2015年3月8日日曜日

ファリサイ人と徴税人

[]ルカ18:9~17、
[讃美歌]433,12,475、
[交読詩編]107:1~16、

 

WEBから一つの文章を御紹介しましょう。どのような方のものか、お考えください。

1、好きなお酒は? ワイン、シャンパン。

2、好きな映画は? ショーシャンクの空に、海の上のピアニスト。

3、好きな本は? キルケゴール、

4、一番嬉しい時は? 拍手を貰う時。

5、一番悲しい時は? 体のことをいろいろ言われる時。

 

私はこれを読んで、判らなかったのですが、結構趣味的な方かな、と感じました。

これは、すでに引退したトップ・ストリッパーの書いた本にある自己紹介文の一部です。

「踊り子として一番嬉しい時は」拍手を貰う時、となっています。踊り子、と判りますので、それは読みませんでした。踊り子、たいへん体力を使います。四季劇場の『キャッツ』が始まったようです。観た事はありませんが、猫を表現するためにたいへんな運動能力を必要とする、と聞きました。ストリッパー、これも観たことはありませんが、肉体的な美しさと運動能力を維持するために節制が必要だろうなあ、と感じます。どちらかと言えば、体育会的で頭脳明晰な人。注目はキルケゴールです。

 

同じ著書から、キルケゴールに関する記述の一部を引用・掲載します。

 『「空の鳥を見なさい。野の百合を思いなさい」・・教師としての百合と鳥から沈黙を学ぼう、あるいは口をつぐむことを学ぼう。・・百合はせっかちに「春はいつくるだろうか」などと尋ねたりはしない。・・たとえ萎れるがゆえに苦悩し続けようとも、百合は口をつぐむ。・・百合には自分を偽ることができない。・・百合や鳥は神の国を求め、他のものはまったく求めない。他のものはすべて彼らに与えられるのである。』

このキルケゴールの福音書”野の百合”の解釈を、彼女が正しく理解していれば、何も求めず自分を偽らない”野の百合”の思いに反して、自らの肉体に美容整形を施す所業を決して行わなかったと、私は今強く確信しています。

 

キルケゴールは、デンマークの哲学者、実存哲学の創始者と考えられています。

『あれか、これか』『死に到る病』などが有名です。ある学者は、彼を評して『キリスト者になれなかったキリスト者』と書きました。それは彼が、キリスト教を信仰しながらも、『信仰』の前に立ちすくんでしまったからである、と言う。そうでしょうか?  

私は、彼はイエスをキリストと信じる信仰者だ、と考えます。彼は、聖書の中に記されたイエスを讃美します、渇仰します。救い主・キリストである、と信じます。

間違いなくかれは、キリスト信仰者。しかし、教会の信仰箇条を信じ、告白する教会の信者ではないでしょう。そのためでしょうか。彼は、アンティクリストを名乗ります。筆名に反キリスト、或いはそれに類するものを使います。

私は、神学校時代、たまたま彼の書いた《三つのキリスト教講話》を読みました。聖書の読み方で大きな影響を受けた、と考えています。

この書は、大祭司、収税人、罪ある女、この三つからなっています。

 

三つの講話には、彼の誰よりも深い聖書理解が記されています。神学校の頃、私はこれを読み深く心動かされました。

教会的ではないかもしれない。伝統的ではないだろう。それでも、聖書的であることは確かです。二番目の『収税人』が、今朝の『ファリサイ人と徴税人』、ルカ18:9~17です。

 

ユダヤ国内では、徴税人が汚れた罪人である、ということで衆目は一致します。国民の中から追放すべき存在でした。外国政府のために自国の人々から税を集める、という苛酷な、腐敗したシステムの関与者。非難されて然るべき人物像と言えます。

政治的には民族・国家の裏切り者です。宗教的には不浄、席を共にすることも忌まわしい汚れた存在です。

彼の祈りは詩51の精神に通じるものがあります。しかし、彼の生活は人々に責められるようなものでした。

 

