2013年4月28日日曜日

恵みと平安があるように


[聖書]フィリピ1:1~11、
[讃美歌21]280,493,522、
[交読詩編]98:1~9、

ゴールデンウィークに入りました。何が、ゴールデン・黄金なのか、考えましたが、よくわかりません。戦後間もなく、休む間もなく一生懸命に働く日本人の間に、4月末から5月初旬にかけて日曜、祝日が集中するようになりました。貴金属のように貴重な休日が続くので、GW、ゴールデンウイーク。これは、私の考えです。

本日から、フィリピ書を読んでまいります。

初めに、説教の主題と聖書箇所について、お話しておきましょう。

説教者の個人的な主観が強くなることは好ましくない。

聖書の極短い所を切り取って語るとき、何でも語れることになる。


例・ローマ12:15「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
個人的な経験談でも良いし、絆のことでも。先週は幼稚園の誕生会でお読みしました。保育の話にもなります。より長く読むなら、文脈が明確になる。文脈または前後の関係が重視される。パウロの意図は、愛を語ることであり、「善をもって悪に勝つ」ことです。


最初に主任者となった教会では、時間はたっぷりあります。じっくり説教してください。
15・6名どまりの礼拝者、一・二を除いて、高齢者ばかり。ときに一時間を超えることも。
以来、習慣となり、短くても40分の説教が続いた。その間、学校では、6分か17分程度に決まっていました。
厚別に来て25分ほどが要請されている、と感じ、努力してきました。最近ようやく、感じがつかめてきたようです。かつて1回で説教したものを二回に分ける感じ。

フィリピ1:1~11は、かつては、1回の説教でも足りなかった。そこで今般、三回に分けることにした。1回でどこまで語れるか、予定することは難しい。融通が利くようにした、というわけです。

次に、この手紙に関する概略をお話しましょう。
この時代、すでに手紙の書き方、形態が周知されていました。
だれだれから、だれだれへ。多くの場合、その居住地が記されます。いわば、自己紹介。
多くの場合、知り合いに向けて手紙を書くので、この部分は不要、と感じるかもしれない。それにもかかわらず、パウロは、いつでも自己紹介する。自己顕示欲の塊り、自己主張の強さ、偉いという思い上がり、などいろいろ解釈されています。

「キリスト・イエスの僕、パウロとテモテから」、これはパウロの自己理解、認識です。
(パウロス カイ ティモセオス ドウーロイ クリストウー イエスー)
キリスト・イエスの僕。ドウーロイは、複数形。奴隷を指すことば。
この時代は、奴隷によって成り立っています。消費財の生産や家事労働、教育、医療、商取引、などあらゆる面で重要な役割を担っていました。すでにモーセの時代、エジプトで、奴隷の国外脱出事件が起きました。その国、その社会にとっては、重大事件でした。生活が出来なくなってしまいます。出エジプト記に記されたことです。イエス、パウロの時代でも、重要な労働力、財産でした。19世紀でも、まだ奴隷に頼っていました。19世紀半ばの奴隷解放運動のときも、使用者側も、奴隷の側も、生活ができなくなる、と言うことで解放に反対しました。

自分が、キリストの奴隷である、と言うのは、卑しい身分です、と言う意味があるでしょう。同時に、働き人としてなくてはならない大事な存在、欠くことのできない重要な存在である、との主張が隠れているように感じます。

パウロに関しては、使徒言行録8:1、9章に報告されています。これは、福音書記者であり、パウロの伝道旅行に参加した主治医ルカの手になるものです。同じような雉は言行録22章、26章に記されています。また、ガラテヤ1~2章には、パウロ自身の手による、と考えられる自己認識が語られています。おそらく、この部分は、ルカには語らなかったことなのでしょう。

テモテに関しては、言行録16:1その他に記されます。この16章は、パウロとルカの出会いについて語ります。9節に、トロアスでひとつの幻を見た、とあります。ひとりにマケドニア人が顕われ、助けに来て欲しい、と懇願した。このマケドニア人が青年ルカ、と考えられています。

「フィリピ」について
ギリシャの北、マケドニアの主都。アレキサンダーの父フィリッポス王が建設。
ローマの時代には、拡張され、市民権を有する植民都市となります。ローマは市民の国防軍から、傭兵による遠征軍が主体となり、その古参兵たちが、満期除隊、引退後の居住地としてフィリピの土地を与えられた。

共和政ローマは、外敵が侵入すると、それを撃退するために市民を招集した。市民は、装備を自前で整えて指揮官の下にはせ参じた。侵入軍を撃退すれば、市民軍は解散される。通常、数ヶ月で、市民は家に帰り、仕事に復帰することが出来ました。事情が変わり、戦争が、一年中続くようになりました。市民の召集だけでは間に合わなくなります。傭兵の登場です。多くの場合、兵士たちには、さまざまな機会に、満期になれば、報奨金とローマ市民権、それに土地と家を与えよう、と約束されていました。兵士は、これが守られることを信じて、困難に耐え、勝利を目指しました。このヴェテランズを植民することで、その地方の治安も維持されました。

