ラザロには全く違う出番があります。ラザロは削除、姉妹だけに集中。

                                               

姉のマルタはもてなしを担当、妹のマリアは客人・イエスの傍らで話を聞いています。

マルタは、イエスに不満を漏らします。「私だけが働いている。手伝うように言ってください。」不公平、不平等と言うことでしょうか。

 風習が違うのかもしれません。お客様が来たとき、お相手をする者、お茶などの仕度をする者に分かれるのは当たり前、と感じます。

もう一つ、お客様に、このような不満を漏らすのは、よほど親しい間柄なのでしょう。それにしても甘えがある、と思います。

 さて、このマルタ、マリアの問題、或いは同様な関係は、教会の中でもよく起こります。

表面化しないこともあるし、現れてくることもあります。一般的には、働きは分け合い、担い合いましょう、となります。

ある地方教会の牧師は、青年達を良く育てました。「君達は、やがてここを出て他の教会に所属するようになるだろう。その時、その教会でなくてはならない働き人になりなさい。」

この言葉で育てられ、よい働き人、奉仕者が生まれました。素晴らしいと思いました。

よく出来る人たちです。仕事が其処に集中します。お願いしまーす、と言って帰ってしまいます。独占したら、なくてはならない人になる。それでは困ります。

この牧師は、独占を教えたのではなく、共有することを教え、下支えすることを教えたのではないでしょうか。人が持っている気質の違いかもしれません。

ある学者は、このところに『気質の違い』、という題を付けました。しかし、主イエスはそうは言っていません。それは一部のことであり、主題とはなし難いものです。

 

42節には問題があります。写本の違いです。あるものは「必要なものはひとつである」他のものは「必要なものは僅かだけ、あるいは一つしかない」となっています。

主が言われる「必要」とは何でしょうか。マルタは、女主人としておもてなしを充分に、と考え、多くの料理を作っているのでしょうか。それでもおもてなしにもいろいろあるはずです。暑い渇いた日のもてなし、寒く湿った日、遠くからの客人へのもてなし、など様々です。料理に限ったものではないでしょう。

 

僅かしか必要でない、ということもたった一つだけしか必要ない、という意味でしょうか。おそらくここで告げられようとしているのは、本当に必要なことは食卓に乗せる料理ではなく、神のみ言葉こそ本質的に必要なものである、ということです。私達が生きるのは、パンだけによるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によるからです(申命8:3、ルカ4:4、ヨハネ6:27)。                                                                                                                                                                                                                        

イエスは、この直前、神の言葉を聞くことが出来ずにいる、聖書に通じた一人の男、聖書の専門家に会いました。問答の中で、彼に「サマリア人の譬」を語りました。

いまや、イエスは、もてなしに忙しくて、言葉を聞かない女のもとを訪れたのです。

 

イエスは、仕えるために来られたのだから(マタイ20:28と並行箇所)、彼のそのみ業を受け入れる者こそイエスを完全に敬うことになります。ここでマリアがしているように、イエスに聴く時、人はイエスの奉仕を受け入れることになります。

 

何時、何をなすべきかは、世俗的・一般的にはバランスの問題でしょう。能力や向き・不向きなど、また様々な事情によって振り向けられることが多いようです。

信仰的には、霊的識別力の問題です。祈りによってのみ見極められます。

それぞれは、自分自身のうちに神から与えられた力を持っています。それを見極め、自分の成すべき務めと思い定め、邁進すべきです。そのことを評価してくださるのは主なる神だけです。他人の評価、認められることを気にしないほうがよろしいでしょう。認められることは確かに嬉しいことです。然し、其処には罠があります。なんだか自分が偉い人になったかのような錯覚に陥るのです。仕える者になり続けることを忘れてしまいます。

「役者と乞食は、三日やったら止められない」と昔から言われてきました。今は、政治家も加えるべきでしょう。他の人に支えられる存在ですが、そのことを忘れて偉い人になってしまえるのです。

 