ファリサイ人は、ここ神の前で自己紹介をしているようなものです。それによれば、

律法の要求を超える生活をしていることが伺えます。満点以上の優等生。

その感謝の祈りは、詩17:3~5の内容と精神に結びついた一般的なラビの祈りと同じです。

「私が~でないことをあなたに感謝します」という形です。

彼は、傲慢かもしれない。ことによるとある種の実力を持っているかも。いやみな人です。

それでも彼が熱心であり、信じるものに一生懸命であることは、誰であれ否定できない。

そのために、彼が間違っているとは誰も言わない。言うことができない。

却って彼は、彼が求めている人々からの尊敬を得ることが出来たりもする。

 

週二度の断食の規定は何処にもないが、信心家の間では習慣になりつつあった。それは自発的な禁欲によって、民の中の罪ある者の罪を贖おうという願いから生じた習慣である。パリサイ派自体はそうした贖いを必要としないからである。

十分の一税についても同様である。申命14:22以下では、穀物、ぶどう酒、油の十分の一と更に家畜の初子が生産者に求められている。

信心家は、十分の一税を、申命14章で挙げられた産物よりずっと広範囲のものにまで広げた(マタイ11:42、23:23その他)。 

祈りのスタイルを観てみましよう。

ファリサイ人は、自信に満ち神との親交を確信して、諸手を挙げて祈りました(詩141:2、エズラ9:5、1テモテ2:8)。目を天に向けていたでしょう。

取税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」。

彼は、罪を犯したことを意識しています。彼はただ疑いつつも(23:48)、恵を懇願するのみです。神の義が彼に対して向けられるなら、彼は滅ぼされざるを得ないのだから。

 

取税人は、自分に関しては無条件で神を義とします。パリサイ人は、神の前で己を義としています。

神は、人が御自分に依り頼み、御自分の前で己の無価値を認める場合にのみ、その人の価値を認めたもう(マタ23:12参照)。

 

AMハンターは、『イエスの譬 その解釈』INTERPRETING THE PARABLES1960で、

譬の説教例にキエルケゴールの『ファリサイ人と収税人』を引用している。

自らを義とする人間ほど神から遠い者はいない。

「義とされる」はパウロの義認についての教えを暗示する。

これこそまさしくこの譬の主題である。「幸いなのは、神の前に請い求める人たちである」、とイエスは第一の至福の教えで言った(マタイ5:3)。これは譬にされた至福の教えである。

説教要旨、真の改悛とは、1、「取税人のように、ただ一人で神と共にいること」。ただひとりで神と共にいるとき、私たちは自分がどんなに神から遠いかを認める。

2、取税人のように「下を見ること」を意味する。なぜなら、私たちは神の尊厳と神聖を知る時、自分自身の小ささと弱さを認め始めるからである。

3、「神さま、罪人の私をおゆるしください」と叫んだ時、取税人が気付いたように、「危険の中にいることに気付く」を意味する。なぜなら、私たちはパリサイ人のように全く安全だと感じている時、真に危険の中にいるからである。

 

 私自身が、ケルケゴールの講話を読んで感じたこととは、だいぶ開きがあります。

というより、かなり大きな衝撃があり、それ以外のことは、記憶から抜け落ちてしまったようです。このところでの衝撃は、パリサイ人は、決して一人ではなかった、ということです。徴税人も、パリサイ人もそれぞれただ一人で神殿に昇った、とあります。間違いなく、徴税人は、誰も近寄ることもなく、親しい者もなく、たった一人で祈りました。

 それに対して、パリサイ人は如何でしょうか。

 

パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。

 

 キエルケゴールは、このパリサイ人は、決してひとりで立っていない、と指摘します。

パリサイ人は貪欲な人、不正な者、姦淫をする者、取税人その他を引き連れ、足元に引き据え、踏みにじりつつ祈りをささげている。そればかりではない。自らを神の座に立たせている。即ち自分を義とするだけではなく、神としている。裁くことは神の業であるのに。

「自己を判断するのに神の前においてせず人と比較してする場合必ず不当なる自負高慢を生じ、自己を義と信じて他人を軽しめる。パリサイ人はほとんどみなこの種の人であった。パリサイ人と取税人はちょうど正反対の性格を有っている。」黒崎

 

高ぶりと謙りに関わる最後の一文は、譬を一般化するための後世の付加でしょう。

結論を申し上げます。ひとつは、神は罪人を義としてくださる、ということ。

もう一つは、自己義認を究極的な誤りとしている、ということです。

自己義認、自己正当化に始まる独善が、人々の交わりを始まる前から破壊しています。

主イエスは、すべての人が神の前で自分自身を見つめ、行き方を判断するようにと求めておられます。他の人との比較ではなく、また他の人々の評価・思惑でもなく、神は私をどのように見てくださるか、判断しましょう。

