2013年1月13日日曜日

長老たちへの勧告

[聖書]Ⅰペトロ5:1~7
讃美歌21]544,11,475
交読詩編]2112
 
ペトロの、長老たちへの勧告を見ましょう。
1節の言葉は、11とは違った形の、使徒ペトロの、自己紹介と言えるでしょう。ペトロは十二人の者たちの一人、同時に長老たちの一人を自認、更に主のご受難の、証人の一人であると自覚しています。ここに、教会における長老とは何か、ということが示されています。歳老いたるものである、と同時に、受難の証人であることが強調されます。
 
2節では、長老には、羊が委ねられているから、その群れを牧しなさい、と勧められる。
牧する、群れを導き、守り、養い、そのために闘う。詩編23編と共に、エゼキエル書34章をお読みくださるよう、お願いします。
とりわけ、そのことを強制と考えず、自発の意志に基づき、利得のためではなく、献身的に、行うようにとペトロは語ります。
 
3節では、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範となりなさい、と勧めます。率先垂範が勧められ、求められます。当然、仕えることでしょう。
 
4節は、このことの結実・結果を見せてくれます。「しぼむことのない栄冠を受けることになる」。6節に繰り返されます。「そのときには、高めていただける」。
月桂樹の葉で作られた月桂冠、あるいは花冠がイメージされているのでしょう。
 
5節では、若い人たちに、長老に従うように、と勧めています。
これは、ソロモンの死後、後継のレハブアムが、年長の者たちの助言を退け、自分と一緒に育ち、自分に仕えている若者たちの言葉を喜んだことを思い出させられます。この結果、北10部族は、ヤロブアムを王に戴き、ダビデ・ソロモンの王国は南北に分裂することになります。列王記上12619
 
この節は直ちに、皆の者たちへの勧告へ進みます。誰もが、謙遜でいるように、語られます。「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」低くすること、謙遜とは、私たち全ての者が、神の前の自分を弁えることです。誰も誇ることは出来ません。
互いに他を自分よりも優れたもの、とするようになります。
 
7節では、「思い煩うな」と語ります。難しいですね。理性の時代を生きる近代人は、自主の人間であるように教育されてきました。神を従わせることも視野にあります。委ねるよりも、自己責任を果たせ。これが現代日本の要求です。多くの者が心の病気になりました。学校の教員もまた、その影響を大きく受けています。希望を持って、神の御手に委ねることが重要です。
 
これらの勧告を聞く長老たち、一体どういう人たちでしょうか。プレスブテロスの複数形が用いられています、古代諸民族の中の長老は、町のうちの年老いたる者で、彼らは町の入り口、その門の柱の下に座し、人々の訴えに耳を傾け、その間の争いを調停しました。
イギリスの陸軍士官、民族学研究家でもあったロレンスという人、彼は第一次世界大戦時、アラビアの遊牧部族の中で生活しました。その経験を、『知恵の七柱』と言う題の書物にまとめました。平凡社の東洋文庫から三分冊になって刊行されています。
砂漠の遊牧民の間では、複雑な人間関係、利害得失を調停するのは、今でも部族の長老たちのようです。
 
聖書の中では、出エジプト後のモーセが、一人で重荷を担って苦しんでいるのを見た舅エテロが、長老に任せるべきことがある、と教えました(出エジプト181327)。民数111630、主の言葉がモーセに臨み、彼は70人の長老を集め、モーセの上にある霊を分け与えられ、彼らはモーセと共に「民の重荷を負い、モーセがただ一人で、それを負うことのないように」した。
それ以外でも、預言者の友人である長老(列王下632)、王に忠告する長老(列王上2082111)、町や村の門で裁きを行う長老(申命257、ルツ42)。
彼らは、シナゴーグの管理者、政事や秩序に留意し、会員訓練を行った。
長老は、サンヘドリン(ユダヤの最高会議)でかなりの数を占めている。
 
使徒言行録15章、エルサレム会議では、アンテオキヤのパウロ、バルナバ他数人の者が、使徒たちや長老たちと協議しています。
パウロのミレトの別れは有名であるが、彼はエフェソ教会の長老たちを呼び寄せ、訣別の説教を行いました(使徒202829)。
長老は、神の羊の群れの監督者である、とパウロは語ります(使徒2028)。
長老は、祈りと塗油によって癒しの働きを行いました(ヤコブ514)。
 
第四福音書では、少し違う形でプレスブテロスが用いられています。
ヨハネ89で、「年長の者」、と訳されています。
「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」
ある時、『歳を重ねることは、罪を重ねること』と説教しました。「なんという無礼なことを言うか」と怒った方が居られます。ご自分が、正しく、間違いがなく、無罪である、と確信している年長の人です。親から伝えられた信仰者ですが、福音が、聖書が解かっていない、と感じました。
 
