2013年4月14日日曜日

善悪を知る者となる

[聖書]創世記3819
[讃美歌21280,227,205、
[交読詩編]16:5~11、
 
本日の聖書は、失楽園、あるいは楽園喪失の物語。あるいは、その場面です
蛇に誘われ、女は木の実を食べ、男にも勧めて食べさせました。
決定的なことは、「決して死ぬことはない。神のように善悪を知る者となる」との蛇のことばでしょう。このことばは、女にとって力がありました。彼女を捉えました。
そしてそれを実証するかのように、その木はいかにもおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように見えました。その結果はどうなったでしょうか。神のようになったでしょうか。
 
ふたりは、裸であることを知りました。それは恥を知ることでした。
あわてて、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとしました。
これが最初の衣服・衣装です。裸の恥を覆い隠すのが、その第一の意味でした。肉体の裸は、現代のユダヤ人の間でも恥ずべきこととされています。ナチ・ドイツの強制収容所の記録があります。その中で、シャワー室と称されるガス室へ行くユダヤ人が一糸まとわぬ裸にされているのを見ます。注意深く見るべきです。親兄弟にも見せることのない裸を、衆人環視の中で強要されている。大変な恥辱であり、虐待なのだ、ということを。
 
裸、ということばには、もうひとつの意味が隠されているようです。それは、内的な、精神の裸です。ふたりは、神との約束を破ったことを知りました。もはや、無条件で神に守られる自分に帰る事は出来ません。なんと愚かなことをしたものでしょう。これからは、誰にも守られないものとして、自分を自分で守らなければなりません。
賢くなる、とは自分の愚かさを知ることだ、という意味では当たっていました。自己防御、自己防衛のためには、無責任に振舞うことが出来る、という意味でも当たっていました。ふたりは、その責任を他のものに転嫁することを知りました。
 
「風の吹く頃」、園の中を歩む神の足音が聞こえたようです。神の足音を聞いた二人は、木の間に身を隠します。彼らは、合わせる顔がない、とでも感じたのでしょう。
神は、人がいるところを知らなかったのか?二人が身を隠したことに気付かれなかったのだろうか。「どこにいるのか」と問いかけています。
 
どこにいるのか、これが、私たちの間でのことなら、ずいぶん悲痛な呼びかけではないだろうか。若い人は、自分が結婚する相手は、今どこにいるのだろうか、と問いかけるでしょう。愛する者同士が相手の生活を知らない。今頃はどこに?
愛する時、相手のすべてを知りたくなるものです。
夫婦・親子であっても、相手を見失います。何を考えているのか、分からない。そうした時にも、「あなたはどこにいるのか。」この問いには、愛が響いています。
 
 造り主は、既にご存知でした。禁じられた木の実を食べたことを。禁止したことが、守られなかったこと、それゆえにこそ、ふたりが身を隠したことを知っていました。
そこで、11節以下の問答になります。
 
おとこは、あなたがお造りになり、私の傍らに置いてくださった、あの女が勧めました。
木から取って、与えてくれたので食べました、と答えます。女が、と言いながら、実は創造主、神ヤハウェに責任を擦り付けています。
 女は、蛇がだましたので、食べました、と答えました。最近、この社会では、詐欺が横行しています。成りすましから進歩、発達、悪辣化して、本格的なものになっています。さすが賢いものだ、と感じ入るほどです。だましのテクニックの基本は、蛇の中にあります。蛇は、神の造られたもののうち、最も賢かったのです。蛇を賢く造った神の責任だ、といっています。蛇は、神の言葉を疑わせ、やがて違うことを信じさせました。
 
 神は、裁きを下されます。
蛇は、呪われたものとなり、這い廻り、塵を食らう。これは、蛇の体内には、手足の痕跡が残っていることで証明される、という人があります。聖書は、解剖学に基づきません。そうした関心は持っていません。
蛇と女の間には敵意が残ります。これは、現代に至るまで、女の子孫の中に蛇に対する、理由なき敵意が存在することから考えられ、語られたのではないか、といわれます。
 
女に対しては、産みの苦しみを大きくする、といわれます。新しい命の誕生、本来なら大きな喜びになるはずです。そこに苦しみを加える。現実にある苦しみの起こりを主張している、といわれます。更に、男がお前を支配する、とも語られます。相応しい助け手として造られたはずです。互いに相手を利用しよう、陥れようとする現実があったのかもしれません。
アダムに対しては、汗を流して労働し、その結果として、食べ物を得る。呪われた大地は、お前の苦しみを見なければ成果を与えない、といわれます。労働は、祝福とは言われません。そして人間は、この敵対的な大地に、最後に帰って行きます。身を横たえるのです。(これは、恐ろしいことです。神の恵みの手から、呪われた大地に放り出されるなら)。
 
結局、この物語は何を語っているのでしょうか?
人の世は、独りよがりな思い込みと錯覚、誤解に満ち溢れています。その連続です。
神のように、善悪を知る者になるとき、ひとは知りたくないこと、必要のないことも知ることになりました。人は、知識の量を誇り、あれも知っている、これも解かっていると言います。知識によっては、他の人を慰め、励まし、力付けることは出来ませんでした。むしろ、その知識によって、他の人を傷つけ、苦しめることが多かったのです。
 
私たちにとって、本当に知るべきこと、知るに値することは何でしょうか。
ハイデルベルク信仰問答は、その第二問で、知るべきことは三つある、とします。
答え。「三つのことです。第一には、私の罪と私の悲惨とが、どんなに大きいかということ。
第二には、私が、どのようにして、私のあらゆる罪と私の一切の悲惨から、救われるか、ということ。第三には、私が、どんなに、この救いに対して、神に、感謝すべきか、と言うことであります。」
 
 大学生の時、メモしたことを覚えています。
「つみ、罪、罪。罪を認めなければ、聖書の福音は成立しない。残念ながら、どれほど贔屓目に見ても、自分のうちに子供の時から大きな罪が巣食っていることは否定できない。」
覚罪意識、というのだと教えられました。私たちの知るべきこと。そして、この善悪を知る者になることを求めたいのです。いまや、この「善悪を知る者になる」ことを神が求めておられるからです。