 

この譬に対する反応は、「自分がこのファリサイ人のようでないことを感謝します」、という言葉で閉じられるかも知れません。そうなると、まるで漫画になってしまいます。

 

2015年3月1日日曜日

神は裁いてくださる

[聖書]ルカ18:1~8、
[讃美歌]433,149,363、
[交読詩編]140:2~8、

 

先週、水曜日午後、札幌へ映画を観に行ってきました。厚別へ来て初めてのことです。

いろいろ感じたり、考えたことがあります。礼拝ですから、少しだけ。

映画の題は《エクソダス、神と王》、脱出という意味で、旧約聖書の二番目の巻物、

「出エジプト記」を題材にしています。

だいぶ昔のことになりますが、セシルBデミル監督が作った『十戒』(1956年パラマウント)、という映画がありました。ユル・ブリンナーがエジプトのファラオ・ラメセス、チャールトン・ヘストンがモーセを演じました。セシル・B・デミル監督は9年余の期間を費やし、その遺作と成りました。これは聖書の映画化という点でも好評で、半世紀以上を経た今でも魅力を感じる人が多いようです。あれは、できるだけ聖書に忠実に、という制作姿勢でした。

 

今回の場合はこの基本姿勢が違います。聖書は素材です。様々なエピソードも利用していますが、映像作家は自由にそれらを利用します。そして自分の映像世界を展開して見せてくれます。要するに、聖書の出エジプト記であろうとしないで、リドリー・スコットの描く《エクソダス》であり、神々と王たちの物語を展開するのです。

 今回の『エクソダス』は、余り人気が無いようです。平日の午後ということもあるのでしょうが、5・60名の観客、それも若い人の姿は殆ど見られません。現代日本の教会と同じ、ということは当然というべきでしょうか。

 私にとっては面白く、結構楽しめました。それは、この作品をリドリー・スコット監督の描く《エクソドス、神々と王たち》と題されたドラマとして見たからです。聖書のドラマ化なら許せることも、聖書をヴィジュアル化したものと考えると許したくなくなります。

営業妨害する気はありません。「エクソダス」と名付けられたドラマをご覧になるつもりであれば、お出かけください。聖書の映像化、視覚化されたものをご覧になるのであれば、ヴィデオショップで《十戒》をお求めになったほうがよろしいでしょう。

 

 本日の聖書は、ルカ福音書18章1~8節になります。すでに一年以上が過ぎました。まだこんなところ、と言うべきでしょうか。それとも、早くもここまで来たか、と考えるべきでしょうか。少ずつでも、読み続けるならば、大きな聖書も読み終えることが出来ます。毎日1章読めば、1年間で新約聖書を読み終えるでしょう。

 

この18章には、一人の裁判官とやもめのことが語られています。ルカ福音書特有の譬え話です。注意して読むべき部分があります。読んでみましょう。

まず、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が出てきました。ユダヤの国では、訴訟とか争いごとがあれば、町や村の門のところに座っている長老さんがそれを聞き、決まりをつける事になっています。長老と言うのは、公平に裁くことが出来るだけの経験をつんだ人で、たいていは年齢も高い人です。そればかりではなく、ユダヤ社会の中で尊敬されるだけの宗教的な品性人格を有しているものです。イスラエルの律法を守り、神の祝福を得て仕事も家庭も繁栄しているのが普通でした。

 

この裁判官は、どうやらユダヤの長老さんではないようです。神を畏れず、これでは長老にはなれません。旧約律法は、とても人道主義的です。汚れている、とされる人たちのことも守ろうとしています。この裁判官は、法と権利を守るはずなのに、それとは正反対のことをしている人のようです。こんな裁判官がいるのでしょうか。

ユダヤの律法は、裁判は町の門のところで長老によって行われます。必ず複数です。訴える側、訴えられる側から選ばれ、中立の立場からも選ばれたそうです。当時のユダヤの状況を考えれば、この第三の立場は、ローマ帝国の代表になるだろう、と考えます。最終的には総督が代表します。その権限を持たせた代理人を裁判に立ち合わせたことでしょう。この人は、総督に賄賂を贈りその地位を獲得します。従って、裁判の当事者から賄賂を得て、埋め合わせをすることを当然と考えます。賄賂の多い側に有利な裁定を下します。正義も公正も全く省みられることはありません。これがここに登場した裁判官です。