 現代の教会において、長老とは、どのようなものでしょうか。二冊の書物を調べてみましょう。
教会役員ハンドブック』があります。これは楠本史郎牧師(若草教会前任、北陸学院院長・理事長)が、教団出版局の求めに応じて書いたもの。2007年初版発行。楠本牧師は長老主義の立場に立ちます。26ページで次のように書きます。
「役員会が目指すのは、教会が主の御心に従う群れとなることです。」
 
教会と長老』、竹森満佐一教授(後・学長、吉祥寺教会牧師)が、19768年、名古屋で語られた三回の講演の記録。東神大ハンドブックの一冊(24番)、1985年刊行された。
 
教会の政治制度は、監督、長老、会衆の三つが主要である、としています。著者の立場は、長老主義です。現実には、長い歴史の中で中間的な形も生まれています。また互いの間に、他を認めないような非寛容、独善も生まれています。いずれも、御言葉による改革を承認しながら、自分たちの制度が最善である、と主張します。どこの世界・領域でも、自己主張するものです。そこでは、常に自分の正しさに確信を持ちながら、それでもなお幾分かでも間違いがあり得ることを承知し、他の主張を受け容れる柔軟さが求められます。
 
私自身は、長老主義、監督主義(メソジスト)、会衆主義を経験してきました。夫々、一長一短があります。母教会は、フリーメソジスト教会。名誉牧師は、教団合同時、その教派で最後の監督。
 
竹森先生は、81ページ以下で長老主義について説明しています。
教会を、具体的にキリストのからだにするために、どの制度が良いか、キリストの権威、キリストの御心が表れるためにどのような制度が良いか。
英国の監督制度は、特別な賜物を与えられた教職の集団、その一番上にある人が監督であり、この人の指導に従う、とするものです。
 
会衆主義は、これとは反対に、全体・会衆の意見が反映するようにしたほうが良い、と言う考えです。一人一人が賜物を与えられ、保持しているという考えに基づきます。
牧師職は、先ずその教会の信徒として認め、受け入れる。次いでその人を説教者、牧会者として認める、となります。
私と同世代の同志社出身の有名な牧師が、あるとき、こんなことを言いました。
「先ず、その教会の信徒として認められ、それから説教者として認められ、受け入れられるのだから、とってもやり難いよ。」
本日の週報に、柴田作次郎牧師が亡くなられたことが記載されています。
「隠退教師、現在は、小樽公園通り教会員」とあります。教職の籍は教区にある、というのが教団の考えです。北海教区は、教憲、教規を棄て、会衆制を取ったようです。
 
長老主義は、教会員の中から、信仰と生活において優れた人を選び、「その人たちが、教会におけるキリストの御心を明らかにする役目をする」、という考えです。ここでは、教会の憲法、規則と長老会議が、中心です。
明治の頃、横浜指路教会へ、国会の調査団が来たそうです。長老会の運営振りから、国会の議事運営を学ぶためだったそうです。教会は、キリストの御心を知ろうとして、議事を運営します。天皇主権の下、帝国議会は何を知ろうとするのでしょうか。国民主権の名による国会は、何を知ろうとしているでしょうか。政争の場に過ぎない、と言われていますが、反論はあるのでしょうか。
 
 最後に勧める・勧奨する、について考えましょう。
1節には、勧める、とありました。ギリシャ語でパラカロー、
「勧告する」、高圧的、強制的な感じに受け取られることが多いのではないでしょうか。
パラ は、前置詞で、「側に」を現す。非人格名詞と共に用いられて、側まで移動して来ることを示す。
カロー(カレオー) は、呼ぶことを意味する動詞。合して側へ、こちらへ呼び寄せることを指す語である。①呼び寄せる、願う、祈る。②勧める、奨励する、励ます。③慰める、なだめる、わびる。
名詞形は、パラクレーシス、①(側へ助けに呼び寄せること)訴え、懇願。②奨励、勧め、激励。③慰め、慰めること、ルカ225では、メシアの来臨の意味で用いられている。
同じ語源からパラクレートス、①(側へ助けのために呼び寄せられた者、支持・弁護のため呼ばれて来ている者)支持者、弁護人、弁解者、②NTでは、断罪する者に対して罪人の側に立って弁護してくださるキリストおよび聖霊についてこの語が用いられる。「助け主」と訳される。
 
従って、新約聖書の中で、勧告がなされたり、言葉が用いられたりする時、高圧、強制、強要の感じは薄いと考えるべきでしょう。むしろ、懇願、要請、懇請、の性格が強い、とわたしは考えます。その故に、祈りつつお願いする、形になるのではないでしょうか。
パウロの書簡でも同じことが言えます。慰めようとする祈りを感じます。多くの勧め、勧告は、慰めと助力の祈りでした。感謝しましょう。