帝政ローマは、国を護る為には、国境を遠い所に定めればよい、と考えた。拡張政策は、長期に渉るため、もはや市民軍では無理、となり、傭兵を中心に訓練を重ねた精強常備軍が制度化され、不敗の軍団神話が生まれます。その頂点、紀元2世紀後半、ハドリアヌス帝は、拡張政策に見切りをつけました。

その好例が、イングランド、スコットランドの境を定めた長城です。ハドリアヌス・ウオールと呼ばれ、ローマ帝国の最前線を示し、世界遺産とされています。最初は、ケルト人たちが馬で超えることが出来ないほどの高さ、4~5メートルであったが、今では羊でも乗り越えられるほどである、と伝えられる。17世紀ごろまで、ブリトゥンとスコットランドの境界として機能していた。

この手紙は、獄中書簡のひとつとされます。(フィリピ、コロサイ、フィレモーン、エフェソ、これにテモテを加える人もある)筆者パウロは、場所は不明であるが、牢獄につながれている(ローマ、カイザリア、等)。決して黄金の日々を過ごしているわけではない。日々、暗い環境で、暗い気持ちでいたことだろう、と考える。

それにも拘らず、書かれたこの手紙は、喜びにあふれている。今に至るまで、この手紙を読む人は、喜びの書簡、という呼び名を与えている。闇の中にいながら、そこを光り輝く所に変えています。

「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」
(カリス フミン カイ エイレーネー アポ セウー パトロス ヘモーン カイ
キュリウー イエスー クリストウー)
カリスは、特別な好意を指します。思いやりのある扱い、とも書いてあります。
エイレイネーは、普通に「平安」とも訳され、シャロームのギリシャ語訳と考えられています。ヘブライの伝統では、主なる神が共にいましたもうこと、と考えられます。従って、手紙の発信人パウロは、自分の獄中には神が共にいてくださっています。同じ神が、あなた方とも一緒にいてくださいます、と確信しているのです。

 この部分は、前文祝祷と呼ばれます。主イエスが、重要なことをお話になるとき、アーメンで始められたことを思い出します。ヨハネ5:19、25、10:1、7、「はっきり言っておく」、文語訳は、「まことにまことに」、口語訳は、「よくよく」、と訳していたものです。
語られる前から、そのことについて「これは真実である」と言っておられるように感じました。パウロも、手紙の冒頭で、その内容に関して祝福を与えているのです。
『主なる神が、共にいてくださいます』、この内容を保証して下さいます。

パウロは、かなり自由な囚人生活をしていたようです。ローマ時代の牢獄は、囚人を徹底的に苦しめるような、闇の世界、冷たい、暗い日々を送る場所でした。私たちの人生は、格子なき牢獄に似ています。出口の見えない長い長いトンネルかもしれません。それは、懼れるべきことでもないし、悲しむことでもありません。

パウロは、そうした所で、喜びの光を指し示してくれています。そこにも、神とキリストからの恵みが与えられるのです。そして、その所が、そのままで黄金の場となり、光り輝く、充実した喜びの日々を過ごすことが出来る平和な時となります。

感謝して祈りましょう。

2013年4月21日日曜日

追放も神の恵み

[聖書]創世記3:20~24、
[讃美歌21]280,361,437、
 [交読詩編]116:Ⅰ~14、
  
金曜日のニュース、医療の分野で開発を推進するための委員会が発足する、と報じられました。山中伸弥教授のノーベル賞が契機となり、考えられたようです。45年ほど前に伺った講演は、すでに、この国が平和に存続する道は此処にしかない、と語られました。元最高裁長官、横田喜三郎さんです。世界の人々の健康に貢献することが出来るなら、その国を世界の国々は敬意をもって守るだろう、というものでした。世界連邦を構想。
健康と長寿は、すべての人の求める幸せでしょう。病気、貧困、戦争に反対。
 
創世記2,3章は男と女の創造とこのふたりの堕罪、そして楽園喪失の物語です。
神に創られた人間は、エデンの園に置かれました。
園の中にいる男と女には、職務がありました。この被造物は、園の世話をし、手入れをすることです。人間は、創造の当初から、招かれ、職務を与えられ、神の作業に加わることを期待されました。
彼らには、すべてのことが許されています(Ⅰコリント6:12、10:23)。この許可は、基本的な生命維持のためのもの、と理解されるでしょう。
そして、彼らには禁止があります。不思議なことに、物語は、禁じられた木の性質などには、関心を持ちません。告げられることは、禁止の事実、語られるお方の権威、服従することへの徹底的な期待でしかありません。
 
