2012年11月4日日曜日

祝福を受け継ぐために

[聖書]Ⅰペトロ3816
[讃美歌21]200,17,377,224、
[交読詩編]51:3~11、
 
前主日は、妻と夫に対する教えでした。
これは、以前は、キリスト教結婚式の折、夫婦に関する聖書の教え、としてよく読まれたものです。60年代に、内容が封建的だ、夫婦の関係が対等でない,夫唱婦随的であるなどの批判が大きくなり,次第に読まれなくなりました。それでも「どうしようか」お尋ねすると、読んで欲しい、と希望する若いお嬢さんが居られました。そういう方でも我慢できないことがあったようです。今は、分かれてしまいました。
素直な人でも、真面目なかたでも、それだけでは二人が生活するのは難しいのでしょう。
 
 さて本日もまた、牧者である方のもとに立ち返り、どのような生活をするのか、教えられます。同じ牧者のもとにいるなら、同じ心で、ひとつ思いになることが求められます。同情、愛、憐れみを相互のものにしなさい。何よりも謙遜が語られます。
傲慢ではなく、自分自身よりも他人をより貴とする謙遜が、兄弟愛の交わりを支配する原則です。
フィリピ23では、パウロが、語ります。
『何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れたものと考えて・・・』。へりくだって、とあるのは、謙遜ということです。
パウロもペトロも同じように謙遜を大切にするように教えます。素直になれることもあり、素直になれる相手もいます。
 
現実の場合、相手を優れていると認めたくない相手のほうが多いのではないでしょうか。いつも自分をひけらかし、押し付けがましく、はなはだしくは、謙遜であることを見せ付けるような相手。どれほど肩書きがあろうが、資産があろうが、学歴、業績、血筋に優れていようが、決して頭を下げたくはならない相手がいるものです。そこで私たちは、悩むのが普通です。悩むべきでしょう。でもそこそこにしましょう。相手を優れていると認めたくないようなことが多いことを知って、二人とも、このように教え、勧めるのです。
 
確かに、この勧めは、世の中一般の考えとは、正反対です。私たちの普通の考え方は、どのようなものでしょうか。幼稚園に入ったばかりの子ども、小学生、中学生、よく見ていると、やられたらやり返せ、やられっぱなしはダメだぞ、という親たちの言葉が聞こえてくるように感じます。これが、社会で普通行われている考え方です。自分の力を見せ付けろ、相手よりも自分のほうが上だということを示せ、力で押さえつけろ。
教会は、これとは異なる法則と尺度を通用するようにしようとします。キリスト者は、
受けた不正の故に、霊的新生、魂の牧者のもとに立ち返った者、に矛盾する行動に引きずられてはなりません。
「罵られても罵り返さず、苦しめられても人を脅さず・・・」(223)。
 
復讐の禁止は(すでに箴言1713、スラブ語エノク504)、初代のキリスト者にとって、決定的規範となりました(ローマ1217,)。
「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。」(Ⅰテサロニケ515
 
キリスト・イエスは、ただお一人、罪を犯されなかったが、極悪の罪びととして、十字架につけられました。信じる者たちは、この御足の跡を踏み従う者です。そうするならば、未来の救いに与るときに、神の祝福を受け継ぐことになるでしょう。
 
この手紙を書いた人・ペトロは、かなり旧約聖書に通じています。手元において、そこから書き写す、という形ではなく、手元にないものを自由な形で引用することができます。
ユダヤ人は幼少時から、会堂学校で聖書をテキストにして読み書きを学んだようです。寺子屋教育と似ています。ペトロも一家を率いる者になるように教育を受けたのでしょう。
 
1012節で、詩編341317を引用します。
詩編341215(新共同訳)
「子らよ、私に聞き従え。主を畏れることを教えよう。喜びをもって生き、長生きして幸いを見ようと望む者は、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、 悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよ」。
この詩編は、自分で自分自身を支配するものだけが、静かで、平和な生活を送ることができる、としています。余り、前段の思想を証明することに成功しているとは言えません。
 
ペトロは、未来の救いに与ろうと欲するものは、悪を避け善を行い、その行動において人々の間に平和を作り出すべく寄与しなければならない。そのためには自分に与えられている権利の放棄にまでも至るべきだ、と勧めています。
 
 
ペトロの時代、キリストを信じる者に対するいわれなき誹謗・中傷、名誉の毀損、は際限のないものがありました。身体、財産に対する攻撃となり、損傷を与え、社会的に葬ろうとするものでした。
 
