2012年12月9日日曜日

その日が来れば

[聖書]Ⅰコリント12631
[讃美歌21]252,241,432
[交読詩編]96:1~13
 
説教のスタイルには、さまざまなものがあります。私などは、数十年続けても、定まりません。本日は少しそれを変えて、待降節の意味を考えてみようと願いました。
 
キリスト教会は、その長い歴史の中で多くのものを生み出して来ました。
その中でも教会暦は、大変大きな意味を持つものです。
信仰生活の中に、初めと終わりを与えます。生活にメリハリが生まれます。
それは、私たちが生きているこの世界の主が父なる神である、ことを指し示します。
時間の主こそ歴史の主であることが明らかにされます。
御子である、主イエスの生涯を偲び、学ぶことが出来ます。
 
日本基督教団の聖書日課表では、次のようになっています。
待降節第一主日は、《主の来臨の希望》イザヤ215、ローマ13814、マタイ243644
詩編24110
待降節第二主日、《旧約における神の言》イザヤ591220、ローマ162527、マタイ135358、詩編96113
待降節第三主日、《先駆者》士師記13214、フィリピ449、マタイ11219
詩編11319
待降節第四主日、クリスマス礼拝になることが多い。《告知》イザヤ71014、黙示録1119126、マタイ11823、詩編46212
そして1225日・降誕日《キリストの降誕》
 
教会暦の中で、待降節の意味はどこにあるのでしょうか。
降誕は、歴史的な、時間の中への神の子の誕生です。まさに神が、歴史という時間の中に介入されたことを意味します。何故、介入されたのでしょうか?
神の創造の計画は、決定的に破壊されました。
人は、神と交わり、神を讃美するために造られました。詩編10210
 これは、創世記の記述と同様に、この眼がそれを見た、と言っているのではなく、今の時代を見るとき、このように言わざるを獲ない、と言う信仰の告白です。おそらく紀元前500年前後、バビロン捕囚とエルサレム帰還後の状況に対する、聖書記者、詩人の信仰告白です。
被造物の傲慢さは、人間を礼拝する所まで極まった。
 
さまざまな機会に、いろいろな形で警告した。預言者の言葉は、聞かれなかった。
いまや、全く新しい契約を結ばねばならない。
その時が来る、すぐそこまで来ている。その時を迎える備えの時期がアドベント。
 
1954年版讃美歌は、今に至るまで永く愛用されています。
97年に讃美歌21が発行されました。多くの学校、教会が、それを受け容れることをせず、旧讃美歌だ、古い、と言われながらも54年版を使用しています。とりわけ学校は、54年版には、学校の祝祭に使用するためのものがない、と批判を繰り返してきたにもかかわらず、これを採用することなく、拒否しています。こういう状況は、誰も語らないので、なかなか知ることもないでしょう。
 
54年版の518番、ヴァン アルスタイン作詞(ファニー クロスビー)、ご紹介。
1 いのちのきずなの 絶たるる日はあらん、
そのとききたらば  みくににのぼりて、
(おりかえし)
したしくわが主に  告げまつらまほし
『すくいをうけしは みめぐみなりき』と。
 
2 地にある幕屋の くちゆく日はあらん、
そのとききたらば  わが家にかえりて、
 
3 ともしびともして つつしみ待たばや、
   主かどにきたらば  よろこびむかえて、
 
この第3節は、十人の乙女の譬話に基づきます(マタイ25113)。一般に、再臨信仰に関する譬、として理解されます。大阪女学院に、卒業生が描いたこの情景画がありました。
なかなか立派なもので、もっと知られても良いのではないか、と感じました。
 
FJ.クロスビーは、18203月、ニューヨーク州アトナムに生まれた。生後6週間目にして、視力が失われた。彼女はいつも明るい精神を保ち、独自な生活を切り開いていった。彼女の9歳の時の詩が残されている。
「わたしはなんと幸福な人間でしょう。
わたしは見ることは出来ないけれども、
この世において不満を持ったりは 決してしないと思い定めています。
他の人々の受け得ない祝福を なんと豊かに受けていることでしょう。
盲目だからと言って泣くようなことは わたしには出来ず、決してしないでしょう。」
 
やがて、ニューヨーク州立盲学校に学び、卒業と同時に母校の教師となる。
1851年、30番街メソジスト監督教会の会員となる。58年、同僚のアレキサンダー・ヴァン・アルスタインと結婚、ヴァン・アルスタイン夫人となる。1915年、天寿を全うする。この間8000編に上る聖歌を作る。内3000編以上は日曜学校用に作られた。
 ファニー・クロスビーが作った詩の多くは、ムーディが主宰し、アイラ・サンキーが音楽を担当した伝道集会で用いられた。大会衆によって謳われ、成果を挙げた。
九十九の羊(Ⅱ183)は、クレファンの詩にサンキーが曲をつけたもの。クレファンは、「十字架のもとに」(新300、旧262)を書いている。
 