 アダムとエバは、この神の期待を、創造主が禁止されたことを、見事に破りました。
彼らは、自分の欲望に負けました。約束を守ることが出来なかったのです。かれらは、裏切り者になりました。
「神のように賢くなり、善悪を知る者となる」との誘惑に克つことは出来ませんでした。確かに彼らは、賢くなりました。裸の恥を知り、神に対して罪を犯したことを知り、神の権威を懼れることを知りました。その結果は、身を隠すことでした。善悪を知りました。そして残念なことに、初めにあった、呼べば答えるような、神との親密な関係は消えてしまいました。神を恐れ、身を隠すようになりました。此処に罪があります。
 
罪が存在する。このことが世界の特質です。
恵みが存在する。このことは、神がご自身を表す方法です。
神の恵みは、まさに罪に対する妥協、と考えざるを得ません。
「それゆえに、神の恵みそれ自体が、人間の罪を予想している」(K,バルト・教会教義学)。
罪を可能にするのは、神の憐れみに他ならない。〈ブルッグマン〉
 
大地は呪われたもの、人はこれと闘い、苦しんで糧を得るしかありません。
人は塵に帰る、大地に帰る。初め、この大地は恵みに満ち溢れたものでした。被造物が生きるために必要なものを、溢れるように出してくれました。その大地は、人間の行為の結果、すでに呪われたものとなり、人間が汗を流し、労苦して、糧を得るようになりました。呪われた大地に帰る死は、安息ではないし、休息とも言えません。
 
アダムとエバは、エデンの園から追放されます。神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せられました。これは「悲惨な状態に向かうための装備(フォン・ラートによるグンケルの引用)」です。このために、主なる神は、創造した野の獣の命を取られました。神のようになろう、これは人間の欲求であり、野望でした。ひとの欲求・野望は、いつの時代でも、混乱を引き起こし、何の罪もない命を、そのいけにえとして求めてきました。

 パラダイスからの追放、「失楽園」と言われます。しかしまたこの最後のところで、私どもは大切なことを知らなければなりません。それは、神様は神様の完全な守りから自ら離れてしまった人間、堕落した人間を受け入れて下さっている、ということです(フォン・ラートによるボンヘッファーの引用)。
 そして神様ご自身が、約束を破った彼らに皮の衣を与えられます。被造物の命を犠牲になさったのです。これによって、神様は、積極的に人間を守るものとなってくださいました。賢くなった二人は、自分の身を守るために木の葉を綴り合わせることしか出来ません。創造主なる神は、獣の皮を取り、彼らにお与えになりました。ふたりに、命を与えられたのです。
そう考えると、命の木から人間を遠ざける事も、神様の危惧でもなんでもない、むしろ何が善いもので、何が害をなすものかを自分で決断する存在になってしまった人間、やむことなく求め続ける人間を守るためのわざであったと言えるのです。人間にはそのようなものは、「今の状態では、到底背負いきれないもの(フォン・ラート)」なのですから。
追放も神の恵みなのです。
 
パウロは知恵と愚かさとを理解したひとです。彼は、人間の手の中にある知恵が死をもたらす可能性のあることを知っていました。けれども同時に彼の宣言には、良き知らせもあります。神へのばかげた信頼と、隣人へのばかげた、取るに足りない配慮とが、生命をもたらすものである(Ⅰコリント1:18~25)と知っていました。
 
 この楽園追放の出来事を読んだ人の中から、質問が出ます。
神様は、冷酷だ。二人を裏切らないように造らなかった神様自身の責任があるじゃあないか。楽園に置いておいても良かったのではないか。
結局、神様って、けちんぼなんだ。
神様の愛っていうけど、やっぱり、自己中心で、自分のご都合じゃないのか。
 なかなか面白い疑問、質問です。
 
 約束を守らなかったから、二人を罰し、楽園からも追い出してしまう。
そのように造った神様の責任をどうするのか。
自分の楽園には、自分の意に適うものしか置きたくないのだろう。
園の中の、二本の木の実が、惜しくなったのじゃあないか。
 
 
追放とはなんだったのでしょうか?
楽園から追い出し、その後ろで扉をピシャッと閉じてしまう。
彼らが、決して戻ることが出来ないように、ケルビムと炎の剣に、その道を守らせる。
ずいぶん丁寧に、また厳格です。それも、侵入を許さない、という面において。
 
追放は、確かに命の木の実を、彼らが食べることのないようにするためでした。
それは神のご都合でしょうか、吝嗇でしょうか。私たちであれば、そうかもしれません。
神様は違います。彼らの状況を、よくご覧になります。彼らは、自分たちのしたことを、既に後悔しています。
 
楽園追放の目的、意味は、「ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木への道を守らせた」、という一文に良く顕われています。ふたりが、そのの中で、命の木から実を取り、食べないように。また帰ってきて、侵入しないように、とされています。
「ケルビム」は、有翼人面獣像.大小さまざまな像が残されている。大きなものでは、幕屋の契約の箱を守るものが、よく知られる。出25:18、代上28:18、ヘブ9:5、その他。新共同訳末尾の用語解説参照。イザヤ37:16は、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と記している。
「回る炎の剣」は、他に用例がなく、また図画中にも見受けられないため、説明不能。
 
