2013年1月27日日曜日

平和があるように

[聖書]Ⅰペトロ5814
[讃美歌21];544,289,504、
[交読詩編]119916
 
ペトロの手紙も最後の部分になりました。概説部分をもう一度考えます。
誰が書いたか、という問題です。
 
伝統的な考えは、十二使徒の一人、筆頭格、後に初代ローマ教皇とみなされたペトロによるもの、とします。この考えの底には、異教徒の大使徒と呼ばれる伝道者パウロへの対抗意識があるように感じられます。パウロはたくさんの手紙を残しました。現在に至るまで、多くのキリスト教徒の信仰と生活を導き、支えてきました。一方、早い時期からローマ教会の指導者と目されてきたペトロには、文書がなく、教会、信徒を指導する原理が分からない、という状況があったと推測されます。第二、第三世代の指導者たちは、ペトロの名による原理を、文書の形で残す必要を感じたものでしょう。
 
もうひとつの考えは、パウロの文書に対抗できる文書を作る必要があった、という推測です。その証拠を使徒言行録に見出そうとします。この文書は、その中で、ペトロとパウロの間に、微妙なバランスを生み出そうとしていることが知られています。説教の回数、その分量、奇跡の回数とその質、などです。重要なことにおいて、教皇ペトロが決してパウロに劣ることがない様に見せる。これが後世の聖書編集者の意図だったようです。
 
書かれた時期は、伝統的には、紀元64年、皇帝ネロの名で知られるローマの大火と最初のキリスト教徒への迫害。ペトロは、このとき殉教しているので、それ以前に書かれたもの、という考えです。
 
それに対して、後の人たちが、ペトロの名を借りて書いたものとするなら、おそらく紀元70年まで、と考えます。この年、帝国の東の辺境レバンテ地方パレスティナでは、ユダヤ人の反乱があり、将軍ティトゥス・フラヴィウスが司令官として鎮圧に向かいます。間もなく彼は、ネロ皇帝の後継者に選ばれ、ローマに向かいます。エルサレム攻略の総司令官には、息子のティトウスを任じました。これまで共に軍団の指揮をとってきた最適任者です。父子で練り上げた戦略を生かし、見事エルサレムと最後の要塞マサダを陥落させます。ユダヤ人の生き残りは、奴隷にしたもの以外は、追放です。
 
これは、ペトロたちユダヤ人にとっては大事件です。エルサレム崩壊に関する態度・考えを語るはずです。何も触れられていないので、この手紙は、それ以前に書かれたものと考えられます。
 
こうしたことを踏まえながら、おおよそ伝統に従う形で、書いた人の名をペトロとしてきました。時間的にも僅か56年から10年の差です。
 
どちらでも良いことかもしれません。それでも、これらのことが意味を持っている、と考えています。紀元60年から70年にかけての時代、ローマ帝国は、カエサル家の者たちが、帝位を継承して来ました。しかし、それもこの時代までであり、ネロの死後は、有力な将軍が、その支配下に置いた軍団の力によって帝位に就くようになりました。
 
アウグストウス帝6327BC、~14AD  (ネロまで五代、ユリウス朝)
ティベリウス帝AD1437、カリグラ帝3741
クラウディゥス帝4154
ネロ帝375468、  (簒奪者)ガルバ、オットー、ウィテリゥス、
ヴェスパシアヌス6979、   (ここから三代は、フラヴィウス朝)
ティトウス7981
ドミティアヌス8196
五賢帝時代・ローマの平和、ネルヴァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、
アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリゥス
 
アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの甥、オクタヴィアヌスが皇帝になってからの名です。この名そのものが、尊厳なる者、という意味を持ちます。彼は、およそ200年間に渉る平和の時代を切り開いた、として傑出したローマ人、と呼ばれています。しかしそれは、ローマ帝国の平和でした。五賢帝時代もその中にあり、もっと長い平和時代と称されました。パックス・ロマーナ
 
しかし、この時代の異民族国家、異教徒にとって、本当に平和だったのでしょうか。
ローマ帝国を平和にするために、異民族を出来るだけ遠くに置くようにしよう。
ローマ帝国の平和は、異民族の服属が必要でした。ローマにとっての異民族は、弱小の蛮族として、服従することが求められました。民族自立、民族の誇りも捨てなければなりませんでした。決して平和ではありません。いつに変わらぬ困難の時代。
 
