2016年1月3日日曜日

受肉の秘義

[聖書]イザヤ402531
[讃美歌]280,224,278、
[交読詩編]103:6~13、
[聖書日課]ヨハネ11418、コロサイ1114

 

本日の主日礼拝は、新年礼拝として守られます。1月1日であれば、元旦礼拝となります。

これは、決して教会暦ではありません。アドベント、クリスマス、歳晩礼拝、元旦礼拝、新年礼拝、続きますが、待降節、降誕節に比肩するようなことはありません。教会の中では同じ重さで考えられる類のものはありません。

 

日本の社会は、それなりの歴史と文化を持ち、それらに基づいた日常生活が営まれ、諸行事が展開されていました。そこへ、外部からキリスト教が侵入してきました。宣教師は、日本伝来の諸行事は異教のものであるとして、拒絶しようとしました。ところがそのようにすると折角の信徒が、生活を続けることができないことになります。外国の邪宗門、外国の邪教、と言われ排斥されました。

 

明治23年(1890年)、教育に関する勅語煥発。意図的か否かは不明ですが、国家・民族的な意識が強められ、非日本的なものを極度に排斥するようになりました。それ以前は脱亜入欧、追いつけ追い越せであったが、この頃より一挙に風が変わります。教会の看板があれば石が投げられ、障子が破られるなどの被害が出た。牧師・信徒の子どもが学校や地域でいじめられました。                                                                                 

そうした中で、日本的なものへの妥協が図られたのではないだろうか。結婚式、葬式(通夜を前夜式とする)、歳晩・元旦・新年・などを守る。戦後は、キリスト教が有利な形で、宗教行事が受け入れられた。反発もやって来る。

 

ローマ教会は、第二ヴァチカン公会議で、諸国の教会、宣教師は、その国、その民族の伝統文化、諸行事をできる限り取り入れるようにしなさい、と決議しました。同じ頃日本政府は、各地の村落共同体はその結束を強めるため、各地の祭礼を重んじ、盛んにするように、との指導通達を出した。70年代のことです。それ以前から、日本の教会は伝統文化との調和を考え、さまざまに努力していたようです。

教会の本質を損なうことなく、日本の伝統と如何に調和できるでしょうか。教会の本質を理解していないのに譲歩してしまうと、次から次に譲るのが当たり前となり、何事もどうでもいいことになってしまうでしょう。

私たちは、教会の本質を守りましょう。クリスマスから公現日、四旬節への流れを重んじ、歳晩・元旦・新年は二次的であることを忘れないようにしなければなりません。

 

さて本日は、《受肉の秘義》が主題とされています。

秘義という言葉は、奥義と言われることもあります。隠された秘密、という意味と考えていただけばよろしいでしょう。表面に見えているものの奥に真理が隠れている、ということはよくあることでしょう。サンテグジュペリの『星の王子さま』には有名な言葉がたくさんあります。その一つは、「本当のことって、たいていは目に見えないものです。」

南極の氷の山、目に見えない部分の方がよほど大きいそうです。

ギリシャ語では、ミステーリオン。これが、英語のミステリーという語になります。隠された真理を明らかにしようとする探究活動を描くと、ミステリー小説。日本人の愛好者も多いようです。だから、日本人は真理愛好者で、真理探究者である、とまで言えるか否か、論が分かれるでしょう

 

1220日、クリスマス礼拝の説教で、次のようにお話しました。

「すべてに超越する絶対の神が、人間世界に内在し、相対的な存在となるのが降誕物語です。神は神だから超越のままとどまっていればよいではないか、余計なお世話、と言われるかもしれません。小さな親切、大きな迷惑、という言葉もありました。その答えは、

『神の独り子は、人間にはどうしようもないこと、最終、究極の問題に解決をもたらすために世に降られました』ということです。その問題というのは、罪です。」

 

これは、自分の頭に、心にひらめいたことですが、学者の著書に当たって、間違いがない、と確認できました。

 

超越した存在の神が、その神性をもったままの姿で、わたしたちの内に住まわれるとき、これは全てを超越した無限の存在が、有限の世界に内在されたことになります。

超越した無限の存在が、空間的にも時間的にも制限された人間世界に内在する、これは通常ではあり得ないことです。

これを信じることは、人間の理解の範囲を超え人間の努力では到底困難なことです。信仰でもって信じることが必要になります。

 

信仰は、自分の力によるのではなく、イエスの復活の御霊・聖霊の働きによります。

信仰は持とうと思って持てるものではないと思います。引き起こされ、湧き上がるものです。たとえば、宇宙を見てそこに誰も否定できない歴然と存在する法則と秩序に神を見る人もあればそれを不思議とも思わず当たり前のことと受け取り何とも思わない人もいるということです。

 

わたしたちを造られた神様が本当におられるならば、何が起こっても不思議ではないと言われる方もあるでしょう。

受肉の目的は、人類の罪の救贖にあります。それは真に神にして真に人であるイエス・キリスト以外には成し得ないことです。

 

フィリピ267でパウロは、この受肉の秘義を語ります。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。」

ある者たち(ケノーシス主義者)は、キリストが受肉において「神の貌」モルフェーと

「僕の貌」モルフェーとを交換、人間になりきってしまった、と主張します。正統派はそうは考えていません。その存在様式は転換せられたが、本質形態モルフェーははそうではない。水戸黄門は存在様式を変えて百姓光右衛門となって天下を微行されても、天下の副将軍・中納言徳川光圀である本質形態に変わりはない。

 

今日、私たちは処女マリアから産まれた御子イエスの誕生を祝い、喜びます。

しかし、初代教父たちは聖書のキリストを復活の相のもとにみて、三重的な生誕者であることを証示します。即ち「天父よりの永遠的生誕者」、「処女マリアよりの受肉的生誕者」、

「死人のうちよりの復活的生誕者」この三種です。

オリゲネスは、この思想を「永遠の生誕説」に止揚大成し、子が子である限り父より生まれたものであるが、時間の中に生まれたのではなく、超時間的に、永遠に生まれたと見ています。これが、ロゴスの「永遠の生誕説」であります。

 

この自然界に超越の無限なる神が内在あるいは内住する方法は、神の言葉・ロゴスが肉となるという出来事により成就しました。このことを語るのが、ヨハネ11418です。

 

イザヤ402831は、新年礼拝の聖句に選ばれることが多いと承知しています。新しい一年を仰ぎ望むとき、艱難・労苦が想定される。考えただけでも気力が失われそうになる。そのような状態でも世界の創造者、主なる神を想い描け。「主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。」

このような主なる神だからこそ、「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。」

ところが今回は、降誕節の主題にあわせて選ばれています。

世界の創造主は、万物の創り主。同時に目には見えないけれども時間を統べ治められるお方です。これも、時間に超越される主が、時間に内在された、と言えるでしょう。

永遠の神が、時間的な存在になられた、ということです。時間内の出来事に介入されます。

それが多くの奇跡です。

み子は、わたし達と共に居られ、慰め、希望となり、力づけてくださいます。