 主なる神は、エデンの園の東に彼らを追い出し、その土地を耕して、生きるようにされました。呪われた大地と闘うようにして、生きることになりました。此処に文化が始まります。多くの言語は、カルチャーを語源として、文化を表現します。これが、耕すと同義です。
 
創造主は彼らを愛しています。彼らの苦しい状況を、その失敗ゆえの苦境を理解しています。この楽園で生き続ける事も出来ます。しかし、彼らは、善悪を知る木の実に手をつけました。命の木の実を食べる欲求に克つことができる、とは考えられません。
そうしたなら、罪の重荷を担ったまま、永く生きるようになります。裏切り者たちですが、神の愛は、彼らを守ることを選びます。自分たちの勝手で、神の守りをかなぐり捨てたものたち。しかし彼らが、そのままで永く生きることは、決して喜びではありません。
それは、このふたりにとっても、神にとっても喜びとはなりません。
 
私たちは、長生きを求めます。それも、ただ生きているのではなく、健康で活動しながらの長生きです。これが多くの人により「幸せ」、と言われるような生き方でしょう。
 
本来、無限の命だったのでしょう。そこに終わりの時を組み入れられました。命の木への道が閉ざされたことです。罪の重荷を担ったままで永く生きることのないように、という神の憐れみによります。追放も神の恵みです。
 
今朝は、二つのことをお話しました。
第一は、裏切り者となったふたりに対し神は、皮の衣をお与えになったこと。
命を与え、身を守ることが出来るようにされた。ここに神の愛が示される。
第二は、罪を担う二人に、その命の終わりの時を与えられたこと。
重荷を担い永遠に生き続ける事は、喜びではない。
アルベール・カミユは、その著書『シジフォスの神話』で、この問題を書きました。
シジフォスは神の世界よりも人間の世界に留まることを希みました。
その彼に人間の世界を選んだ罰として与えられたのが
先の尖った山へ岩を運び続ける「不条理」といわれる人生でした。
 
私たちの人生でも、神から拒絶され、周囲の人から見捨てられた、と思える時があるはずです。そうした時、失楽園、楽園追放を思い出しましょう。あの中にも神の恵みは示されていたことを。そうすれば、慰め、励まし、新しい希望が見出されるでしょう。

2013年4月14日日曜日

善悪を知る者となる

[聖書]創世記3:8~19、
[讃美歌21]280,227,205、
[交読詩編]16:5~11、
 
本日の聖書は、失楽園、あるいは楽園喪失の物語。あるいは、その場面です
蛇に誘われ、女は木の実を食べ、男にも勧めて食べさせました。
決定的なことは、「決して死ぬことはない。神のように善悪を知る者となる」との蛇のことばでしょう。このことばは、女にとって力がありました。彼女を捉えました。
そしてそれを実証するかのように、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように見えました。その結果はどうなったでしょうか。神のようになったでしょうか。
 
ふたりは、裸であることを知りました。それは恥を知ることでした。
あわてて、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。
これが最初の衣服・衣装です。裸の恥を覆い隠すのが、その第一の意味でした。肉体の裸は、現代のユダヤ人の間でも恥ずべきこととされています。ナチ・ドイツの強制収容所の記録があります。その中で、シャワー室と称されるガス室へ行くユダヤ人が一糸まとわぬ裸にされているのを見ます。注意深く見るべきです。親兄弟にも見せることのない裸を、衆人環視の中で強要されている。大変な恥辱であり、虐待なのだ、ということを。
 
裸、ということばには、もうひとつの意味が隠されているようです。それは、内的な、精神の裸です。ふたりは、神との約束を破ったことを知りました。もはや、無条件で神に守られる自分に帰る事は出来ません。なんと愚かなことをしたものでしょう。これからは、誰にも守られないものとして、自分を自分で守らなければなりません。
賢くなる、とは自分の愚かさを知ることだ、という意味では当たっていました。自己防御、自己防衛のためには、無責任に振舞うことが出来る、という意味でも当たっていました。ふたりは、その責任を他のものに転嫁することを知りました。
 
「風の吹く頃」、園の中を歩む神の足音が聞こえたようです。神の足音を聞いた二人は、木の間に身を隠します。彼らは、合わせる顔がない、とでも感じたのでしょう。
神は、人がいるところを知らなかったのか?二人が身を隠したことに気付かれなかったのだろうか。「どこにいるのか」と問いかけています。
 
どこにいるのか、これが、私たちの間でのことなら、ずいぶん悲痛な呼びかけではないだろうか。若い人は、自分が結婚する相手は、今どこにいるのだろうか、と問いかけるでしょう。愛する者同士が相手の生活を知らない。今頃はどこに?
愛する時、相手のすべてを知りたくなるものです。
夫婦・親子であっても、相手を見失います。何を考えているのか、分からない。そうした時にも、「あなたはどこにいるのか。」この問いには、愛が響いています。
 
