2013年1月6日日曜日

神を崇めなさい

聖書]Ⅰペトロ41219
讃美歌21]280,367
[交読詩編]97:1~12、
 
 
本日は、教会暦では顕現日、小クリスマス、古いクリスマス、三王の日、十二夜、エピファニーと呼ばれます。教会では、この日までは、クリスマスを祝うもの、としてきました。クランツやリース、クリスマスツリーなどの飾りも、この夕刻までに取り払います。
長い準備期間に相応しい喜び祝う期間、と考えます。
 
クリスマス物語は、四福音書のうち二つだけに見られます。
ルカは、祭司ザカリヤへの告知、妻エリサベトへのお告げ、ヨハネの誕生を導入部としています。そして、マリア、ヨセフへのお告げ、マリアの賛歌、イエスの誕生、と続く。
その後は、羊飼いたちの礼拝、天軍讃美となります。嘲笑され、弱く、貧しく、力ないものたちの姿が多く見られます。
 
マタイは、先ず系図そして、インマヌエルの主イエス誕生です。名をつけるのは、父親の権利のはずですが、神が名を決め、与えます。それから、大きな星に導かれた博士たちの礼拝、聖家族のエジプト下り、ベツレヘムの虐殺、ヘロデの死と続きます。権威、権力ある者たち、知恵に富み、財を有する者たちが登場します。
 
 四番目の福音書では、その冒頭に有名なロゴス・キリスト論が展開されています。これが、福音書記者ヨハネの降誕物語です。
 
 福音書以外にも降誕物語を見出すことができます。パウロ書簡にあるので注目されます。
ガラテヤ4:4がそれです。
『しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。』
短いけれど、確かに降誕の記事であることが分かります。
 
多彩な降誕物語のうちで、顕現祭に関わるのは、主として、マタイ福音書です。
この日、1月6日は、クリスマスから12日目。教会では大切なお祝いの日です。
この同じ日に、キリストが神であることを証明する三つの出来事があった、と考えられています。
第一は、三博士の礼拝。マタイ2711、大きな星に導かれ、飼い葉桶の嬰児を拝し、黄金、乳香、没薬を捧げた。マタイ独自資料
第二は、天上からの声によってキリストが受洗し、彼が神である事が確認されたこと。
マタイ31317、マルコ1911、ルカ32122、三福音書共通資料
第三は、ガリラヤのカナで行われた婚宴でイエスが最初の奇跡を行われたこと(水をぶどう酒に変えられた)。ヨハネ2111、ヨハネ独自資料
『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。』
 
古くは、東方教会は、16日を降誕節としてきました。西方教会と交流が出来た時、異なるクリスマスの日付について協議されました。その結果、現在の形が決められました。
両教会が共に、1225日はクリスマス、16日を公現日、として守る。教会の祝祭日の交換として記憶されています。
詳細は、オスカー・クルマン『クリスマスの起源』教文館1996年刊、参照
 
 
ペトロの時代、多くの人は、故郷であり、神から与えられたカナンの地に住むことが出来ました。しかし、何の不平不満のない生活というわけではありません。イスラエルの国を称してはいても、王として統治するのは、イドマヤ人(エドムのギリシャ語読み)ヘロデの家の者たちです。彼らは、ヤコブ・イスラエルではなく、エサウの子孫です。
イスラエルの血筋を誇る人々は、ダビデ王家の支配を切望していました。
神の掟を守り、正しく生きているのに、何故イスラエル人ではないイドマヤ人の支配を受けなくてはならないのか?
ローマの支配を受け、皇帝を神として崇める、何故?
 
しかもヘロデ大王は、ローマの将軍オクタヴィアヌス(後のアウグストゥス帝)と親しくなり、ユダヤの統治権を確保しました。ヘロデ大王の死後、息子たちが分割領を統治、ローマの支配構造は変化しませんでした。総督と軍団が駐屯し、税を徴収し、皇帝礼拝を求める。ユダヤの民は、ローマ皇帝のため、ヘロデ王家のため、徴税人たちのため税を納めなければならなかったのです。
近々50年前まで、多くの国々で、その国民は、外国勢力の支配下に置かれ、誇りを傷つけられ、財産や人間を、命を奪い取られ、悲惨な生活を余儀なくされていました。
 
かつて、アフガニスタンに関心を寄せたことがあります。そのきっかけは他愛もないことです。飼い犬のことでした。青年時代の我が家は、イギリス原産のコリーと、デンマーク産のグレートデンを飼っていました。どちらも大変賢く、おとなしい犬でした。訓練士に教えられました。犬は誇りを持っているから、それを大事にしてやらないと飼う事は出来ない、ということでした。興味と関心が湧き、犬の雑誌も読むようになりました。
 