わが国では、判事・検事には高水準の報酬が約束されています。賄賂や人脈などによって判決が曲げられることが無いように、考えられています。諸外国に於いても同じように考えられているはずです。ただし、高額の報酬も感情による予断は防げないようです。

自分一個の利益のために正義と公正をなげうち、裁きを曲げるのがこの裁判官です。

 

もう一人の人物が登場します。一人のやもめです。わざわざ、一人と書いています。強調したいのでしょう。貧しい者、弱い物の象徴と言えるでしょう。普通ならそのような人でも、守ってくれる親戚の者がいるはずです。ルツ記を読むとゴーエール・最も近い親戚、という言葉が繰り返し現れます。親戚は、何事によらず益になるように計らってくれます。この譬に登場したやもめには、こうした助け手、買い戻してくれる人がいませんでした。そのことを「ひとりの」という言葉は、示しています。

 

この女性は、裁判官のところに来ては「自分に有利な裁定をしてください」と頼み込んでいました。やもめ、というだけで守り、助ける者もなく、賄賂を贈る資産もなく、ないない尽くしのこの人は、熱心に、執拗に頼むことしかできません。時も所もお構いなしに、この裁判官を捉まえては頼み込んでいたのでしょう。

はじめは、こんな貧乏人、と思ったでしょうか、相手にしませんでした。それでもめげずにやってくるやもめ、とうとう裁判官も参りました。

「私を散々な目に遭わすに違いない」、ここには暴力的な行動への恐怖があるように理解される言葉が用いられています。身分と格差が法によって守られている社会では、暴力はたいへん恐ろしいものです。一瞬にして何もかも破壊してしまいます。昔も今も変わりはありません。弱く貧しいやもめにも使うことの出来る暴力があります。判事は知っていました。恐れています。「彼女のために裁判をしてやろう。」

  風評の発生、多様なハラスメント、これらも暴力

 

 この譬は、この不正な裁判官が神である、と言うのではありません。

神は、沈黙しておられるように感じられても、必ず叫びを聞き、応えて下さります。

それは、古代エジプトで、奴隷の生活の中での叫びを主が聞いてくださったのと同じです。

悲しみと嘆きと苦しみの中から、私たちが発するうめきを神は聞いてくださる。

ヘブライの詩人も嘆き、祈っています。

 

23我らはあなたゆえに、 絶えることなく殺される者となり

屠(ほふ)るための羊と見なされています。

24主よ、奮(ふる)い立ってください。 なぜ、眠っておられるのですか。

永久に我らを突き放しておくことなく 目覚めてください。

25なぜ、御顔を隠しておられるのですか。

我らが貧しく、虐(しいた)げられていることを忘れてしまわれたのですか。

 

神は、その民のうめきを、嘆きを、叫びを聞いてくださいます。それは、神が私たちの思い通りになることではありません。速やかに救いを来たらせてくださるのです。この譬はそのことを語り、同時に私たちが、救いを祈り求めることを許してくださっていることを教えています。

出エジプトの民は、ちょうどそのような祈りの民だったのです。

 

 

2015年2月22日日曜日

神の国はいつ来るのか

ルカ17:20~37、
[讃美歌]361,11,577、
[交読詩編]66:1~20、

 

2月19日は、今年の『灰の水曜日』Ash Wednesdayでした。この日から主日を除いた40日が四旬節です。旬という文字は10日間を指します。主日を除く意味は、この日が、主の甦りを記念する日だからです。四旬節自体は、主イエスが受けるみ苦しみを覚え、自分の罪を悔い改め、祈る期間です。甦りは、歓喜のときです。

この期間をどのように過ごすか、どのように過ごせば主の受難を深く味わうことが出来るか、昔から考えられ、実践されてきました。

 

この期間を受難節とも呼びます。これは英語でLentと言い,そのまま日本語としても使われてきました(レント)。Lentは断食を意味する昔のゲルマン系(古ドイツ語)の言葉から今の英語になったものです。キリスト教が北方のゲルマン系民族に接した時,受難節が断食の期間であることから断食を意味する彼らの言葉を用いたものと思われます。イースターが英語圏を中心とした呼称と同様,レントも英語圏中心です。ラテン語圏の国を初めその他の国々では40を意味する言葉で呼ばれています。訳して四旬節

