2013年4月21日日曜日

追放も神の恵み

[聖書]創世記32024
[讃美歌21]280,361,437、
 [交読詩編]116:Ⅰ~14
  
金曜日のニュース、医療の分野で開発を推進するための委員会が発足する、と報じられました。山中伸弥教授のノーベル賞が契機となり、考えられたようです。45年ほど前に伺った講演は、すでに、この国が平和に存続する道は此処にしかない、と語られました。元最高裁長官、横田喜三郎さんです。世界の人々の健康に貢献することが出来るなら、その国を世界の国々は敬意をもって守るだろう、というものでした。世界連邦を構想。
健康と長寿は、すべての人の求める幸せでしょう。病気、貧困、戦争に反対。
 
創世記23章は男と女の創造とこのふたりの堕罪、そして楽園喪失の物語です。
神に創られた人間は、エデンの園に置かれました。
園の中にいる男と女には、職務がありました。この被造物は、園の世話をし、手入れをすることです。人間は、創造の当初から、招かれ、職務を与えられ、神の作業に加わることを期待されました。
彼らには、すべてのことが許されています(Ⅰコリント6121023)。この許可は、基本的な生命維持のためのもの、と理解されるでしょう。
そして、彼らには禁止があります。不思議なことに、物語は、禁じられた木の性質などには、関心を持ちません。告げられることは、禁止の事実、語られるお方の権威、服従することへの徹底的な期待でしかありません。
 
 アダムとエバは、この神の期待を、創造主が禁止されたことを、見事に破りました。
彼らは、自分の欲望に負けました。約束を守ることが出来なかったのです。かれらは、裏切り者になりました。
「神のように賢くなり、善悪を知る者となる」との誘惑に克つことは出来ませんでした。確かに彼らは、賢くなりました。裸の恥を知り、神に対して罪を犯したことを知り、神の権威を懼れることを知りました。その結果は、身を隠すことでした。善悪を知りました。そして残念なことに、初めにあった、呼べば答えるような、神との親密な関係は消えてしまいました。神を恐れ、身を隠すようになりました。此処に罪があります。
 
罪が存在する。このことが世界の特質です。
恵みが存在する。このことは、神がご自身を表す方法です。
神の恵みは、まさに罪に対する妥協、と考えざるを得ません。
「それゆえに、神の恵みそれ自体が、人間の罪を予想している」(K,バルト・教会教義学)。
罪を可能にするのは、神の憐れみに他ならない。〈ブルッグマン〉
 
大地は呪われたもの、人はこれと闘い、苦しんで糧を得るしかありません。
人は塵に帰る、大地に帰る。初め、この大地は恵みに満ち溢れたものでした。被造物が生きるために必要なものを、溢れるように出してくれました。その大地は、人間の行為の結果、すでに呪われたものとなり、人間が汗を流し、労苦して、糧を得るようになりました。呪われた大地に帰る死は、安息ではないし、休息とも言えません。
 
アダムとエバは、エデンの園から追放されます。神様はアダムとエバに皮の衣を作って着せられました。これは「悲惨な状態に向かうための装備(フォン・ラートによるグンケルの引用)」です。このために、主なる神は、創造した野の獣の命を取られました。神のようになろう、これは人間の欲求であり、野望でした。ひとの欲求・野望は、いつの時代でも、混乱を引き起こし、何の罪もない命を、そのいけにえとして求めてきました。

 パラダイスからの追放、「失楽園」と言われます。しかしまたこの最後のところで、私どもは大切なことを知らなければなりません。それは、神様は神様の完全な守りから自ら離れてしまった人間、堕落した人間を受け入れて下さっている、ということです(フォン・ラートによるボンヘッファーの引用)。
 そして神様ご自身が、約束を破った彼らに皮の衣を与えられます。被造物の命を犠牲になさったのです。これによって、神様は、積極的に人間を守るものとなってくださいました。賢くなった二人は、自分の身を守るために木の葉を綴り合わせることしか出来ません。創造主なる神は、獣の皮を取り、彼らにお与えになりました。ふたりに、命を与えられたのです。
そう考えると、命の木から人間を遠ざける事も、神様の危惧でもなんでもない、むしろ何が善いもので、何が害をなすものかを自分で決断する存在になってしまった人間、やむことなく求め続ける人間を守るためのわざであったと言えるのです。人間にはそのようなものは、「今の状態では、到底背負いきれないもの(フォン・ラート)」なのですから。
追放も神の恵みなのです。
 