そして、決定する大きな要因は愛です。「動機は愛か欲か」。そのことにより、他者を生かすことが出来るか否か。

 

主はこの事に関し、明確な指示を出されません。マリアよ、手伝いなさい、と言わない。

良い方を選んだ者から、「それを取り上げてはならない」これが主の言葉です。

ヤコブ3:1「私の兄弟達よ。あなた方のうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも厳しい裁きを受けることが、よくわかっているからである。」

この教師は、ヤコブ同様、教会内で指導する者たちのことです。現代の教育に従事する人々のことではありません。それでも内容的には、共通しています。常に働き続ける、仕える、与える。それでもなお、この職を選び取るなら、それは恵みであり、その大きさに従って責任も大きくなります。

なろう事なら、静かに御言葉に耳を傾け、学ぶものでありたい。

それを決めるのは主なる神であります。主が与え、主が取られるのです。

与えられた力に応じて生きて行きましょう。

 

 

 

 

 

時を見分けるものは誰か。時の主は誰なるか。

 

すべてのことに時あり、期あり(コヘレト3:1以下)

 

2014年9月7日日曜日

行ってあなたも同じように


[聖書]ルカ10:25~37、
[讃美歌]507,12,474、
[交読詩編]40:2~12、

 

ルカ福音書は、他の福音書には見られない特有の譬話を持っています。

愚かな金持ち12章、失われた羊・銀貨・息子たち15章、

不正な家令・金持ちとラザロ16章、パリサイ人と収税人18章、ミナ19:12~27。

そして、先程、お読みいただいたのは、《善きサマリア人の譬》Good Samaritan。

大変よく知られています。ルカは、10章から19章にかけていくつもの譬を配列しました。

マタイ・マルコにもありますので、大小長短合わせて60篇の譬になります。これらによって、イエスは、譬の名手、という評価が定まっています。

こうした箇所を話すことは難しい。話し手も聞き手も、ああ、わかっている、あれだろう、とばかりに多寡をくくる。そういう姿勢は良くない、と言っても、そうではないことを話せるか。難しい、とりわけ自分程度の能力では。

 

 譬は、どのように語られ、聞かれてきたのでしょうか。

はじめ主がお話しになられたときは、譬についても、解説しておられます。第8章『種を蒔く人の譬』です。譬を用いる理由は、ある人々には、解り易くなるだろうが、ある人々にとっては、真理が隠され、解らなくなるためなのです。ということでした。

譬の研究は、解らない、隠されている秘密を探し出そうとすることから始まりました。

 

古代の教会では、譬の細部に、多くの意味を見出そうとし手研究の歴史が始まりました。

イエスが譬を話したその時代に、その背景の中に戻してはどうか。

背景とは、「神がその民を訪れ贖われた、神の偉大な終末的行為として理解されるイエスの伝道である。」AM.ハンター、55p

すると、主御自身が伝えようとした目的、内容が明らかになるはずだ。

殆どの場合主は、ひとつの譬においてひとつのことを語っておられる。

其処では、譬の細部は物語を造作するための舞台であることがわかるだろう。

 

今風の言葉で言い直してみましょう。譬は、そのとき、その場で、その人たちに向けて語られたもの。その場で、直感的に理解されるもの。詳細な研究から生み出されるような、細部に関する特定の深い意味はありません。よく言われます。ルカ8章で、種まく人の譬が話される。話し手、聞き手が目を上げると、向こうにその種蒔きの光景が、実際に広がっていたのではないでしょうか。それほど、具体的、実際的であり、頭の中でこしらえたものではありません。

 

古代の解釈の実例をご紹介しましょう。

オリゲネス(185~254年)、アレキサンドリア、神学校長、説教家。

聖書には少なくとも三つの意味がある。人間が体と魂と霊であるように、どの聖句も、字義的意味、道徳的意味、および霊的意味を同時に持つことが出来る。

 強盗どもの間に倒れた人はアダムである。エルサレムが天を意味するから、旅人が向かって行くエリコは世界を意味する。強盗どもは人間の敵、悪魔とその手先である。祭司は律法、レビ人は預言者を代表する。善きサマリア人はイエスご自身である。傷ついた男が乗せられた獣は、堕落したアダムを負うキリストの体である。宿屋は教会、デナリ二つは父なる神と御子、サマリア人の再訪の約束はキリストの再臨である。ハンター33