ラテン語でQuadragesima,イタリア語でQuarensima,

ポルトガル語でQuaresma,フランス語でCarêmeなどです。

 

この期間中,キリスト教徒は,イエスの十字架上の死をしのび、 悔い改めと真摯な祈りに多くの時間を当て又,嗜好品を避け、食材にも配慮した日常生活を送ります。

 

40日間については聖書に次のように記されております。

イエスが福音を述べ伝えられる前に荒野で40日間断食され試練の時を過ごされた。

 (マタイ4章1,2節:マルコ1章12,13節:ルカ4章1,2節:)

モーゼはイスラエルの民と神との契約を締結した後、シナイ山に登り40日40夜を過ごした。(出エジプト24章18節)

預言者エリヤは40日間歩き続けホレブ山につき、神の声を聞きその使命におもむいた。

(列王記上19章8節)

更にはノアの洪水の出来事に関し、創世記7章では洪水が40日間地上を覆った(17節)とあります。

 

こうした事から,イエスの十字架上の死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備の時として4世紀のはじめの頃(ニカイア公会議 325年)から40日間が守られるようになりました。 日曜日、主の日は主イエスの甦りを祝う日であり、断食は中断されます。

 

断食はどのように守られていたのでしょうか?

時代や地域或いは聖職者とそうでない者、聖職者でも修道僧とそうでない者、様々な形で守られてきたようです。

レント期間中、週に1、2度のみ食事をするとか24時間以上何も食べないとか、厳しく律するところもありましたが、一般的には,太陽が昇っている間は食事をせず、日が沈んで夕食を取る一日一食が普通でした。イスラムの断食は今でもこのようにされています。

しかし時代の経過と共に食事の時間がだんだん早まり中世の初めには昼に食事をとることが許されるようになり,或いは肉体労働者には断食が免除されるとか又疲労を回復する為に途中で軽食を取る習慣も許されるようになり数世紀前から、食事の内容(食材)を制約する他には日常通りの習慣になったようです。

 

レント期間中の食材については,生命を持つもの即ち肉類,魚類はいっさい駄目で固いパンだけと言う厳しいものから鳥や魚は良いとする緩い規律,或いは固い殻を持つ果物,卵から生まれるものは駄目と言うような中間的なものなど様々であったようです。

しかし,一般的には肉類や乳製品,卵などをレントの期間中食べないのが普通で、その事から,こうした厳しく律せられるレントの始まる前のカーニバルの祭の習慣や、復活祭での卵や、イースターバスケットで食卓を飾る習慣につながってきました。

 

今年も、ブラジルのカーニバルの映像が放映されました。リオ・デ・ジャネイロその他諸都市で行われ、多くの観光客を集めています。サンバの音楽も迫力に満ちています。

カーニバルは、謝肉祭と訳され、毎年、レントの前日に行われます。灰の水曜日から断食に入ります。特定の嗜好品を自制したり、或いは食材を控えたりします。勿論今では、日没から日の出までの間だけの断食が多いようですが、40日間肉やコーヒー、ビールを絶つようなことが行われました。これは苦痛だと感じます。本当に断食をしています。

 そうした時代に、これから断食に入るので、いつも食しているものへの感謝を表したのでしょう。肉に感謝する謝肉祭、コーヒーに感謝するカーニバル。観光事業となってしまっても、人々の素朴な信仰は生きている、と考えたいものです。

 

 さて、ルカ福音書17章をご覧頂きましょう。

マタイ24章とマルコ13章は、このところと同じ、終末に関することを語っています。

歴史の終わりと人の子の訪れに関すること、と言っても良いでしょう。小黙示録と呼ばれることも多いようです。マタイ、マルコは、エルサレムの最後と神殿の崩壊と関係付けていますが、ルカはそれらとの関係は語りません。神の国と人の子の再臨にだけ関心を寄せます。

 

論議はファリサイ人の質問が始まりです。途中からは弟子達に対する教えになります。

神の国とは何か、人の子とは何のことか、何も語られていない、論議されていません。

私たちはそれを考えねばなりません。何故お話にならなかったのか。簡単なことです。

ファリサイ人にしても、弟子達にしても、神の国、人の子に関しては充分な知識があったのでしょう。ただ、それがいつ来るのか、或いは人の子を一目で良いから見たい、と願っているのです。

