2012年11月18日日曜日

肉の苦しみを受ける

[聖書]Ⅰペトロ416
[讃美歌21]200,209,530,78
 
4章のはじめで、手紙の筆者は、主イエスの十字架を、「肉に苦しみを受ける」と表現しています。単純に、肉体において苦しまれた、と考えます。肉を罪と考える二元論には立たないほうが適切でしょう。
イエスを信じる者は、みな同じように肉の苦しみにあっているのだ、と語り、罪とのかかわりを絶ったのだ、と言われると困ります。イエスの十字架は、罪のない方が、罪ある者が本来味わうべき苦しみを、代わって担われたもの、という点で、全く独自のものです。それにもかかわらず、「同じ心構え」と言われても、直ちに承服はできません。地上の肉体が、闘う心構えなら判ります。ゲツセマネの戦いもありましたから。
 
 ただ、ここでは「武装しなさい」とあります。闘うために必要な武具を身に付けることです。この時代、個人の武装は、甲冑、弓槍(投刺突)、刀剣、大楯小盾。
ローマ帝国の軍制は、長い間、防衛戦のための市民兵でした。しかも自己負担で軍装を整える責任を担いました。やがて、防衛のためには、国境線をできるだけ遠くにしよう、と考えるようになり、周辺諸国を征服するようになりました。そのため出兵期間が長くなり、自由な市民兵では間に合わなくなりました。奴隷や外国人を兵士とし、装備は支給するようになりました。こうして防衛のための市民軍から戦争予防を名義にする常備軍へと変化して行きました。
 
 ここでの武装は、何に対して戦うものでしょうか。罪との戦いです。
既に、罪とのかかわりを絶った、と言われますが、絶縁状態を保つためにも厳しい戦いが必要です。洗礼について語るペトロです。洗礼は「神に正しい良心を願い求めることです」と語りました。大きな、強い武器を求めることです。
 罪は私たちを、キリストを拒絶することへと誘います。さまざまに形を変えて、いつも見えないように、気付かれないような攻撃を仕掛けているものです。
 
この手紙の読者像は、ここで明らかにされます。
律法を無視するかのように、異邦人同様の行いをしてきた人々です。
好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、偶像礼拝。偶像の神殿では、不品行が何の疑いも持たれず、行われていた。
これらは、罪のカタログ、目録と呼ばれます。
無教養、不品行、衝動的享楽(Ⅰコリント1532)、の数々が挙げられます。
  もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。
どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。
これらを倫理的基準に従って節制し、抑制するところに高貴な生活がある、と多くの場合考えられてきました。
 
少数の貴族による統治、政治が行われていた時代のローマでは、貴族が自己抑制を当然としていました。しかし、アウグストウス帝後の帝政ローマにおいては、皇帝の家族たちからも倫理基準は消えうせてしまいました。上のするところに下も従うのは道理。実際は下層の者たちのすることを、高貴な階層の人々が真似た、と言えそうなほどです。
 
この時代を見詰める伝道者パウロも、悪の目録を書いています。ガラテヤ51921
「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他この類のものです。」
当然のことですが、善の目録があります。ガラテヤ52223
「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じるおきてはありません。」
このような帝政時代が、キリスト教初期の時代でした。悪のカタログは、富裕な貴族や議員たちの日常の姿そのもの。
そうした破廉恥な生活を嫌い、キリスト教の清廉な生活に憧れを抱き、入信する人たちが多く出ました。そうした中には、ギリシャ哲学を学び、高潔な生活を求める貴族、貴婦人たちの姿を見出すことができた、と言います。
 
ローマの異教徒たちは、キリスト教に改宗した人々が、偶像礼拝と不品行に背を向けたことを怒りました。これまで同じ価値観をもち、同じ事を楽しんでいた人々の目には、背を向けた人たちは、裏切り者に見えたことでしょう。
キリスト教信仰へ導かれた元異教徒たちは、回心によって全く新しい考え方、判断を獲得しました。異教的生活は、今や「放蕩の泥沼」と感じられました。彼らは、神の恩寵によって、そこから引き上げられたのです。
人々は、唖然とし、憤慨し、罵り、侮辱するようになります。
異教徒は、キリスト教徒が彼らとの交際を避けることに憤慨した(Ⅱコリント614、エフェソ57)。更に、彼らの倫理的に厳格な生活をばかげたことだと嘲り(Ⅰコリント1532)そこには不純な動機があると非難し、神とキリストに対する彼らの信仰を嘲笑する。
 
