2012年11月11日日曜日

救いの洗礼

[聖書]Ⅰペトロ31722
[讃美歌21]200,16,436、
[交読詩編]105:1~11、
 
ここには、洗礼の文字が出てきます。そこには、小さな文字でバプテスマと書いてあります。振り仮名です。これがあるのは、これで読みなさいよ、ということのように感じられます。他の振り仮名は、まさに読み仮名です。しかしこの場合は違います。
 
聖書の序文に続いて「凡例」が置かれています。次の項目があります。
『なお、訳語「洗礼」については、「せんれい」と読む場合のほか、「バプテスマ」と読む場合を考慮し、例外として「バプテスマ」の振り仮名を付した。』
私たちが、これを読む時、理解できるか、というと難しいですね。何らかの予備知識があれば、判ることでしょう。
 
この項が意味しているのは、教派によって、読み方の指定があることへの配慮のようです。新共同訳は、プロテスタントの「日本聖書協会」と「日本のカソリック教会」が合同で翻訳・出版した、世界でも珍しい聖書です。この中には、洗礼をバプテスマと読むことを求める教会もあります。そういう教会で読まれる時は、ここはバプテスマと読んでください、ということです。バプテスト派では、バプテスマと読むようです。
これとは違って、読み仮名はありませんが、無教会派では,教会とあるものは「集会」と読むようです。こうした違いを乗り越えて刊行されたのが新共同訳です。日本聖書協会の努力を高く評価します。
 
本日与えられた聖書は、なかなか困難を感じさせられるものがあります。何を語ろうとするのか判り難い、と言えば良いかもしれません。ある学者は、ここは、論旨が通っていない、とはっきり指摘します。それなりに読んでみましょう。
 
まず、17節は、一般的命題、と理解されます。正しい人イエス・キリストが、苦しみを受けられたことが語られます。悪を行って苦しむのは、自業自得と言われます。神の御心による正しい人の苦しみは、深い意味を持ちます。神の御子イエスが、世の人々に代わって苦しみをお受けになりました。正しくない者たちのために苦しまれました。神の許へ導くためでした。
 
1822節は、この手紙に見られる第四の「キリスト賛歌」(1391182122225)です。キリストの受難から天に挙げられるまでの歩みを、短い信仰告白の形式で描写しています。とりわけその歩みは、罪なくして義人が担う苦難がもたらす祝福の最高の例として提示されています。
この部分は、洗礼に際してなされる信仰告白の内容だったかも知れません。20bから21節からだけでも、これが洗礼における信仰告白であると推定できそうです。
 
また、一方でヘブライ書との関連が深いように感じられます。ただ一度限り(ヘブライ928)捧げられた贖罪の犠牲(ヘブライ727)。罪なき義人が、罪びとの代理として自らを生け贄として捧げた(ヘブライ1026、ローマ5883、ガラテヤ14)。この書が、第二世代のものと見る一因にもなります。
 
「肉において殺され、霊において生かされた」という一文は、元来キリストの死と復活を意味する定式であったのでしょう。
 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
(ローマ149
 
そして、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
 
この19節の解釈
創世記64、「堕天使」に関するもの。この堕天使は、人間の娘たちと交わる、というなすべからざる罪を犯した。後期ユダヤ教の伝承では、この聖書記事を拡大解釈して、これらの天使は罰として神により天から突き落とされ、永遠の桎梏によって地中深く縛り付けられ、審判のために留め置かれている、と考えていた(エノク10121811以下、211以下、なおⅡペトロ24、ユダ6)。エノク書の中では、彼らには赦しを与えることは不可能であることを宣言するために、エノクが彼らの許に赴いた、と拡大注釈している(エノク616章)。
その後、キリスト教の伝承において、エノクに代わってキリストが登場しました。ただし、
キリストは彼らに審判を宣べ伝えたのではなく、神の恩恵を提供した、という点で違ってきます。
 
19節に「捕らわれているもろもろの霊」とあります。これは何を意味しているのでしょうか。創世記64にある堕天使という説もあります。面白いものですが、割愛します。
むしろこれについては、地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々は、その後どうなるのか、という問いに答えようとする試み、と理解されています。
  