見事です、芸術的といっても良いでしょう。どう言っても面白いですね。面白い

 

アウグスティヌス(354~430年)は、その上を行きます。

傷ついた旅人は、その神認識のゆえに半ば生き、その罪への隷属のゆえに半ば死んでいる堕落した人間である。彼の傷に包帯をすることはキリストによる罪の抑制で、油とぶどう酒を注ぐことは、よき希望の慰めと活発な業への勧めである。宿屋の主人は微行をやめれば、使徒パウロであることが示される。デナリ二つは愛の二つの戒め(神を愛せよ・申命6:5、隣人を愛せ・レビ19:18)であることがわかる。 ハンター35

   

パウロは、律法全体が隣人愛というテーマに要約されることを述べています。

(ローマ13:8~9、ガラテヤ5:14)

 

 その後、長い研究の歴史があります。時間の都合があります。省略、またの機会を。

現代に到るまで、多くの学者は譬の主題がひとつである(ユーリッヒヤー)ことでは一致しています。然し、それが何か、と言う点では意見が分かれています。

 

律法の専門家が、イエスに質問します。一応、この人は律法を解釈する専門家、と考えられます。専門家にもいろいろあります。実践者、調査者、分析者、研究者、教育者、運営、管理、企画、広報、経理など。いつの間にか、Jサッカーの世界で考えていました。

この人が実践者ではなく、様々な解釈を研究し、教える専門家、と考えられています。

 

 永遠の生命を得る道に関する質問です。何をしたら・・・

専門家です。既に答えをもっています。何故こんな解っていることを聞くのだろうか。

ルカは、そのような疑問を持ったのでしょう。彼は、イエスを試みようとしたのだ、と書きました。

主イエスは、問い返されました。律法にはどのように書いてあるか。

答えは二つの愛の戒めです。(神を愛せよ・申命6:5、隣人を愛せ・レビ19:18)

そして、それを実行しなさい、と言われて、彼はもう一度質問します。

「私の隣人とは誰ですか。」彼は、自分が実行していないので、隣人を少しでも限定しようとしました。彼の動機は自己愛です。立場・地位・名誉などの保全が狙いです。それゆえ主は譬を以って応えます。真理を隠すような形になるのでしょうか。それとも逆?

 

 ある人、ユダヤ人です。下って行く、と言うことに「堕落」を見ていた時期もあります。

それは不用と考えます。むしろ、このエリコへの道は、険しい箇所があり、屈曲し、追いはぎ・山賊の類が出没することでよく知られています。どのような事情があったのでしょうか。単独は危険です。隊商を組む、護衛を伴うことをしなかった。自己責任を果たしていません。

こうした事情を、主は少しも語ろうとしません。イエスの譬の凄みは、話の適当な速さ、スピード感にある、と感じます。それを損なうような細かなことは、大胆に切り捨てます。聞き手が関心を持つだろうことであっても、通過されます。削除と集中の原理と言いたい、と考えています。

「半殺し」、おそらくユダヤ人が教えられている血の流出がある状態です。血は命、生命が流出しています。血に触れることは汚れることでした。

 

 通りかかったのは祭司。聖なる仕事に携わります。聖なる状態でいることが求められます。身を清く保つことは義務でもあったはずです。レビ人、彼も祭司のもとで神殿の礼拝に仕えています。彼らは、共に、聖なる勤めを選び取りました。神と民衆への義務を果たしました。倒れているユダヤ人同胞の姿に、罠を感じたかもしれません。善意で助けようとしたところを隠れていた賊が襲う、ということは普通だったようです。

主イエスは、この二人に関して淡々とその行動を語られました。それに対する評価はなされていません。非難もしていません。

 