54年讃美歌は、ドイツ・コラールの流れと英国から米国に渡った讃美歌の流れが中心のようですが、もうひとつの流れがあります。それは19世紀英米のリヴァイバル運動の伝道活動から生まれた讃美歌です。
この第三部分は、日本の教会音楽家の大部分から白眼視されています。そのため讃美歌21では、その数を減らされました。そして、各教派が各自の讃美歌集を発行するようになり、かねてより企画のあった聖書の刊行(新改訳、契約、等)にも影響を与えました。教団出版局は自己責任としても、聖書協会には申し訳ないことです。
説教者ムーディ、音楽家サンキーなどがその主要な活動家。その伝道用讃美歌は『福音唱歌』ゴスペルソング、と呼ばれました。福音を簡潔な言葉で謳い、同じ言葉を繰り返し歌うように工夫されました。大衆が歌う讃美歌、運動用のもの、情緒的である、として教会音楽家の間では、低い評価しか与えられませんでした。今の新しい讃美歌21では、かなり追放されました。奇跡的に残されたものは、474わが身の望みは、461み恵みゆたけき、522キリストにはかえられません、まだまだあるでしょう。
 
私たちに深い影響を与え、つい口ずさむような歌を忘れずに、謳い続けてはいけないのでしょうか。厚別教会は、讃美歌21への移行を決定されました。長い時間がたっています。
平行して、古い讃美歌を歌うことは許されるでしょうか。プリントを造ってでも、ご一緒に謳いたい、と私は考え、願っています。
 
518の原詩訳  Some day the silver cord will break   12節のみ)竹内信訳
いつの日にか白銀の紐が切れるとき  わたしはもはや今のようには歌わない
しかし、王なる神の宮殿のうちに  目覚めた時の喜びはどんなでしょう
そのとき顔と顔と合わせて神を見  恵みによって救われたわが身の物語を致しましょう
 
いつの日にか地上の家は倒れるでしょう  それがいつのことか私は知りません
しかし、知っていることは、すべてのすべてなる神が
天上にわたしの場所を備えていて下さることです
いつの日にか黄金色に輝く太陽が  バラ色に染められた西空に褪せゆくとき
恵みの主は「よくやった」と言われて   わたしは休息に入るでしょう
 
コリント教会への手紙は、異邦人の使徒、異邦人伝道のチャンピオンと呼ばれたパウロが書いたものです。商業で知られたギリシャの都市、東のエーゲ海と西にアドリア海を結ぶ地峡を扼する町、大変繁栄していました。その名を挙げられているガリオンは、ストア派の哲学者セネカの兄で、彼が紀元5152年にこの地の総督であったことは、碑文によって確認されています。パウロは、ここで1年半または2年半の間伝道したようです。
パウロが、コリントのエーゲ海を挟んだ対岸エフェソにいたとき、この手紙を書いたようです。結婚問題、供え物の肉のこと、主の晩餐に関すること、エルサレム教会のための募金に関して、その他多くの問題について答えようとしています。
 
知恵・知識、この世の地位を重んじるコリントの人々に対し、神は無学・無力な者、取るに足りない者たちを選び、招かれた、と語ります。「それは誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」129
 
私たち自身、まことに取るに足りないものであり、無知・無力だからこそ神により招かれたことを知る時です。私たちは、そうしたことを恥ずかしいことのように考えてはいないでしょうか。自分が如何に知恵や力に富んでいるか、示そうとしてはいないでしょうか。
父なる神は、世の愚かな者、低い者を救うために、御独り子をこの地上の最も卑しい所に下されました。この御子イエスの降誕を待ち望むのがアドベントです。
 
本日の聖書と説教題がどこから来たのか、自分では分からなくなっています。いい加減に選んだはずはありません。直感的なものだったのでしょう。またその連想によって、決められた、と思います。
キリスト降誕を待つ、招かれる時が来る、その時を待つ、こうした連想、脈絡の中で讃美歌518番が浮かびました。「その時来たらば」、これは、私たちが御国へ招かれる時でもあります。中世の修道院では、「メメント・モリ」とその壁に書かれているそうです。「汝、死すべきを覚えよ」。人はみな、死に向かって生きています。日常坐臥の間、常に死すべきことを憶えよと言うわけです。東日本大震災や笹子トンネル事故を経験すれば、なるほどと納得するでしょう。ヴァン・アルスタイン夫人は、死の時は御国へ旅立つ時、主にお目にかかる時、との信仰でした。
 
待降節は、御子イエスの御降誕を待ち望む時である、と同時にこのように多くの事柄に関わる信仰の意味を明らかにするものです。
主イエスは、時間の主、歴史の主であり、世界の主、生と死を定める命の主、これらのことを覚えるときがアドベントです。