ロシアのボルゾイ種、アフガニスタンのアフガンハウンド、これらはその容姿や気質が貴族的であり、誇りに満ちている、とありました。夫々の貴族の抱いている高い誇りと関連しているようです。アフガニスタンに関して知ることは少ないのですが、その国民は基本的に戦士であり、独立不羈の精神を持っている、と聞きました。
ソ連が支配しようとしました。今はアメリカが自立を支援すると言っています。誇り高いアフガンの戦士たちが喜ぶはずはありません。ユダヤ人たちも同じです。どのような口実をつけても、外国の勢力が決定的な力を持って国内に居続けることを喜ぶはずはありません。
 
南の民族は、おおむね解放的、友好的です。そのため多くの民族が滅ぼされました。
北の民族は閉鎖的、好戦的なことが多いようです。防衛本能が発達している、と言うべきかもしれません。
飼う者と飼われるものの間には、精神的な深い交流があるようです。誇り高い人間は、誇り高い犬を産出し、その主人となります。誇りのない人間は、誇り高い犬にえさを与えることは出来ても、その主人になることは出来ません。犬だけではありません。馬や駱駝も、人間と深い関わりを持ってきました。
 
未開の野蛮人のように言われる民族、犬畜生と言われる犬、にもかかわらず高い誇りを持っているのです。にもかかわらず、近代国家は、他の国、民族の誇りを傷つけ、当然の権利を奪い、生きることすら困難なことに変えてきました。
 
ペトロは、一般論的な民族の気質などに関心を寄せません。更に幸福論などとも無関係です。この手紙の中で展開されているのは、キリストの名によって歩むことです。それは、いわゆる国家安泰、家内安全、商売繁盛を保障するものではありません。ペトロは、信仰生活の歓迎できない現実を知っています。それを隠さずに語ります。
 
身に降りかかる火のような試練を受ける人が居ます。
神の御心によって苦しみを受ける人もいます。
善い行いをし続け、創造主に魂を委ねる人がいます。
 
それだからといって安心できるものではありません。
ルカ121321「愚かな金持ち」の譬
人の命は財産によってどうすることも出来ないからである
「自分の魂を委ねなさい」
 
ある時、その街に住みながら、東京の日本基督教会へ通うクリスチャンが訪ねてきました。ふだんのお付き合いはありませんが、お名前は聞いていました。御挨拶し、求めに応じて、庭先で立ち話。その方は、牧師に抗議しに来た、と言われます。
「この日本で、神と言っているのはけしからん。日本の神々と混同する。他の呼称を用いるべきだ。」と言われました。「ご尤もなことです、適切な呼び方があれば、御教示いただきたい」、と答えてお引取り頂きました。こんなことは、初めてのことではありません。牧師なら誰でも、考えたことがあり、悩まされた覚えがあるはずのことです。神学校でも、提議され、討議されたことがあります。
 同じ言葉を用いなければ、宣教は出来ない。積極論
 内容を語ることで分別するべきだ。現実論
 創造の神、啓示の神、などの呼び方を。技術論
決定的な解答は得られませんでした。見付かるようなら、もっと早い時代に変えられていたでしょう。
 
 八百万の神々を信じるこの国の中で、ただ一人の神を信じること、それを語ることは、大変大きな困難を伴います。しかし、このことは、この時代、この国特有の困難と考えてはなりません。いつの時代でも、私たちは、自分だけが、このような苦難にあっている、苦しんでいる、と考えやすいものです。本当は、他の時代、ほかの国、民族の中に、もっと大きな苦難が存在したのです。
はじめの教会が礼拝を守り、伝道に励もう、としたその時、その所で同様のことが起きていました。ペトロ、パウロ、福音書記者たち、多少のずれはあっても同じローマ帝国の時代、ローマ皇帝の統治下にありました。そして文化的には、ギリシャ・ローマ文化と総称される時代です。宗教的にもギリシャ・ローマ神話の時代でした。皇帝を神話の神々の列に加えようとしました。優れた業績を誇り、権力と財力を思うままにした強大な皇帝は、神として受け入れられました。目障りになるものがありました。
帝国の辺境に生まれ、十字架にかけられて死んだ男が、神として崇められている。
日本も同様に八百万の神々を信じ、礼拝し、祭っていました。神々の意思を尋ね、その導きに従っていたのです。自分中心な、身勝手なご都合主義で神を選び、崇めるのがこの国の神礼拝。その象徴が初詣です。
詳細に論ずるならば、ギリシャ・ローマ神話の神々と日本の神々とは違います。近世までの日本では、人間、祖先の神格化は、たたりを及ぼさないようにその御霊を鎮める、鎮魂の性格でした。その後は、祖先のすべてを神とし崇め、子孫繁栄を守らせる性格となりました。死して護国の鬼とならん、などと言われるようになったものです。神道の結婚式は、何方も経験がおありかと存じます。神官が祝詞奏上、として読み上げる文章は、単なる祖先の神々への御報告と守護祈願に過ぎません。
 
ペトロは、神々が信じられる世界で、唯一の神を信じる者は、その救いすら、創造の神に委ねなさい、と教えます。自分の業績も家柄も、何ら誇ることはできないのです。命と救いは、ただ神の御意志の内にあります。委ねることを求められます。