次にサマリア人が来ました。

サマリア人は、紀元前722年のアッシリアによる征服の後に、この地を支配していた人々(とユダヤ人との)間に生まれた者たちの子孫です。彼らは、神殿とエルサレムの再建に反対し(エズラ4:2~5、ネヘミヤ2:19)、ゲリジム山の上に自分たちの礼拝の場を設けました。サマリア人は、(正統派ユダヤ教の)儀式からすれば不浄な存在であり、社会的には見棄てられたものであって、宗教的には異教徒になっていました。

よく、犬猿の仲、と言われますが、それは対等の立場に立って喧嘩していることです。

然し、ユダヤ人にとってのサマリア人は、それ以前の関係です。サマリア人を人間以下のもの、汚れたもの、インドでの不可触賎民のように扱いました。彼らの住む土地には足を踏み入れない、ということもありました。エルサレムからシリアのダマスコへは、ダマスカス門を出て、北へまっしぐらに進むのが近道です。ところが、その途中にサマリアがあります。熱心なユダヤ教徒は、この道を行かず、西の方海岸沿いか、東の方ヨルダン川の向こう岸を進んだものです。

 

このサマリア人は、汚れも危険も知っているはずです。一人で来ています。急ぎの仕事があったかも知れません。祭司、レビと余り変わらないのですが、大胆かつ丁寧に、徹底的にユダヤ人のお世話をしました。

ずいぶん昔のことになりますが、三浦綾子さんの対談を『信徒の友』で拝見しました。

うろ覚えですが、人に親切にすることについての話となり、三浦さんは裏切られたことがない、と言い切ります。そして、親切は徹底的にするべきです、裏切られるのは親切が不徹底・中途半端だからです、とその中で語っておられました。このサマリア人から学んだこと、とも仰っていたように記憶します。 

 

イエスは、律法学者の質問に答えていません。お答えにならない、ということが真理

なのです。真の愛、イエスの理解するアガペーは、制限を求めず、ただ機会だけを求めます。律法学者の、自己正当化のための問には答えません。

このことをハンター114は、次のように書いています。

「混血の異教徒のほうがユダヤ民族の柱石よりもよく神の律法を履行している。友よ、これが隣人愛というものである。もしあなたが永遠の生命を望むならば、こういう行為を神はあなたに求められるのである。」

 

すべての人間は、神の手によって造られたものです。神はそのお造りになったものを等しく愛されます。その故に人は愛を知り、互いに愛し合うことが出来ます。其処では自己正当化も、隣人の限定付けも無関係です。

 

キリスト教倫理としては、このように考えればよいのだろう。然し、主イエスが譬によ

って福音を話されたとしたら、どこに良い知らせがありますか、と問い返したくなります。譬によって福音の真理は隠されたのではないでしょうか。解りにくくされている。

福音は、分け隔てなく神の愛が注がれていることでしょう。

2014年8月24日日曜日

行きなさい。あなたを派遣する

[聖書]ルカ9:57~10:12、
[讃美歌]Ⅱ編144、讃美歌21;458,402、
[交読詩編]127:1~5、

 

 少年時代、父に連れられて秩父の長瀞で、キャンプをしたことがあります。戦後のバラック生活時代、あの頃、誰もそんなことは考えもしなかったでしょう。男の子四人が一緒だったのでしょう。川の砂利の上にテントを張りました。暗くなってから雨になりました。かなりの降り方、上流ではもっと降っている、と考えると怖くなりました。父は心配無用、と言いますが、心配性の私は、水際に印をつけてどのくらい水が増えるか調べることにしました。おかげで良く眠りました。

 広島の災害ニュースを見ながら60数年前のことを思い出していました。あの住宅地、せっかく自前の家を持ち、一人前に成れた、と喜んだことでしょう。一切を失い、ローンの支払いだけが残った。本当にお気の毒なことです。大勢の命も失われました。それに連なる多くの方々の悲しみがあります。戦争であれば、もっと多くの人が悲しみと苦しみを味わわせられます。総理大臣を始め政治家諸氏は、見ず、聞かずではなく、良くお考えいただきたいものです。

