2012年12月16日日曜日

祝福された女

[聖書]ルカ福音書1520、創世17921
[讃美歌21]252,248,265,78
[交読詩編]113:1~9、
 
3本目のローソクに火が灯りました。1本より2本、2本より3本、次第に明るくなります。こうしたアドベントクランツの習慣は、この闇の世界に、まことの光である主イエスが到来するのを待ち望むことを指し示します。遠くから点火して、次第に近くにする、と言う方もあり、そんなことは構わない、と言う方もあります。置き方によっては2番、3番は同じになります。順番にこだわるなら、置き方にもこだわることになります。
私たちは、まことの光、闇の余に輝く御子イエスの到来を待望する、と言うことをしっかり覚えてこの習慣を守りましょう。
 
ルカ福音書、使徒言行録とは、前後編の関係にある。主イエスの生涯と、その弟子たちによるイエスの教えの伝達、宣教の物語。
特徴は、全ての人間に対する普遍・公同の教えを強調すること
とりわけサマリヤ人に対する暖かさ(善きサマリヤ人の譬、戻ってきて感謝した皮膚病の男はサマリヤ人だったこと)、貧しい人たちへの優しさ(八福の教え、愚かな金持ち、金持ちと貧乏人のラザロの譬)、社会的に疎外されている人々、失われている人々への招き。
簡潔にいえば、ルカは、愛の福音の伝達者である。彼はユダヤ人の間では奴隷階級にされるギリシャ人。(コロサイ414、フィレモン24、Ⅱテモテ411)。
 
 ルカは、言行録169に登場するマケドニア人(ギリシャの北、フィリポを首都とする)で、以来、パウロに同行し、言行録を一人称(私、あるいは私たち)で描いている。パウロの主治医としても活躍。その医師としての視点は有益である。
 
 この第1章冒頭の部分、1~4節は、序文ではあり、献呈の辞でありますが、大事なことを含んでいます。ある学者(レングスドルフ)は、「序文においては、一つ一つのすべてが大事である」と述べておりますので、当然のことなのでしょう。
「多くの人々が手をつけている」のは、どのようなことでしょうか。当時、既に多くのイエス伝が作られていたことを告げているようです。十字架で死に、三日目に甦ったイエスのことを知りたい、教えて欲しい、と言う人が多いので、そのことを知るほどの人が語り、伝え、書き留める人が続出している、と言う状況だったようです。よく知らないで申しわけありませんが、ペトロやトマス、その他の名をつけられた福音書が存在しているようです。十二使徒の名をつければ、すべて成立するでしょう。現実には、四福音書以外のものは、神話的であり、伝説を集めたものに過ぎない、などの理由で、聖書には入れられませんでした。
 しかしルカは、その状況に満足できなかったようです。自らが知り得たことを、世に送り出したくなりました。私たちにとっては、大変幸いなことになりました。四福音書と呼ばれるようになる、この福音書を獲得できたのですから。優れた個性を持ち、ルカ独自の視点から観て、描いていることを高く評価されています。
 
 「敬愛するテオフィロさま」は、当時のローマ帝国の総督の一人の名、と考えられています。しかし、歴史上の人物と同定することには成功していません。
テオピロの名には、『神を愛する』の意味ですが、クラティステという単語が付いています。
この原型、クラティストスは、最も力強い、最強力な、最も優れた、最も高貴な、と言う意味であり、クラティステは尊称として用いられ『閣下』と訳されるのが普通です。
フランシスコ会版「尊敬するテオフィロさま」
 
ユダヤの王ヘロデの治世、始めをどこに置くかは、判断が難しい。終わりの時は明確である。紀元前4年。ここに記されることは、それ以前のことである、と分かります。
 
ザカリヤという名の祭司とその妻エリサベト。
ザカリヤは、当然アロンの血筋を受け継ぐ者。祭司はユダヤの娘との結婚を要件とされた。
なかんずく、アロンの血筋であれば、最上の理想とされる。彼は良い結婚をしています。
ザカリヤとエリサベトは、イエスの父ヨセフ同様、「正しい者」と呼ばれ、それが彼らの生活全体の根底をなしている。正しさ(義)と『善さ』とは互いに分離されない。
 
アロン系の祭司は、この時代2万人ほどいたようです。それを24の祭司団、祭司組に分け、くじで年二回程度任務に付かせます。歴代上241以下。
夫々が4から9の祭司族を含んでいます。夫々の祭司組が1週間神殿での務めを受け持ち、かつひとつの祭司族が一日の仕事を分け持つことになっていました。
歴代上2410によれば、アビヤの組の祭司団は八番目であった。
 
祭司ザカリヤは、くじによって、香をたく担当となった。しばしば大祭司自身が捧げる香りの供え物を神殿の奥にある金製の香壇へ運ぶ勤め、そして祝福の祈りを捧げることになっており、祭司たちの間で熱望された仕事でした。
 