その頃、倫理的に正しい生活をすることが、必ず良い結果を生むとは限らなかったのです。キリストを信じ、正しい生活をすることによって、かえつて苦難を経験することが多い時代でした。それゆえにこそ、ペトロもパウロも同じように勧め、教えるのです。
悪に負けるな、善をもって悪に打ち勝て。復讐するは神にあり(ローマ1219)。
義のために苦しむ義人は幸いである。マタイ51012
「義のために迫害される人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。私のために罵られ、迫害され、実に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるときあなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」
 
苦難に関しては、いろいろな考えがあります。何故、どこから、どのように、何時、何時まで、どれほどの大きさで、などなど。
それ以上に問われてきたのは、苦難の意味です。悪いことは何もしていないのに、何故?この苦難にどのような意味があるというのか。旧約聖書のヨブ記は、『神義論』が主題である、と言われます。普通には、苦難の意味に関する論議、と理解されるでしょう。1章から3章に、天地創造と反対に、天地が崩れるかと思えるような苦難が、次々とヨブを襲います。
現代的には、原因不明の病気もあげられるでしょう。
 
苦難は、信仰を試して、完全に本物にするためのもの。信仰は金と同じである。火によって純粋性が試され、精錬される。
信仰への召命は、同時に苦難への召命を意味します。
「ブドウの枝の覚悟」を思い出します。
 
111日の幼稚園教師の勉強会がありました、ヨハネ155が主題です。
『わたしたちは、ぶどうの木、あなた方はその枝である。』
用意した印刷物の一部に次のようなことを書きました。
「教会も、信ずる者たちも、自分たちは主イエスを幹とするその枝であると主張する。
切り落とされる覚悟はあるのだろうか。
今、厚別の街路樹は枝落しがされている。それによって木そのものが生かされる。
切り落とされ、死ぬことによって自らも生きることになる。イエスの言葉を内側に持っていることにより、イエスとつながるものとなる。豊かに実を結ぶ。生きる。弟子となる。
父なる神は、御子イエスを愛された。それと同様、私もあなた方を愛した。この愛のうちにいること、とどまることにより、枝のつながりとなる。」
 
実を結ばない枝は、切り取られ、棄てられ、焼かれる、と考えてきたでしょう。じつはそれだけではありません。役割を果たした枝も、幹を更に生かすために切られ、焼かれるのです。またその枝自体も、焼かれることで生かされます。肥料となることで生きて、他のものを活かします。枝打ちの効能は、梅の木で知ることができます。徒長枝を切り、風通しが良くなると、たくさんの花が付き、実が生ります。
 
私たちが、徒長枝であっても、実を付ける役割を果たした枝であっても、切られ焼かれます。何も悪いことはしていないのに。私たちを活かすために苦しみが与えられます。
 
この苦しみは、キリストの苦難に参与することであり、栄光への参与も保証されます。
信仰への召命は、イエスの御足のあとを踏み行くことであり、そのように生活を形成する
ことがその務めなのです。
全世界の主にある兄弟との結びつきは、苦難を分かち合うことにより、更に深くされます。
このことは、信徒にとって大きな喜びであり、慰めとなり、力の源泉となるでしょう。
 
 更にペトロは、語ります。
信仰者は説明責任を果たさねばならない、と。自分の信仰、その行動を説明することはで
きるだろうか。しなければなりません。優しく、判りやすく、慎み深くなされるべきです。
相手の態度を見て、自分の態度をそれに合わせるなら、確実に失敗します。大きな声で、
威圧的に語る相手に対して、同じようにして御覧なさい。確かに相手は黙ります。それは
怒りを秘めた沈黙です。それ以降、静かになりますが、陰険な方法に変わります。大きな
声や、威圧的な態度は、恐れていることを隠そうとしているのです。弱虫、臆病の徴です。
同じ態度で対応しようとしてはなりません。本当に勇気ある人は、穏やかに、静かに語る
ことができます。
 
あくまでも、忍耐強く、穏やかに説明すべきです。
 
本来、信仰は、言葉によっては説明できない部分を持ちます。
信仰者は、自分の生活を見てください、と言うことが許されます。生活、行動も言葉の一
種です。沈黙という言語。これなら、私たちにもできる。
あらゆる言語を動員して、主の憐れみを語り伝えて参りましょう。