 

9:51~19:28は、多くの学者によって、ルカ特有の枠組みにある、と認められています。或いは、エルサレムへの旅路の出来事、と考えられています。然し、詳細に読み、調べてみると、地理的にはひとつの旅とは考えがたいことがわかります。サマリヤ、ガリラヤ、ベタニアなどが、順序も考えていないように現れます。神出鬼没、学者もお手上げです。

私達が考える旅行ではないようです。目的地へ向かう旅、其処へ到着すれば終了する旅。

そうでないとすれば、どのような旅路にイエスとその一行は踏み出したのでしょうか。地理的な旅と考えることを放棄すると、解りやすくなります。イエスは、エルサレムへ向かいます。道筋は変わります。行きつ戻りつ、という状態です。目指すのは十字架の死、受難です。そしてその旅路の先にあるのは、神の国です。

 母教会の講壇正面の壁面に『ヘッド オブ クライスト』と題された大きな絵の複製がかけられていました。牧師がアメリカで購入してきたものだそうです。斜め正面のキリスト半身像、秀でた額が光を発するように見えました。エルサレムへ向かって、決然進発するさまだ、との説明でした。ある時、立正佼成会の信徒さんたちが集団で見学に来ました。

玄関から、礼拝堂入り口の戸をあけてご案内しました。皆さんは、そこでいっせいに丁寧にお辞儀をされました。正面の複製画を見て、「教祖様ですね」と言われます。その説明は、牧師に任せました。

 

福音書記者ルカによれば、エルサレム行きに備えて、弟子達にどうしても教えなければならないことがありました。弟子は、師匠に倣う者、真似ぶ者、従う者です。生半可なことでは従うことはできません。世の中は、毀誉褒貶が相半ばするのが普通です。

 

9章の最後の部分には、主イエスに従う、と言う三人の人が現れます。その人たちは、教会の時代に現れる新しい弟子達の姿でしょう。安定した生活が営まれ、キリストに従うこともある程度の評価を得ている時代です。ルカの書いたエピソードは、当を得たものとして受け入れられます。9:57~62、イエスに従う者が持つべき覚悟が語られます。

 

 最初の人は自主的、積極的に、「どこへでも従います」と言いました。主は言われます。

「狐には巣穴がある、鳥には巣がある。人の子には枕するところがない」。

動物や鳥類は何のために生きているのでしょうか。繁殖によって、自分の血筋を残すため。

多くの個体は、その使命を果たし終えて、その生涯を閉じます。鮭の一生は良く語られ、知られています。人間には、ずいぶん長い一生があります。その目的はなんでしょうか。血筋を残し、その安全を図るためではないだろうか。「10人の子ども達を育てるため、一生懸命働いたよ」と父が語ったことを思い出します。

イエスに従う者は、それを忘れなければなりません。私は、家を構えることを捨てました。それは、ほかの人に求めることではありません。人によって能力が違います。弟子として働き、結果として家を構えることが出来る者もいる。然し、自分には、それは許されていない。勿論、家内や、子ども達は、私とは別もの、別人格。

どこへでも従って行きます、と言った人も、家を構えることはできない、と聞いてやめたようです。安穏な生活は保障されない、と言うことです。

 

二番目の人、主イエスから招かれた。「わたしに従いなさい」。答えは条件付でした。

「まず、父を葬りに行かせてください」。有名な学者は、アラブ人青年の例を引いています。

この青年は、成績を評価され、奨学金を得て英国の雄牛か剣橋に留学することが認められました。その知らせに対し彼は、「父の埋葬を済ませたらお受けします」と答えました。当時、彼の父親は40歳だった、とのことです。