 

神の国は、バシレイア トウー セウー、神の支配と理解されています。これは、マルコ1:15でよく知られています。当時のユダヤは、ローマ皇帝によって支配されていました。更に、イドマヤ人のヘロデ王家の支配もありました。二重の外国人支配を受けていたユダヤ人の間では、イスラエルの神ヤハウェのご支配を待ち望む気持ちが高まっていました。信仰深いユダヤ人は誰でも、神の十全な支配が到来することを求めていました。

だから、イエスに神の国の到来の時期を質問するのは、当然のことでした。

 

新約聖書では、イエスが「人の子」といわれているところが88回も出てきます。

「人の子」の第一の意味は、ダニエル書7:13~14の預言のことを言います。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

この「人の子」というのは、メシアの称号です。イエスが主権と栄光と国を与えられたお方です。イエスがこの言葉を使われたとき、人の子の預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、この言葉はよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。イエスはご自分こそがメシアだと宣言されたのです。

 

 「人の子」の二番目の意味は、イエスが本当に、人間であったと言うことです。神は、預言者エゼキエルのことを「人の子」と、93回も呼ばれました。神は、単にエゼキエルを人と呼ばれたのです。.人の子とは、人そのものを意味します。 イエスは100%完全に神でした。(ヨハネ1章1節)けれども、イエスは100%完全に人間でもありました。(ヨハネ1:14)第1ヨハネ4:2は、「人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」と言っています。もちろん、イエスは神のみ子です。その要素において神なのです。また、イエスは人の子、つまり、その要素において人でもあります。 つまり、「人の子」ということばは、イエスがメシアであり、本当に人間でもあるということを示しているのです。

 

イエスはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、自分のことを「人の子」という表現を用いました。だれかがイエスのことを指して「人の子」と言ったのではなく、自分のことを、それもメシア的称号として用いられたのです。ですから、イエス以外にはだれもこの「人の子」という称号を使ってはいません。イエスは故意にこの表現で自分のメシア性を表したのです。

 

神のすることを人間が計算するのは、もし傲慢でも不遜でもないとしたら、無益なことです。何時、何処で、ということは神の知恵の内に隠されているからです。

神の国は、人間によって打ち立てられるようなものではありません。使徒1:6,7、

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。(口語訳)

 

御国は何時来るのだろうか、人の子は何処で見られるのだろうか。

この問に対しても、多くの者たちが答えようとします。今日の状況の中ではテレビに出演するタレントや役者を何時、何処で見られるか、という情報を提供するようなものです。

韓国ドラマは、ある時期たいへん高い人気を誇っていました。主演俳優・女優が來日して歓迎され、大騒ぎでした。空港まで多くの人が詰め掛けました。來日の情報を流すからファンは一目みたい、と思うのです。

救い主・メシアと俳優・タレントを同列に論じることは出来ません。それでも、一目みたいと願う人々の思い、という点では同じです。

 

 主イエスは、人々の期待するような答えは与えません。意地悪ではなく、神のご計画と人の思いが、天と地が遠く隔たっているようにかけ離れているためです。 

21節「神の国はあなた方の間にあるのだ」。ここで主は、自分が今ここに居る。これが神の国です、と仰っています。しかし、ファリサイ人だけではなく、弟子達もそのことが解りません。そこで主は、弟子達に教えられます。

 厳しく、激しい審判が突然、やってくること。

 その中から救いが与えられる人たちがあること。

 苦難が突然襲ってくるので、その時自分の命や財産等に心奪われ、執着するならせっかくの救いを失う結果になること

火事は、財産すべてを消滅させるから怖い。命さえあれば、一生懸命働いて再建できる。

命を大事にしなさい。強盗がきても、無駄な抵抗はしないように。父の教えでした。

四旬節、受難節は、主の受難を偲ぶだけではありません。同時に私たちが受けるべき救いと苦しみを学び、正しく備えることを教えるのです。

2015年2月8日日曜日

赦してやりなさい

[聖書]ルカ17:1~10、
[讃美歌]361,141,533、
[交読詩編]103:1~13、

 数週間前、説教準備で書いたものを読ませていただきましょう。時間の制約を考え、削除したものです。

「それぞれの時代の問題に対して、決然と精力的に、力強く行動することの大切さを語られた。1967年、修士論文のために読んだ書物には、現代世界というか、当時のアメリカが突きつけられ、今後世界が戦うべき問題が挙げられていました。人種、離婚、核、人口などが大きな項目になっていたようです。これらは今でも大問題になっています。50年近くの時が流れましたが、いまだに新しい問題なのであり続けています。解決不能なのでしょうか。」