 この手紙を書いたとされるペトロは、本来ユダヤ人です。60年代に書いた、とするなら、
ユダヤ独立に向けた闘争のさなか、帝国中でユダヤ人排斥が起こっている、と考えられます。またそれ以後であれば、独立戦争に敗れ、ユダヤ人は全地に追放され、放浪者となっています。流浪の民の状況は、変わることなく、20世紀半ばを迎えました。
 
ペトロは、苦難には意味がある、と言います。苦難は、人を完全なものにする、強くする、力付ける、揺らぐことのない、不動のものとすることができます。
私たちは、自分が決して完全なものではないことを知っています。もし完全なものになることが出来るなら、その機会を掴もうとするでしょう。
自分の弱さも知っています。周囲の人たちの眼が気になる、囁かれる言葉によって動揺する。確固たる自分を打ち立てることが出来るなら、どれほどか嬉しいことでしょう。
 
ペトロは、このところで似たような言葉を重ねて語っています。無意味な重複に過ぎない、ペトロの文章の未熟さの表れ、と批判する人も居ます。繰り返しは悪いのでしょうか。
私は、これはこれでよろしいと感じます。ペトロは自分自身の経験として、人間的な弱さを知っています。自分が如何に弱い人間であるか、動揺しやすいか、人の言葉によって明らかにしてきました。なんとしても自己を確立したい、と願ってきました。このような自己の確立にかかわる言葉を繰り返したのです。言葉を変えて、同じことを伝えているのです。
 マタイ162217426362675、その他参照
 
12節を読みましょう。「シルワノによって」、ディア シルーアヌー、シルワノはシラスの完全形。ディアは、本来は、~を通って、~によって、を意味します。ここでは、代筆者、仲介者を指すと見られています。シラスは、バルナバと共に、エルサレム会議の決議を携え、アンティオケの教会へ送られています。彼らは、共に教会で重んじられていました(使徒152227)。
それだけではありません。シルワノは、預言者でもありました(使徒1532)。当初から、パウロの信頼の厚い人物でした(使徒153740)。フィリピで共に捕らえられ、投獄され(使徒16192529)、コリントで再会し、共に宣教しています(使徒185、Ⅱコリント119)。共同執筆人にも名を連ねています(Ⅰテサロニケ11、Ⅱテサロニケ11)。
このシルワノは、使徒1637に依れば、ローマ市民です。246ページ、フィリピの出来事
 
「ところがパウロは下役たちに言った。『高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ。』」
 
パウロの伝道旅行の同伴者として、多くの経験を積んだシルワノは、おそらく、ペトロ
にとっても大変役立つ、信頼できる協力者であったでしょう。中でもその帝国市民としてのギリシャ語の能力は貴重であったろう。その上、小アジア一帯の諸教会と結んだ人脈も、
ペトロには欠けているものでした。
シルワノは、パウロに並ぶほどの優れた資質を持っていたようです。あるいは、ペトロ
よりも優れた資質を持っていただろう。しかしシルワノであり、パウロ、ペトロではなかった。教会は、絶えず、このような人物によって支えられてきたのです。
高知教会の長老・片岡健吉。彼は自由民権運動の指導者、衆議院議員、議長、多田素牧師を助けて忠実な信仰生活を送りました。彼は日曜ごとに、教会堂の玄関番になり、藁草履を揃えて並べて置くことを習慣にしていたそうです。
ここにキリスト教会の平安がありました。それぞれが、違いを認め、互いに仕える者となる。その働きに感謝する。エイレイネー、平和、平安です。
 
 
 ペトロは、このような自分の周囲の状況の中で、この手紙を書き、キリストに従って生きることを教えました。困難、苦難の意味を語ります。自分の経験を通して、人間の弱さを示し、どのように人格の確立に至るかを教えようとしました。
それは、イエス・キリストに委ねることでした。主イエスは、すべての人を知り、すべての人を愛し、すべての人を赦し、慰め、力付けようとして居られます。主イエスにすべてを委ねるならば、私たちの思いに勝る平安が与えられるでしょう。。