私自身、同様のことを考えた時がありました。九州の佐賀へ行かないか、一緒に働こう、と誘われたことがあります。岩槻をやめよう、と考えていた時期でした。両親は健在でしたが、高齢になっていました。何かあったとき、帰るのに時間がかかる、と考え、お断りした。内心忸怩たるものがありました。悔い改めました。

その後父が亡くなり、大阪へ。更に母も亡くなり、札幌へ。

 最近の傾向は、若い頃献身を志した人が、定年後、かつての献身の思いを実現する、ということでしょうか。大阪の教会で13年前、二人の人が神学校へ進みました。お一人は、一般企業の社員として働き、定年を前に退職。東神大を卒業、高知県の教会に赴任されました。もうお一方は、高等学校の校長を退職した人。聖書神学校へ。岡山県の教会に赴任されました。昨年、病気のため退任。また牧師として説教したい、と勉強しておられましたが、8月18日(月)夕刻、心筋梗塞のため逝去。人生の最後に、自分本来の仕事が出来て、お幸せでした。お二人とも若い日の思いの実現でした。

 

三番目の人は、もっと私達に近い。家族に暇乞いをしてから、と言います。別れの挨拶、と言うよりもその諒解を得てから、ということでしょう。家族は、一番理解し合える人の集団になり得るものです。然し現実には、一番期待が強くて、理解から遠いものになり得るのです。そんな筈じゃあなかった、となります。なかなか諒解を得ることが難しいものです。

 

主に従う、と言うことは、それに対して何らかの形で報奨が与えられるようなことではありません。勿論、栄誉が約束されることでもありません。或いは、生活の保障が与えられることでもありません。家族や親しい者たちが賛同してくれることですらないのです。

 

 10章では、ルカ福音書特有の報告が記されます。

KJVをはじめ英訳の多くは『70人』とします。RSVには、「古代の他の写本には『72人』としているものがある」との注があります。

 

10:1からは、72人を選び、伝道地へ先遣することが記されます。メシアの先駆です。

70は、モーセに助力するために選任された長老達の数(民数11:16,17、24,25)であり、ユダヤの最高議会・サンヒドリンの議員数。72=12×6、

創世10章は、70の民族を数えています。この諸民族への宣教が意識されている、という可能性はあります。ただしヘブライ語テキストは70、ギリシャ語訳では72となっています。

 

二人ずつで派遣、二人を代理人とするユダヤの習慣で、正当な信頼が受けられます。

二人または三人の証人の口によって事を定める(申命19:15、Ⅱコリント13:1)。全員一致の議決は認めない、のと同様、ユダヤ5000年の知恵の産物です。

 

10:2は、マタイ9:37~38と一致します。文脈の違いから、イエスの視界は世界大に拡がり(ヨハネ4:35)、いたるところで収穫する働き人を待っています。然し、イエスは収穫のときが弟子達によって左右されるとは言っておられません。

 

70人に対する指示は、本質的には9:1以下で語られたことと同じです。より鋭くなっています。羊と狼の比喩によって、弟子達に迫っている苦難、危機に言及されます。

路傍で挨拶することの戒めがあります。東方世界では、こうした場合の作法があり、大変時間がかかるものです(王下4:29参照)。それらよりも大事なことがあるのだから、それを避けるように教えられます。

この戒めは、大筋で初代教会のディダケー『十二使徒の教訓』と合致するようです。

ちなみに、このディダケーでは、信徒は日に三度『主の祈り』を唱えることが教えられている、と言います。

 

 語るべきことは、相手の態度によっても変わることはありません。神の国の到来です。

 

 このところには、きわめて厳しい主イエスの教えが語られました。説教者は、いつでも優しい、そして強い、贖い主を示したい、語りたいものです。そうした人間的な思いは一挙に打ち砕かれます。更に、自分自身が自主自立の人間であることを示したいものです。然し、主が示されたことは違います。宣教者は、他の人々のもてなしに全面的に依存すべきである、とされました。ホスピタリティが用いられます。誇り高き自主自立の人格が、他に依存して生きるのは難しいことです。青年時代、ずいぶん注意されました。