 

戦後世界は大きく変化したように見えるし、感じられる。ロケットが宇宙空間を翔り、衛星カメラが地球上を撮影・監視している。多くの国々が独立し、国際連合で活躍している。医療の世界では、触診よりも各種検査が重視されるようになり、データが蓄積されている。それほどにIC機器、或いはPCが普及、発達している、ということでしょう。確かに大きな変化があり、進歩発達した、と言えます。そうは言っても相も変らぬ問題に絡み付かれて身動きが取れないでいます。これが冒頭の文章の意味です。

科学技術面は、時日と共に、着実に進歩しているようです。ハード面での進歩。

人間の存在に関する事は如何でしょうか。相も変わらず、同じことを繰り返しているのではないでしょうか。人間はひとりだけで存在するのではなく、他の人と共に存在し、増殖して行きます。他者と共に社会を構築している、という考えもあります。

 京都大学の霊長類研究所はたいへん有名です。おサルの調査・研究です。平和的だ、と考えられていたチンパンジーが、他の種類のサルを捕まえて殺して食べることがあるそうです。人間の仲間のサル達は、共同生活を営み、社会を造るようになります。そこでは規則・ルールが必要です。それ以前の態度・マナーにも意味があります。

 

初めの段落、1,2節は、躓きに関すること。

避けられない躓きであっても、一人の小さいものを躓かせる者は、不幸である。

マタイ18:6,7とマルコ9:42は、並行関係にあります。小さい者は、勿論、身長や体重ではありません。信仰の新参者たちのことです。成熟した信仰者の言動が未成熟な者たちの躓きとなることは、よく見られることです。信仰の共同体には自由の法則が生きています。その自由が躓きを来たらせる時どうするのか、という問題です。

 せっかく獲得した自由を大事にする、ゴーイングマイウェイに徹する人もいるでしょう。

主イエスは、はっきり語ります。共に生きる者たちの間では、愛の法則が生きている、と。自分の自由を削ってでも他の小さい者に仕えることに値打ちがあるんだよ。ガラテア5:13

 

次の段落は、悔い改める者を赦してやりなさい、と教えています。

マタイ18:21,22では、何回まで赦すべきでしょうか、という問となり、それに対してイエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と答えています。

学生時代、スウェーデンの映画が流行りました。インゲマル・ベルイマン(2007年7月没)の作品でした。相次いで上映されました。若い人なのか、と思いましたが、終戦直後に映画製作をはじめていました。 

「「第七の封印」「処女の泉」などの名画で知られるスウェーデンの巨匠で、1991(平成3)年に第3回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞した映画監督のイングマール・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部の自宅で死去した。89歳だった。20世紀映画の三大巨匠の一人として故黒澤明監督、イタリアの故フェデリコ・フェリーニ監督(ともに世界文化賞受賞者)と並び称された。

  1918年、スウェーデンの大学都市ウプサラに生まれた。父親は厳格なプロテスタント教会の牧師。ストックホルム高校(現大学)時代は学生演劇に熱中、脚本家見習いとして映画会社に就職し、以後、演劇と映画の二本柱で活動。40年間にわたり50本以上の映画を監督した。

  若い娘の奔放な性を描いた出世作「不良少女モニカ」(1952年)。ペストが流行した中世を舞台に死生観を強く打ち出し、主人公の騎士が死神とチェスを指す名場面でも知られる「第七の封印」(56年)、老教授の老いと孤独、生と死に切り込んでベルリン映画祭グランプリを受賞した「野いちご」(57年)、“神の沈黙”3部作として名高い「鏡の中にある如く」「冬の光」「沈黙」、さらに「ペルソナ」「叫びとささやき」「ある結婚の風景」「秋のソナタ」などを撮り、自伝的作品「ファニーとアレクサンデル」(82年)を撮り終えて後、「映画でやるべきことは、すべてやり遂げた」として映画監督を引退した。