 造り主は、既にご存知でした。禁じられた木の実を食べたことを。禁止したことが、守られなかったこと、それゆえにこそ、ふたりが身を隠したことを知っていました。
そこで、11節以下の問答になります。
 
おとこは、あなたがお造りになり、私の傍らに置いてくださった、あの女が勧めました。
木から取って、与えてくれたので食べました、と答えます。女が、と言いながら、実は創造主、神ヤハウェに責任を擦り付けています。
 女は、蛇がだましたので、食べました、と答えました。最近、この社会では、詐欺が横行しています。成りすましから進歩、発達、悪辣化して、本格的なものになっています。さすが賢いものだ、と感じ入るほどです。だましのテクニックの基本は、蛇の中にあります。蛇は、神の造られたもののうち、最も賢かったのです。蛇を賢く造った神の責任だ、といっています。蛇は、神の言葉を疑わせ、やがて違うことを信じさせました。
 
 神は、裁きを下されます。
蛇は、呪われたものとなり、這い廻り、塵を食らう。これは、蛇の体内には、手足の痕跡が残っていることで証明される、という人があります。聖書は、解剖学に基づきません。そうした関心は持っていません。
蛇と女の間には敵意が残ります。これは、現代に至るまで、女の子孫の中に蛇に対する、理由なき敵意が存在することから考えられ、語られたのではないか、といわれます。
 
女に対しては、産みの苦しみを大きくする、といわれます。新しい命の誕生、本来なら大きな喜びになるはずです。そこに苦しみを加える。現実にある苦しみの起こりを主張している、といわれます。更に、男がお前を支配する、とも語られます。相応しい助け手として造られたはずです。互いに相手を利用しよう、陥れようとする現実があったのかもしれません。
アダムに対しては、汗を流して労働し、その結果として、食べ物を得る。呪われた大地は、お前の苦しみを見なければ成果を与えない、といわれます。労働は、祝福とは言われません。そして人間は、この敵対的な大地に、最後に帰って行きます。身を横たえるのです。(これは、恐ろしいことです。神の恵みの手から、呪われた大地に放り出されるなら)。
 
結局、この物語は何を語っているのでしょうか?
人の世は、独りよがりな思い込みと錯覚、誤解に満ち溢れています。その連続です。
神のように、善悪を知る者になるとき、ひとは知りたくないこと、必要のないことも知ることになりました。人は、知識の量を誇り、あれも知っている、これも解かっていると言います。知識によっては、他の人を慰め、励まし、力付けることは出来ませんでした。むしろ、その知識によって、他の人を傷つけ、苦しめることが多かったのです。
 
私たちにとって、本当に知るべきこと、知るに値することは何でしょうか。
ハイデルベルク信仰問答は、その第二問で、知るべきことは三つある、とします。
答え。「三つのことです。第一には、私の罪と私の悲惨とが、どんなに大きいかということ。
第二には、私が、どのようにして、私のあらゆる罪と私の一切の悲惨から、救われるか、ということ。第三には、私が、どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか、と言うことであります。」
 
 大学生の時、メモしたことを覚えています。
「つみ、罪、罪。罪を認めなければ、聖書の福音は成立しない。残念ながら、どれほど贔屓目に見ても、自分のうちに子供の時から大きな罪が巣食っていることは否定できない。」
覚罪意識、というのだと教えられました。私たちの知るべきこと。そして、この善悪を知る者になることを求めたいのです。いまや、この「善悪を知る者になる」ことを神が求めておられるからです。

2013年3月31日日曜日

主は甦られた

[聖書]Ⅰコリント15:3~11、
[讃美歌21]7,325,510、78、
[交読詩編]66:1~9、
 
 人間が社会生活を営む世界では、さまざまな利害が、各自の権利が衝突し、裁判沙汰になります。欧米人は、各自が、その権利を主張し、相手の権利を認めないようにします。日本人も、かなり欧米化しました。それでもなお、自分の主張よりも相手の権利も重んじなければ、と考える向きがあります。
 
 あるとき、機会があり、ベテランの裁判官に、裁判において最も重要なことは何でしょうか、とお尋ねしました。少し首を傾げて考えておられました。
「何が真実であるか、判断することです。」そのために裁判官は、訓練されてきている。
今、司法の世界は、裁判員裁判を行うようになりました。現職裁判官の中にも、この制度に反対する方がいるのは、このためでしょう。我々裁判官は、真実を見極め、判断する責任を担うために特別な訓練を受けてきました。そのための訓練を受けていない一般人にこの重責を担わせることが出来るのですか。担わせて良いのですか。裁判官が、鼎の軽重を問われることになるのですよ。声が聞こえるように感じられます。裁判員にはカウンセリングをすればよい、という発言もありました。
 