私は、その矛盾を解決する道は、他に依存するように見えるが、それは主ご自身に自分自身をゆだねる、依存する、と考えることであろう、と推定しています。私達は、互いの中に、主イエスの姿を見出し、それぞれに与えられた使命を果たしつつ、共に生きて行くことが許されています。感謝して祈りましょう。

 

2014年8月17日日曜日

隠された真実

[聖書]ルカ9:43~56、
[讃美歌]二編144、讃美歌21;12,520,77、
[交読詩編]94:8~15、

 

七十二候では、今日までの五日間『寒蜩鳴』ひぐらしなく、でした。手元の卓上カレンダーには、夏木立に木漏れ日の写真、俳句作家・平野恵理子さんの短文があります。

蜩(ひぐらし)が  鳴き始めるころ

この声を聞くと、

遠い日の夏休みを思い出し、  切なさが募ります。

どなた様にも心当たりがあるのではないでしょうか。私も、少年の日々が思い出され、とりわけ御殿場で聞いた染み入るような、消え行くような、悲しげな声を思い出します。

 

札幌では、10種類のセミが見られるそうです。

ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ、この五種は内地と共通。他は北海道独自の種です。エゾゼミ、コエゾゼミ、エゾハルゼミ、アカエゾゼミ、エゾチッチ、これで10種。どれほどお耳にかかっているでしょうか。

内地では最近西から東へ勢力を拡張しているクマゼミがいます。昔、研修のため熊本へ行きました。そこで聞いた「シャーシャー」というセミ。姿も見ました。やや大型で透き通った羽、筋が緑がかっているのでしょうか、全体が緑がかって見えました。これがクマゼミ、15年前、大阪の夏の主人公でした。その後、その勢力拡張は関東にまで及んでいるようです。関西では、従来の種は少なくなっているようです。「悪貨は良貨を駆逐する」と言うことにならないと良いのですが。

 

前回の説教では、弟子達が、力において(37~43)、理解において(43b~45)、謙遜において(46~48)、憐れみにおいて(49~50)、全く不十分であることが示されました。それは同時に、主イエスの弟子達に対する教育が不足していたことでもありました。福音書記者ルカは、欠如、欠陥を語ることを目的としてはいません。むしろ欠けがある故に選ばれ、主のみ旨に従って満たされることが語られます。力と権威を授けられて派遣されるのです。追加教育が必要です。補習と言えるでしょう。

 

その直接のきっかけは、45節ではないでしょうか。

45節は、弟子達の現状を明らかにしています。即ち、彼らがイエスの語る言葉の意味を理解できないでいた、ということです。主イエスは弟子達に、いま、多くの人々に感動を与えた「主御自身が、人々の手に渡されようとしている」と言われました。これは、ルカ福音書では、二度目の受難予告になります。間もなく現実のこと、事実となります。しかし、弟子達はこれを理解できなかったし、彼らにとって真実は隠されていました。

 

ここではギリシャ語のロゴスではなく、レーマが用いられています。ロゴスは、論理、理性、など広い意味を持ちます。レーマは、語られた言葉、実際に話された話、その内容を指します。「全てロゴスの具体的表現」で、語られた内容そのもの。翻訳者の苦労がわかるような言葉です。

 

この直前、悪霊払いも、イエスにおいて父なる神が語られる出来事です。力ある業は、そのまま真実であり、真理です。受難の予告は、同じ主イエスが、まるで力を失った者のように、他の人々によって運命を決せられる、ということです。

 隠された真理、これを奥義・秘儀、ミュステーリオンと言います。そして、この意味が明らかにされることを啓示・黙示(アポカルプス)と言います。主イエスは、その全生涯が秘密・ミュステーリオンであり、同時にその意味を明らかにする啓示なのです。

 

「真理」とは物事の根本原理のことをいいます。本質的(例 真理に目覚めた)。

「事実」は実際に起こったことをいいます。客観的(例 事実無根)。

「真実」とはウソではないことをいいます。主観的(例 宗教的真実)。

 