  

私は親しむことが出来ませんでした。一つも観ていません。同時代・同傾向の映画の題名を記憶しています。『491』。当時の青少年の無軌道で奔放な生活を主題に、これでも赦さねばならないのか、と問う作品でした。七度を七十倍するまで赦して、その次491回目はどうするのか、問いかけていました。むしろ赦すことが主題、と言えるのかもしれません。私が、今でも観ていないのは怖かったからだろうと思います。野放図な生き方の感化で、自分がそうなってしまうように感じたのでしょう。すでに、自分の中にその素地があるからです。主は回数で限度を示してはいません。無限を意味しておられます。

 

17章の最初の部分は、弟子達との対話となっています。16章のファリサイ人との対話とは、だいぶ様子が違うように感じられます。

5,6節は、「使徒たち」との対論です。ホイ アポストロイ トー キュリオー

福音書では、殆どの場合弟子たちと呼びます。ここは珍しい。なぜか?

ここで福音書記者ルカは、イエスに従いエルサレムへ行った弟子達ではなく、甦りの主と出会い、教会の指導者、復活の主の宣教者となった使徒たちを意識しています。

 ルカの教会で、信仰が弱まるようなことがあったのでしょう。確信が揺らぐ、と言ったほうが良いかもしれません。迫害が迫っている時、平穏な時代とは違う緊張に捉えられます。逃げるべきか、殉教するべきか。判断が出来なくなります。信仰は、現在の状況を正しく掌握する力を与えます。これから何処へ進むかを示します。したがって、次の一歩を何処におけばよいか選ぶことが出来ます。

小学生の時、運動会の分列行進の練習がありました。予科練出身の若い先生が指導してくれました。一緒に相撲をとったり、赤ふんどしで水泳を教えたりしてくれた先生。行進のときは、足元を見ていては曲がってしまう。顔を上げて、遠くの目標を見て進みなさい。

将来・未来とは、これから何処へ行くのか、と言うことです。人生の目標を何処に置くのか、正しく設定すれば、それを見上げて歩むことが出来ます。

そして、このところから過去について正しく判断させます。自分のこれまでのことは、決して誇ることは出来ない、と教えるでしょう。罪の悔い改めが生まれます。

 

7~10節、これは、他の福音書には見られないものです。

前半の譬は、一人の奴隷が畑と家の中、二つの働きの場を与えられているところで起きたこと。私は、一つの奉仕を成し遂げました。褒めてください。奉仕を受ける側に回してください、と言っているように考えられます。私たちは皆、キリストの僕です。

ある宗教では、信仰に階級や位をつけ、年功や献金、奉仕への参加など教派への貢献によって、上昇する仕組みを作っています。もう少しで奉仕を受ける側に立てるぞ、ということが励みになるそうです。

 

神学校の授業、北森嘉蔵先生。早いものです、半世紀が過ぎてしまいました。

「君たちは、なすべきことをなしたるのみ、と言いたいだろう。実際そのように言っているだろう。よく考えて欲しい。本当になすべきことをなし終えたか。たいていは、なすべきことをなし終えてもいないのに、言っているのではないか。」

いつもは賑やかでおしゃべりな学生達、この時はしゅんとなってしまいました。同じことを高崎毅先生も言われた、と記憶しています。厳しく、優しく、謙遜な先生でした。

小生意気な私も、サボってばかりいることを反省、肝に銘じたものです。人間の傲慢さ、独善は、イエスの時代から2000年間同じだし、この50年間だけでも変わりがない。

 

私たちは、多くのなすべきことのうち、わずかばかりのものだけを行い、それをもってなすべきことをなし終えた、と安心している。自分の担当と定められたことを済ませただけでも、なすべきことをなし終えました、と安心、平然としている。それで良いのか。

この点でも、人間は古来たいして変化していないし、いわんや進歩などありはしません。

傲慢にも、何も成し遂げていないのに、なすべきことをなしたるのみ、などと言っているのではないか。そんな自分のドヤガオ。笑止千番、身震いするほど自己嫌悪に駆られます。想像しただけで背筋が寒くなります。そんな私を神は愛してくださる。赦してくださる。赦してやりなさい、とのみ声が聞こえてきます。