2012年12月2日日曜日

恵みの良い管理者

[聖書]Ⅰペトロ4711
[讃美歌21]252,204,520、
[交読詩編]24:1~10、
 
教会暦では、新年に当たる。諸教派、諸教会ではアドベント第1主日。
教団だけが、降誕前第4主日などと呼んでいる。
 
122日からアドベントに入る。アドベント・待降節第一主日。24日まで。
1125日は収穫感謝日。終末主日。翌週は、教会暦の新年・アドベント。
御子イエスの御降誕日の前、4回の主日を聖別して、待望の時とする。これがアドベント。
日本基督教団は、いつのころからか、おかしなことを始めた。
三位一体節に代わって「聖霊降臨節」と呼び始め、降誕前の九主日を「降誕前節」とした。
 
今年の場合、
527日 聖霊降臨節第1、(聖霊降臨主日)、ペンテコステ
63日 聖霊降臨節第2、(三位一体主日)
1021日 聖霊降臨節第22主日(三位一体節第21主日)
1028日 降誕前第9主日(三位一体節第22主日)
1125日 降誕前第5主日(三位一体節第26主日、収穫感謝日、終末主日)
122日 降誕前第4主日(待降節第1主日)、アドベント(教会暦の新年)
1223日 降誕前第1主日(待降節第4主日)
1225日 降誕日・クリスマス
 
諸教会との一致を進める時代、と考える。それは考慮する必要はないのか。
教会の伝統をどのように理解するのだろうか。
教会暦が、アドベントを新年としたものが、不明になってしまう。
降誕前第9主日をもって、新しい歳のはじめとするのだろうか?
 
 
As good stewards of the manifold grace of God,AV
どうしたわけか、ネストレー版ギリシャ語聖書が見つかりません。
旧版も見えない。希英対訳版だけが頼り。久しぶりに引っ張り出しています。
 
青年の頃、母教会で『スチュワードシップ』を主題とした教会修養会があったことを思い出します。意図は判るけれど、意義がわからず、どこか腑に落ちず、醒めていました。
今考えると、あの時は、教会管理、組織管理・運営に重点を置いて、受け取っていたのだ、と思います。少なくとも私の中に残ったものは、そのような感覚でした。
 
 改めて、このところを読んでみると、教会よりも、個人の信仰者に与えられている神の恵みを管理することに重点があります。あることが判ります。
 
7節、「思慮深さ」テトス212、「冷静さ」11358、特に祈りにおいて示される。
熱狂的興奮、刹那的陶酔
 
8節、教会は、兄弟愛を行う。
「愛は多くの罪を覆う」、箴言1012を引用している。覆い隠すことが語られる。
愛は、自分の罪の贖いに寄与すると言うのではなく、前後関係からわかるように、兄弟の過失に対して寛容であり(マタイ57、ルカ747、ヤコブ213)、自分に対する罪過を許す、ということである。
愛は、相手をそのままで認め、受け容れます。愛している時は、あれも出来ない、これもできない、それでも可愛いと感じる。親の愛には、そうした部分が多く見られます。恋人たちが分かれる頃には、愛が冷えています。嫌気がさしてきます。あれもこれも皆認められなくなって来ます。「あばたもえくぼ」でもなく、盲目になることでもなく、相手を全人格的に受け容れる愛が語られています。
 
 私たちの周囲には、さまざまな人がいます。立派な学歴で、業績を上げ、財産を持ち、正しい家族関係を誇ることの出来る人々。他方、何も誇るものをもたず、孤独をかみ締め、しかも他の人々のお世話を良くする人々。ここでは、類型的に分けてみましたが、実際は、こんな風に分けることは難しいでしょう。あれやこれやが入り混じり、分かちがたくなっています。そうであっても、私たちが、安心することが出来、心を開くことの出来る人は、どのような人でしょうか。何も誇るものがなくても、自分の弱さを知り、その故に他の人の弱さが判る人、こんな人に心惹かれ、求めるのではないでしょうか。
 
 パウロは、Ⅰコリント811で語ります。
「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」
これは、偶像に供えられた肉に関する箇所です。偶像などいないのだから、その偶像に供えられた、と言う事実が存在しない。従って、肉屋で売られている供え物だったと言う肉を食べることに問題は存在しない。このように考えることが出来るのは強い人。知識のある人。しかし世の中には、そのように考えることが出来ない人たち、弱い人もいる。
弱い人たちのために、強い者は、自分の考えを引っ込めることもするのです。
教会は、おおよそこのように考え、行動してきました。強い人たちは、神様から多くの賜物を頂いています。それを正しく用いるように、管理しましょう。自分の正しさを貫くのではありません。正しさを証明することは神様に委ねて良いのです。弱い人を守ることが優先されるのです。
 