タキトゥスは、『年代記』15巻-44節(筑摩書房版286ページ)で、ネロ皇帝時代の、ローマの大火のことを書いています。
 
民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみ消そうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手の込んだ罰を加える。それは日頃から忌まわしい行為で世人から憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治世下に、元首属吏ポンティゥス・ピラートゥスによって処刑されていた。
  
訳者(国原吉之助)注、キリスト教信奉者、信者、以下は異教の文献における最初のキリスト処刑への言及として有名。「日頃から忌まわしい行為」とは、嬰児殺しと人肉嗜食と近親相姦のこと。キリスト信者に対する世間のこのような非難を、タキトゥスは全面的に信じていたようだ。
 
紀元112年に、キリスト教徒を審問した、タキトゥスの友人、ビテニアの総督プリーニウスは、元首・トラヤヌス皇帝に報告しています。
「キリスト教信者は一緒に集まって食事をしますが、それは当たり前の罪のないものです。」最善の元首と謳われた皇帝トラヤヌス(98117)の時代のことでした。
このような報告が皇帝のもとに提出される。50年が経過しています。皇帝も五賢帝の一人
です。意に沿わない報告であっても退けられる心配はありません。
 
彼は、五賢帝(ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニウス・ピウス、マルクス・アウレリウス、96180年)の一人でした。
『ゲルマーニア』では、ローマ人が野蛮人として、巨人として恐れていたゲルマン人の生活、風習などを描いて、正しい理解を進めています。その中で、一夫一婦の婚姻制度と結婚前の禁欲などを称賛しています。一部貴族には、再婚する者があるが、大部分は生涯に渉り、ただ一人の配偶者を守る。
当時のローマにおいては、こうしたことが驚きであった、ということが判ります。
 
キリスト教徒は、少数派で、無力です。たとえ、証拠を示して、多くの非難が根拠のないことを立証しても、何の成果も収めることはできなかったでしょう。
しかし彼らは、終わりの日に正しい裁きをされる神に、安んじて全てを委ねることができました。異教徒は全て、彼らの言動について、この神の裁きを受けることになります。その時彼らは、自ら釈明せざるを得なくなります。
 
キリストを信じる者が、倫理的に立派な生活をしたとしても、信仰をことにする者たちが、承服するとは限りません。ペトロの時代の、ローマ市民たちのように、キリスト信奉者を悪し様に罵るようになるかもしれません。それは、彼らのうちに愛がないからです。キリストの愛をもたないために、それによって自分自身の愛もなくなってしまいます。
 
Ⅰコリント13
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
 
愛はすべてのときに、最強、最良の武器になります。愛しながらの戦いLiebender kampf
と言ったのは、武藤光朗教授。元は、ドイツの哲学者、カール・ヤスパースの文。
 
結婚式、愛により結婚する。人間的な愛は変化・成長する。自分も相手も変化・成長する存在。基盤になりえない。
永遠に変わることのない神の愛を基として結婚する。
 
すべての人は、その口にした言葉や、行った全ての業、または怠った全ての業にたいする責任を問われることになります。神は裁きを遂行される準備をしておられます。
私たちは、人間の欲望に従って生きるか、それとも神の御心に従って歩むか、絶えざる戦いをすることになります。この戦いのための武装・戦備に関しては、伝道者パウロが丁寧に教えてくれます。エフェソ613以下です。
 
エフェソ613
06:10最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 06:11悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 06:12わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 06:13だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 06:14立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 06:15平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 06:16なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 06:17また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 06:18どのような時にも、に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
 
ずいぶん難しいようにも感じられます。キリスト・イエスにおいて示された神の愛を内に抱きましょう。最善の武器です。愛されていることを堅く信じることです。そして愛することです。これなら出来るでしょう。これなら大丈夫ですね。 
本日はここまでに致します。祈りましょう。