 大きな問題は、私たち自身が、日常的に裁判官になっていることです。どちらが正しいか、見極めることなく、個人的な感覚で正邪を裁く。真偽を決定しようとしていませんか。
そして、法廷でも、裁くことが出来ると思い込んでいる。実は、それが困難だから、プレッシャー、ストレス、神経の問題を引き起こしているのです。
 
 さて、このような裁判で、真実を見極めるために、証人の役割が重んじられます。証人は、自分自身が見た事、聞いたこと、触れたことを、そのままに語ることが求められます。
又聞き、推定、虚偽を語ってはなりません。
聖書の中には、法廷用語がずいぶん用いられている、と指摘されます。あるいは、言葉ではなく、法廷そのものが、想定されていることがある、とも言われます。
本日の復活の証言は、法廷で、復活を証言できる人たちの名簿を読み上げているように感じられます。
 
 『墓に葬られたイエスが、甦られて、その姿を弟子たちにお示しになった。その名前は以下の通り。彼らは、いつでもそのことを証言するでしょう。その一番最後にいるのが、この私です。』この手紙の発信人であり、証人の最後は、異邦人伝道のチャンピオン、パウロです。パウロは、自分自身を語ります。
 
「月足らずに生まれたような私。私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でも一番小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。・・・他の全ての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実は私ではなく、私と共にある神の恵みなのです。」
 
 パウロは、かつてサウロと呼ばれていた頃、キリストを信じる者を迫害していました。
生粋のユダヤ人、ファリサイ派の一人としては、当然のことでした。迫害のため、ダマスコへ行く途中、甦りの主が顕われ、彼を導きます。彼は、迫害する者から、宣べ伝える者へと変えられました。このことは、使徒言行録9章に書かれていて、良くご承知の通りです。甦りの主が顕われたのは、私たちに、主のみ名を宣べ伝えさせるため、主の甦りを証言させるためだった、と語っています。主のなさることには、目的があります。
復活信仰は、キリスト教会の中心に据えられる事項です、着任して以来一年、厚別教会の「しんこうのことば」に、ある種の違和感を覚えていました。三位一体の神への信仰は、何とか表現されている、と認められるが、甦りに対する信仰が薄い、と考えたからです。教会総会の報告にもありましたが、2012年度の初めに、甦りの項目を入れることが出来ました。
 
福島の聖光学院高校はキリスト教主義の学校です。伊達市にあり、もとは工業高校として出発。各種運動部の活発な活動により、全国にその名を知られるようになりました。中でも硬式野球部は、甲子園出場も回を重ね、強豪校として知られています。
2013年3月23日(土)選抜高校野球第二日、初戦突破。第2戦では、鳴門工業高校を破り、ベスト8に進出。今日も、11時から、敦賀気比高校と戦っています。勝利の度ごとに校歌が歌われます。
 
 
聖光学院高等学校 校歌
平 野 彬  子 作詞
増 田 瑠々子 作曲
1.桃李一時に咲き競う
         春たけなわな信達野
         希望に燃ゆる若人が
         復活の主 仰ぎゆく
         高き望みに 恵あれ
         ああ わが母校 聖光学院
2.青嵐の彼方吾妻嶺に
         夏来るらし雲湧きて
         希望に燃ゆる若人が
         山上に訓 守りゆく
         清き望みに 光あれ
         ああ わが母校 聖光学院
3. 錦繍の野に風立ちて
              北斗は青く空に冴ゆ
              希望に燃ゆる若人が
              世に勝ちし主に倣いゆく
              望き希いに 守りあれ
              ああ わが母校 聖光学院
 
 
 
 
 
 
 
校章の由来
中央にある「聖光」は、マタイによる福音書第5章14節の「あなたがたは、世の光である」に由来する。  本校で学んだ者は、世の如何なる変遷にも変わることのない真理の生活の基盤とし、光の中を歩み、信仰と希望、愛を持って人々と交わり、自らもまた聖なる光を仰ぎ、人生を全うする者であるようにとの願いがこめられている。 また、校章の地は「X」と「工」を組み合わせたもの。「X」はキリストを表すギリシャ文字の頭文字であり、「工」は「工(たくみ)の家の人となった」キリスト、前身の工業高校を表し、総じて校訓「神と共に働く人に」の神の同労者の意味を表しています。
 
 
ローマ8:34、
主が、「甦って、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである」
このことを信じて喜ぶことが出来るのである。
 
かつては、桜美林高校が甲子園でキリスト賛美の校歌を歌いました。
 
Ⅱコリント4:8を読みます。
「私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、
虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」
 
桜美林学園は、清水安三先生が、戦後創立。先生は、戦前、北京朝陽門外に崇貞学園を
開設。中国人、朝鮮人、日本人が共に学ぶ所とした。これは、ポーランド、ワルシャワで、
コルチャック先生が作った学校と同じ理念です。ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人の共
学。清水先生の愛唱聖句、モットーは、「詮方尽くれども望みを失わず。」
この強い信仰、その実践は、何故可能となるのでしょうか。
 