とすると、この書の成立年代と深く関わるのではないでしょうか。このような問いかけは、第一世代では考えにくいことであり、むしろ第二、第三世代のものではないだろうか。
 
ここで判ることは、僅かしかありません。
キリストは、生かされた霊として、復活までの短い間、死者の国にいる身体を持たぬもろ
もろの霊の許へ、降りて行かれたということです。復活までの間そこに宿り、かつてみ
言葉に従わなかった霊に仕えるためでした。
 
 
ここでペトロは、ノアの時代の洪水と箱舟に関心を移します。
ノアの時の洪水と箱舟、ノアとその妻、息子たちセム、ハム、ヤペテと夫々の妻、合計8人は、神の言葉を信じ、忠実であったので救われました。箱船と水を経ての救いが教会と洗礼の水に対比・結合させられています。
 
20節では、もはや堕天使への関心はなく、明らかにノアと同時代の不信仰な人々が、黄泉でキリストの宣教を聞く者と、されています。捕らわれている霊とは、地獄の処刑場に追放されているノアの同時代の人々を指しています。「神の忍耐」は箱舟が造られていた時期のことであろう(ヘブライ117)。あるいは寛容と訳します。
キリストは、地上の存在から解き放たれた霊的存在として、死者の国へ下られた時にも、救いをもたらす活動を続けられた、ということを筆者は語ろうとしているのです。
 
 
新約聖書の出来事は、旧約聖書の出来事の中に予表されています。そして、新約における出来事は、救いの完成という意味を担っているのです。
キリスト教の洗礼は、ノアの受けた「洗礼」とは違って、ただ身体的救出に関することではなく、人間の全存在を新しい土台の上に据えるもの、と考えられています。そうしたわけで、教会において洗礼は、より深く人間存在全体に関わる出来事です。
ペトロは、「神に正しい良心を願い求めること」、それが洗礼である、と明言しています。
ここでは良心の清めが問題なのです。洗礼は、善き良心を求める神への願いなのです。
 
この「願い」と訳されているギリシャ語は、古代の宗教的語法においては、託宣によって神の御心を伺うことの意であり、法律文書においては「当然受け容れられるはずの契約問題の提起」を意味します。
キリストの教会は、洗礼を密儀的、呪術的に考えたことはありません。それ自体が、何らかの力を発揮するものとは考えませんでした。水にも、授ける人にも、そのような力を認めることはしなかったのです。
洗礼の決定的な救いの効果は、水から出るものではありません。そうではなくてこの救いの働きは、キリストの復活の力から出てくるのです。すなわち、復活者が洗礼において働き,受洗者の新生命の土台を置かれるのです。
 
この手紙の著者、ペトロは、ここで洗礼について語ります。パウロは論理的な順序に従って語りました。それとは違ってペトロは、感覚的に語ります。私たちも、彼の感覚・情緒・心理を理解しないと、語られていることがわからなくなります。
 
ペトロは、洗礼式に際し、信仰告白としてキリスト賛歌を歌います。朗誦と言うべきかもしれません。その始まりは,罪なきキリストが死なれた,という極限の苦難でした。
罪なき人、と言うことは、義人ノアを連想させました。彼の時代の洪水と箱舟による救いが、強烈に思い浮かびました。この水からの救いは、洗礼を思い浮かべることになります。それは、かねてからの課題、「福音を聞いたことのない者達に対して神の計画はどのようになっているのか」、に対する答えとなりました。
 
そして、ここで洗礼と救いに関して、奨励を語られます。
洗礼は水によって洗うことではなくて、救われた者が、正しい良心を求めることです。
罪赦された事を知っただけで、正しい良心に従うことができるでしょうか。先ず、赦された恵みを知る者として、正しい良心を求めて行きましょう。
 
 求めるためには、それが自分に欠けていることを承認しなければなりません。
私たちは、既に良心をもっているのでしょう。シモン・ペトロのために、主イエスは祈っておられます。
「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ2232
持っているはずの良心が崩壊する危機を経験したのがペトロです。主イエスが祈り、ペトロが力付けてくれています。私たちも洗礼を受け、正しい良心を求めましょう。