 9節、「もてなし合いなさい」、この時代の旅の習慣がありました。
旅する商人の慣わしは、ヤコブ413以下に記され、戒められている。
「よく聞きなさい。『今日か、明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金儲けをしよう』、と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。・・・やがて消えて行く霧に過ぎません。・・・」
 
 旅人の中には、主イエスの弟子たちもいました。伝道者、教師もいます。ここに、成りすましがいました。
 
 こうした旅する商人の中には、信者に成りすまし、もてなしを求める者もあり、大きな問題になりました。信者の多くは、貧しい生活でした。度重なる訪問は、重圧となり、負担しきれないほどにもなったようです。そうであっても、兄弟愛を実践する機会を減少させないように、と教えます。不平を漏らすこと自体が、既に兄弟愛に対する違反でした。だから呟かずに、と勧められます。
教会は、使徒たちの名によって教えを発表します。《ディダケー》。そこでは、宿泊を求める者たちに、連泊を禁じました。寡婦たちの家を食い物にしないように、配慮したのです。
 パウロもフィリピ214で勧めます。「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。」
彼は、そうすることが、自分の救いの達成に努めることだ、と言うのです。
口語訳『すべてのこと、呟かず、疑わないでしなさい。』
 
 10節、「恵みの管理者」、神からの賜物は、人それぞれによって違います。
違う賜物だからこそ、それらを合わせて、教会の必要を満たすことが出来ます。多様であることが豊かさを導き出します。恵みは、各人の上に賜物となって現れています。
何もない、と言ったら、お与えくださったかたに大変失礼になります。誰もが受けています。恵みの贈り物は届いていないのでしょうか、とすれば、配達人が着服したか、と疑われることになります。恵みの贈り物は、そのようには考えられないかもしれません。そうであっても、賜物です。早く見つけて、感謝したいですね。
 
パウロは、エフェソ41116で、多様性について書きました。356ページ
「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧師、教師とされたのです。・・・愛に根ざして真理を語り・・・おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」
 
 違う賜物を、互いに協力するように差配するのが管理する者です。
管理、物の出入り、使用を統制すること。財政なら、古来『入るを計り、出るを制す』と言われた。教育でも、そのカリキュラムを立て、実施を計画、そのための方法を探る。
国の政治に関しては、『治山治水』こそ、なすべきこと、と考えられました。
英国の政治家は、『貧しい者、力のない弱い者が、正直に生活できるようにすることが政治である』と考えた。庶民の平和と幸福。
藤林益三さん、元最高裁長官、弁護士出身、最高裁判事、事務総長を経て
「すべての人は幸福を求めて生きています。不幸になりたい人は一人もいません。」
塚本虎二の弟子、無教会派のクリスチャン。京都府出身、三高(山城)、東大、弁護士、
津市地鎮祭訴訟判決で、長文の反対意見を書かれた。
 
Ⅰコリント412、「こういうわけですから、人は私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。」
神の恵みの管理人は、神の御意志を示して、その実現のため、忠実に励みます。
 
 ペトロは、それを二つの分野で、具体化します。み言葉の宣教と奉仕です。初期の教会では、この二つしか考えられなかったのです、と書く学者がいます。エフェソ4章を見ると、既にかなりの職責があります。またローマ社会は、組織化されていました。教会も、もっと組織化されていたことでしょう。その代表格を挙げて、全体を考えるようにしたものでしょう。
 
 語る者は、それに相応しく、とありますが、どのようなことでしょうか。内容に相応しい語り方、そして人間としてのありよう、と言うことです。内容は福音です。更に、キリストとの出会いが起こるように語ります。それらに相応しいことが求められます。それは牧師らしさ、と同じでしょうか。例えば、いつもネクタイを締めているようなこと。
そんなものがなくても、どこか違う、と見えることを求め、自分に課しています。
 
 奉仕をする人は、与えられた力に応じて、奉仕する。それを超えることは求められていません。人間的な力は求められていません。賜物に応じた奉仕の業が大事です。背伸びすら不要です。あの人と同じ奉仕をしたい、と願うこともあるでしょう。そのために必要な力が、知恵が、与えられるよう祈ることが先行するはずです。
忠実な良い管理者は、与えられた賜物に感謝するならば、よく働くことが出来ます。感謝の心がない時、管理のための管理になり、収容所の管理官のようになります。
賜物を見出し、感謝し、喜び、協力できるよう管理しましょう。