同じⅡコリント4:14の言葉を読みましょう。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなた方と一緒に御前に
立たせてくださると、私たちは知っています。」
この言葉は、後方から支える役割を果たしています。戦争に負け、全てを失った時にも懼れ
ることがありませんでした。信頼する中国人の手に学園を委ねました。今も同じ所で、校名
だけを変更して学園は続いているそうです。
北京陳経綸中学です。現在も桜美林学園とは姉妹校の交わりを保っています。
無一物で帰国した先生は、都下町田市に学園を開設しました。学校名は、母校であるオベリ
ン大学から取った、と聞きました。教えてくれたのは神学校の同級生です。畏友と言ったほ
うが良いかもしれません。彼は、中国帰りのご縁で清水先生とは親しくしていたようです。
先生の後継者にぴったり、と思いましたが、早くに、60歳で隠退しました。
この学校には1960年代の前半に、行ったことがあります。質素な校舎でした。
   今では、たいそう立派な大規模校になっているようです。
 
学園の建学の精神は、『学而事人』  学びて、人に仕える。
学問には、目的がある。他者に仕えること。
キリストに学び、神と人に仕える者となるように。
 
桜美林高校野球部は、
1976年第58回全国高等学校野球選手権大会初出場、初優勝(東京勢60年ぶりの優勝)
      67年39回選抜、73年45回選抜、77年49回選抜、
   勝利のたびに、校歌が演奏されました。合唱されました。2節では、復活の主が讃美されて
います。
   
   主イエスの甦りは、最初の目撃証人たちにより、証言されました。
   また世々の信仰者たちの、不屈の精神によって確証されました。
   彼らは、尽きることのない新しい命を信じ、平安を獲ました。
同じ道を歩む者たちによって、更に伝えられて行きます。
   この信仰者の群れが、キリストの教会です。

2013年3月24日日曜日

禁じられた木の実

[聖書]創世記3:1~7、
[讃美歌21]152,363、
[交読詩編]118:19~29、
 
 
今年は、雪の多い冬でした。積雪が100センチを超え、なかなか融けませんでした。それでも3月5日、啓蟄を過ぎて、着実に地熱が高くなってきているのでしょうか。3月20日ごろには、突然のように減っていました。気付かないうちに着実に季節は進み、春が始まっているようです。先日は、星置駅からJRで帰ってきました.。途中市立大学のあたりから見えるポプラ並木が、うっすらと緑がかって見えました。間もなく新芽が吹くことでしょう。啓蟄は、地中の虫が、地表面に出てくる時。蛇なども出て来るでしょう。
 
今年は、わが国の干支では、蛇に当たります。蛇は、音もなく近寄るので気持ち悪い、などと言われます。じっと瞬きもせず見詰め、赤く細い舌を、チロッ、チロッと延ばすのも気味悪い、と言って嫌われます。しかし、同時に蛇は、幸運をもたらす守り神のように考えられているようです。とりわけ白い蛇は幸運を招く、青大将も家に居つくなら家運隆盛間違いなし、として歓迎されています。昔から、ネズミを食べる蛇は、農村では歓迎されてきたようです。
諸外国ではどうなのだろうか。創世記の影響がある国では、蛇は悪魔の代名詞のように考えられてきました。
 
蛇の実体は、どのようなものでしょうか。手も足もなく、地面を、長いからだをくねらせながら、音もなく進む。表面は光沢があり、輝き、ぬめぬめと粘りつくような感じ。
そればかりではない。なかなかの美形です。
昔、上野動物園で見た網目ニシキヘビ。太く長い生き物。傘をかぶった裸電球の下、とぐろを巻いたまま身じろぎもしない。時たま、呼吸をするので胴の部分がピクッ、と動く。
重量感があり力が漲る感じで美しい。
触ったことがある人は、皆さんおっしゃいます。蛇のからだは、冷たくて乾いた、サラサラの感じです。蛇を愛玩物扱いする人が、意外と居られることにびっくりさせられます。
 
創世記3:1は、なんと言っているでしょうか。「蛇は、神のお造りになったものの内、最も賢いものであった」。口語聖書を初めいくつかの訳は、「狡猾」としています。
 
蛇は、大変賢い。賢さは、その使い道を誤ると大変な結果を招くことになる。
 
このところの伏線は、2:9、16に敷かれています。
「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。」
「主なる神は人に命じていわれた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」
 
初めの人アダムが造られ、木の実に関する言葉が語られ、その後になって、相応しい助け手、女が造られました。相応しい助け手は、この禁止の命令を守ることにおいても、助け手になるはずです。
 
蛇は女に対し、巧みに質問します。創造主なる神に対する疑いを引き起こさせようとするものです。「本当に言ったのですか」
この質問は、神の言葉とは正反対です。女は、簡単にそれを退けることが出来るはずです。
詐欺師は、多くの真実の中に、小さな嘘をはめ込むものです。全体を嘘で固めるようなことはしません。それでは、すぐに見破られます。
詐欺を成功させるためには、相手の側に混乱がなければなりません。何か、関係の深く強い所で問題がおき、それがあなたにも深く関係するようになります。このような形で、相手の中に不安を引き起こします。此処では、食べるなと言われたのですか、と言う質問です。労苦せずに食べることができてきた。その食べ物を奪われたらどうなるか。
恐れと不安、女の中に混乱を引き起こしました。
 