パウロは知恵と愚かさとを理解したひとです。彼は、人間の手の中にある知恵が死をもたらす可能性のあることを知っていました。けれども同時に彼の宣言には、良き知らせもあります。神へのばかげた信頼と、隣人へのばかげた、取るに足りない配慮とが、生命をもたらすものである(Ⅰコリント1:1825)と知っていました。
 
 この楽園追放の出来事を読んだ人の中から、質問が出ます。
神様は、冷酷だ。二人を裏切らないように造らなかった神様自身の責任があるじゃあないか。楽園に置いておいても良かったのではないか。
結局、神様って、けちんぼなんだ。
神様の愛っていうけど、やっぱり、自己中心で、自分のご都合じゃないのか。
 なかなか面白い疑問、質問です。
 
 約束を守らなかったから、二人を罰し、楽園からも追い出してしまう。
そのように造った神様の責任をどうするのか。
自分の楽園には、自分の意に適うものしか置きたくないのだろう。
園の中の、二本の木の実が、惜しくなったのじゃあないか。
 
 
追放とはなんだったのでしょうか?
楽園から追い出し、その後ろで扉をピシャッと閉じてしまう。
彼らが、決して戻ることが出来ないように、ケルビムと炎の剣に、その道を守らせる。
ずいぶん丁寧に、また厳格です。それも、侵入を許さない、という面において。
 
追放は、確かに命の木の実を、彼らが食べることのないようにするためでした。
それは神のご都合でしょうか、吝嗇でしょうか。私たちであれば、そうかもしれません。
神様は違います。彼らの状況を、よくご覧になります。彼らは、自分たちのしたことを、既に後悔しています。
 
楽園追放の目的、意味は、「ケルビムと、回る炎の剣とを置いて、命の木への道を守らせた」、という一文に良く顕われています。ふたりが、そのの中で、命の木から実を取り、食べないように。また帰ってきて、侵入しないように、とされています。
「ケルビム」は、有翼人面獣像.大小さまざまな像が残されている。大きなものでは、幕屋の契約の箱を守るものが、よく知られる。出2518、代上2818、ヘブ95、その他。新共同訳末尾の用語解説参照。イザヤ3716は、「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と記している。
「回る炎の剣」は、他に用例がなく、また図画中にも見受けられないため、説明不能。
 
 主なる神は、エデンの園の東に彼らを追い出し、その土地を耕して、生きるようにされました。呪われた大地と闘うようにして、生きることになりました。此処に文化が始まります。多くの言語は、カルチャーを語源として、文化を表現します。これが、耕すと同義です。
 
創造主は彼らを愛しています。彼らの苦しい状況を、その失敗ゆえの苦境を理解しています。この楽園で生き続ける事も出来ます。しかし、彼らは、善悪を知る木の実に手をつけました。命の木の実を食べる欲求に克つことができる、とは考えられません。
そうしたなら、罪の重荷を担ったまま、永く生きるようになります。裏切り者たちですが、神の愛は、彼らを守ることを選びます。自分たちの勝手で、神の守りをかなぐり捨てたものたち。しかし彼らが、そのままで永く生きることは、決して喜びではありません。
それは、このふたりにとっても、神にとっても喜びとはなりません。
 
私たちは、長生きを求めます。それも、ただ生きているのではなく、健康で活動しながらの長生きです。これが多くの人により「幸せ」、と言われるような生き方でしょう。
 
本来、無限の命だったのでしょう。そこに終わりの時を組み入れられました。命の木への道が閉ざされたことです。罪の重荷を担ったままで永く生きることのないように、という神の憐れみによります。追放も神の恵みです。
 
今朝は、二つのことをお話しました。
第一は、裏切り者となったふたりに対し神は、皮の衣をお与えになったこと。
命を与え、身を守ることが出来るようにされた。ここに神の愛が示される。
第二は、罪を担う二人に、その命の終わりの時を与えられたこと。
重荷を担い永遠に生き続ける事は、喜びではない。
アルベール・カミユは、その著書『シジフォスの神話』で、この問題を書きました。
シジフォスは神の世界よりも人間の世界に留まることを希みました。
その彼に人間の世界を選んだ罰として与えられたのが
先の尖った山へ岩を運び続ける「不条理」といわれる人生でした。
 
私たちの人生でも、神から拒絶され、周囲の人から見捨てられた、と思える時があるはずです。そうした時、失楽園、楽園追放を思い出しましょう。あの中にも神の恵みは示されていたことを。そうすれば、慰め、励まし、新しい希望が見出されるでしょう。