46節からは、偉い者になりたい、という弟子達の欲求が現れます。これは、2000年の昔のことではなく、これまで、いつでも、どこでも繰り返されてきたことです。弟子達は12人です。多いから争いになったのでしょうか。決してそうではないでしょう。どこかで読んだような気がします。「人は、二人以上いれば必ず、主導権の争いが始まる」。

年齢、体格、腕力、知力、などで優劣が決まっているように見えても、なお争うのです。

相手の足元を払い、引きずり落とし、自分を相手より高い者・力ある者にしようとします。

 

 力を誇ろうとする弟子達の中に、主は一人の子どもを立たせます。子どもの中にはとてつもなく大きな力を持つ者がいます。然し、主イエスが傍らに立たせたのは、ごく普通の子供です。また、現代の心理学が語るような子どもでもありません。

子供=自我の確立、アイデンティティー形成時期にあるため、最大の関心は自己や親に向けられます。

大人=自己愛を抑制し、自己を客観視し、異質な他者を理解することによって、

コミュニケーションが可能になり社会性を持つ。

ここでの子どもは、ユダヤの律法が語る子ども、と考えたほうが適切でしょう。

子どもは、その家庭に与えられた神の祝福です。子どもが、神の祝福を次の世代に受け渡して行きます。それは、神の民であること、その徴である割礼と律法、そして与えられた約束の地を受け継ぐことです。彼らは、大事に守られ、育てられるべきものです。

 

ギリシャ語聖書では、パイディオンが用いられます。原型は、パイス。類語があります。

テクノン、親との関係、親の性質を受け継いでいる意味を含む。

フィオス、息子、世継としての特権をふくむ。

パイス、年齢的に子供であることが第一義、また親子の関係も。

 

子どもを受け入れることは、親がなすべきことです。どのような子どもでも、親はこれを愛し、守り、育てます。これが、受け入れることです。出来の悪い子どもほど可愛いものだ、と言い慣わされて来ました。親であるためには、忍耐が必要です。これが親の担う十字架です。これは、親となって、よく解ることです。

この子どもを受け入れることは、主イエスを受け入れることです。そして、それはイエスをお遣わしになった方を受け入れることなのです。小さい者は、他の人々によって運命を決められるように見える非力な人を指しています。イエスを示唆します。十字架のイエスを受け入れる者は、まさに最も偉大な人物になります。

 

49節以下は、イエスに従う者には、異なる形態があることを明らかにします。イエスの周りには、12人の者、70人或いは72人の者たち、更にその外側に多くの者たちが従っていました。ここでは、この集団の外にもイエスの名によって、不思議を行う者がいた、と知られます。これはイエスに従うものではないから、やめさせるべきだ、というのが弟子ヨハネの考えでした。それに対して主は言われました。

「やめさせてはならない。あなた方に逆らわない者は、あなた方の味方なのである。」

 

イエスの時代、弟子達の時代、教会の時代、いつでもイエスに従う者たちは、自分たちこそイエスに正しく従っているのだ、と考えたようです。主イエスに従う特権的な集団があり、他の者たちの上に立ち、権威を振るうことができる、と考えました。然し、主の考えは違います。従って歩む形、奉仕する形にはいろいろあるのだ、ということです。

マタイ16にはペトロの告白が記され、その中には、『鍵の権能』と呼ばれるものがありました。ローマ教会は、これをペトロ個人が与えられ、その後継であるローマの教皇が保持し、執行している、と主張しています。地上における神の代理人として罪の赦しを与え、また破門を以って脅迫し、権威を高めようとしました。

改革の系譜を引くハイデルベルク信仰問答は、問83~85で、「福音の説教と戒規(訓練)によってする」と教えています。戒規は拒絶ではなく、失われようとする者を、もう一度キリストの恵みのうちに取り戻すことが目的です。

主は異なる形を認めることで、豊かさをお与えくださいました。どのような形で主に従うか、わたしたちは選ぶことができます。感謝して祈りましょう。