女は、自分が直接知ってはいないことを、知っているかのように答えます。
現代法曹界では、直接見聞していない事柄は、伝聞証拠として慎重に扱うことにしています。時には採用しないこともあります。伝聞から推定に進むときでしょう。
 
3節には女の答えが記されます。注意深く読んでみましょう。ほんの少し、神の言葉が、変えられます。
「食べても良いのです」。事実は、「取って食べなさい」と言われたのです。
生存のために不可欠なもの、食べるも食べぬも心のままに、とは言われないのです。
女の答えは、食べることにおける、人の自由意志を主張しているのかなとも感じられます。
 
女の答えです。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」。
中央には二本の木があった。そのどちらが禁じられたのか、意識的に曖昧にされています。
触れてもいけない、とは言われていない。女が追加しています。取るな、食べるな、を強調しているのでしょう。
 
「死んではいけないから」。神の言葉は、必ず死ぬ、というものでした。死ぬことのない様に、厳しく禁じられました。必ず死ぬから、取るな、食べるな。行為の明らかな結果を示しています。女の言葉は、神の言葉の厳しさを緩和することになります。
 
一連の問答の中で、蛇の言葉は、巧みさを増して行きます。
「あなたがたは決して死ぬことはない。 5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存知なのだ。」
蛇の言葉は、真実を主軸にしながら、それに対する少しばかりの疑いと、少しばかりの付け加えによって、自分にとって好ましい結果が得られると信じ込ませることを狙います。
 
好ましいものを食べると、目が開け、神のようになる。善悪を知る者となる。決して死ぬことはない。これが、蛇の言葉です。
蛇は、女に木の実を食べることを勧めます。
多くの誘惑が成功するのは、される者の側に、それに乗りたい気持ちがあるからです。
女にとって、見るに良く、食べるにおいしそうな木の実がある。触れたい、取りたい、食べたい。一口くらい大丈夫だよ。でも心配だなあ。
蛇が保証してくれました。死ぬことはない、と請合ってくれた。
そればかりか、善悪を知る者となる。期待以上の結果になるのでしょうか。
 
神のようになりたい、これは、ダビデ・ソロモンの統一王国時代のイスラエルの人たちにとっても大きな望みだったのでしょう。いつの時代になっても、人間の欲望は、変わることはありません。更に大きく、強くなります。地位、権力、財産、名誉、賞賛。
 
蛇は、人間の欲望が叶えられる、と保証します。
多くの文学作品が主題とするのは、欲望の充足が人生の主題・目的なのか、と言うことにあるでしょう。それが充足されない人生は、挫折、失敗なのか、と考えます。
石川達三著『青春の蹉跌』(毎日新聞に連載、若い男女がそれぞれに目標を持っている。その達成に励む。)
それを聞いた女は、恐れながらも手を伸ばす。取る、男に渡す、食べる。
 
 ここで問題が生じます。一切は女の責任であって、男は誘われて従っただけで、責任はない、と言うものです。女は男のあばら骨一本分の値打ちしかない、と言うのと同じ類です。女性を二次的、副次的存在としたい人たちの主張です。
聖書は、あくまで同等の責任があり、平等、対等な助け手である、と語ります。
 
禁じられた果実を食べた結果、何が起きたでしょうか。二人は、創造主なる神と等しい自分を見出したでしょうか。
目からうろこが落ちたように、彼らの目が開けました。
7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」
人間の衣装は、飾ることよりも、身を隠し、守ろうとするものでした。
 
彼らは、神のような創造の力を持つものになることを期待しました。実際に見出したものは、互いの裸の恥でした。罪の姿だったのです。
偉大な神、全知全能、全ての人から仰がれ、礼拝される神の姿を見出しただろうか。
木の実を食べた結果見出したのは、裸で、それを隠したいと考えている自分たちでした。
ありのままの自分の姿は、神の禁止にもかかわらず、それを破った人間であり、相応しい助け手の発見でした。神との約束を破り、神のようになった、と錯覚しているイスラエルだったのです。これこそ、現代の私たちの姿でもあります。
 
このところを読むとき、現実のイスラエル王国の人々に向けた予言と考えるとよいでしょう。自力で繁栄を作り出した有能な人々。偶像礼拝をその国の中に引き入れて親しく交わる人々。エジプトから先祖を導き出してくださった神を忘れる忘恩のイスラエル、かれらに対して語りかけられています。そして、いつの時代でも、同じ状態の人々に問いかけ、神のもとへ立ち返るように招いてくださっています。
創造の秩序のうちに立ち返りなさい。待っていますよ。