エリサベツの不妊と同種の物語を、旧約聖書に見ることが出来ます。創世17161821(イサクの誕生)、3023(ラケル、ヨセフを与えられる)とサムエル記上1章(エルカナと妻ハンナ、サムエルの誕生)、そしてそれが如何に恥辱的なことであるかを示しています(イザヤ41)。
「その日、七人の女が一人の男にすがって、『私たちは自分のパンを食べ、自分の着物を着ます。ただ、あなたの名によって呼ばれることを許して、私たちの恥を取り除いてください』と言う。」
 
子なき女は恥を蒙る。妻のいない祭司、子のいない祭司は除籍される。
たくさんの子どもがいることは神の祝福の見える印であった。逆に子どもがいないことは、神の祝福がないことであり、呪いであった。不幸であり、罰とさえ考えられた。イザヤ41、サム上15以下。
 
 今回、ザカリヤは、祭司職の皆が熱望する任務に就くことが出来ました。ザカリヤの心には不安がありました。子どものいない者は、祭司職を続けることは許されない。これまでは、来年こそは、と言い続けて、許されてきたが、もう今年限りで除籍されるのではないか。その花道として、主が、憧れの任務に就けてくださったのではないだろうか。
胸中に喜びと、不安を抱えて、ザカリヤは、聖所の香壇前に進みました。
 
 神の言葉が、神殿で与えられる。神の救いはたまたまやって来るのではありません。それは、全身全霊をもって神に仕える者のもとにやって来るのです。
 
「恐れることはない」。神の顕現に対する人間の正しい反応は、不可解への驚きと、神の荘厳に対する恐れであろう。先ずこの恐れを取り除くことが必要です。クリスマスの中では、何回か、み使いが登場します。そしてそのたびごとに、丁寧に「恐れるな」、「恐れる必要はない」と語りかけられます。私たちにも、たいそう嬉しい言葉なのです。
 
そして、主なる神からのメッセージが伝えられます。
その第一は、老齢となり、諦めの境地に入った祭司夫妻に、なんと子供が与えられる、と言うことです。これはかつてアブラハムとサラ、エルカナとハンナなどにも与えられた驚きであり、更に喜びでした。
そして第二のメッセージがあります。産まれてくる子供に名前をつける権利は、本来父親ザカリヤにあります。神はその権利が御自分にあるとされます。その子を守り、支え、導く絶対的な権利に結びつきます。この男の子は、神の計画された務めを果たすものである、と知られます。
その名はヨハネ、『神は恵み深くありたもう』という意味です。
族長アブラハムの時代以来、顕されてきた神の恵みを、今、誕生を予言された男の子は全存在を通して告げ知らせます。恥辱に苦しみ、嘲笑を忍んできた女たちが、如何に神の恵みに与ることができたか、その存在によって知らせることが出来ます。
 
ヨハネの誕生、旧約は、同様の奇跡を書き連ねてきました。
イサク(創世記1818以下)、サムソン(士師記131以下)、サムエル(サムエル記上11以下)
 
ヨハネは、その血筋からすれば、完璧な祭司系の人です。祭司でありながら、預言者となるよう召されます。神の召命は、血筋によらず、思いによらず、ただ神の自由な意志に基づきます。その計画に従って、生きかつ死ぬことになります。人は、本来誰でも自分の思い通りではなく、神の計画によって進みます。み旨であれば、あれもしようこれもしよう、と考えるものです。能力の高い人は、自分の意志を優先させがちです。
福音を予言するヨハネは、自らの誕生において福音を受け取り、生きてきた人です。
 
さて祭司ザカリヤは、当然のように、み使いの言葉に疑いを挟みます。夫婦共に老齢の身となっている、どうして子供が産まれようか、と。その結果、子供が産まれるその日まで、彼は話すことが出来なくなります。民衆は、ザカリヤが話せないことことによって、彼が「幻を見たのだ」と知ります。神の恵みの出来事は、話すことによらず、沈黙によっても伝えることが出来るようです。話し上手だけではない、全く話すことが出来ない人にも、慰めと希望を与える出来事です。
 
ルカは、屈辱、嘲笑の中にいる人を通して、弱い立場の人、苦しんでいる人たちに神の福音を語ります。祝福から外れている、と信じそうになっている女たちに、祝福があることを語りました。やがて、この女たちにマリアが加えられます。
まず彼らの恥をすすぎ、喜びと讃美を引き出されます。しかしその終わりは、苦しみと哀しみでした。人間的な幸福を達成するものではありませんでした。そうであってもそれは、神の御旨に適う生涯である故に、祝福されていたのです。
彼女たちは、悲苦の中にあって、神の主権を証し、その福音を告げました。
福音を語る人は、自らが先ず福音を聞き、味わい、感謝と讃美に溢れています。