2014年3月9日日曜日

イエスは彼らの信仰を見て

[聖書]ルカ51726
[讃美歌21]289,208,574、
[交読詩編]91:1~13、

 

本日の聖書には中風の人が、登場します。福音書には、「ちゅうぶ」とカナが振られていますが、PCでは「ちゅうふう」となります。

これは、非常に誤解しやすいことですが、病ではなく症状ですよ、と言われるところです。

 

私のことでお話します。97104日、脳動脈瘤の異常により、瘤が破裂しました。その結果、くも膜下出血となりました。私の場合、最初の打撃が2時過ぎ。間もなく、痛みが収まりました。仕事をしていると再び痛みが始まりました。予定していた病院へ行きました。待合室で、横になるほどです。呼ばれて時計を見ると午後7時。その日、最後の患者でした。教会と二つの学校へ提出した欠勤届に添付した診断書には、次のように書かれていました。「脳動脈瘤の先天性奇形による破裂によりくも膜下出血を発症」、その治療のため開頭手術を行いました。私の場合、後遺症は全くありません。風が当たったので、頭が以前よりも良くなるかといえば、そういうこともありませんでした。やっぱり、馬鹿は死ななきゃ治らない、と納得しました。

破裂時に、大量の出血が脳を圧迫し、重大な障害が残ることもあります。速やかに病院へ行くことが大事です。手術時に脳の一部を傷つけることが、非常に多いと聞きました。私の執刀医が言いました。「今回は奇跡的に100パーセントの手術が出来ました。それも今までの失敗があるからです。」正直さに驚きました。どれほど殺したことか。数年後、手術から手を引いたようです。腕の良い医師が居られたことも奇跡のひとつです。

後遺障害が残ると、これを中風と呼ぶことになります。昔は、差別的、侮蔑的に「ヨイヨイ」などと呼んでいましたが、今では使われなくなりました。

 

脳血管障害を乗り切るためには、普段から、万一のとき、どこの病院へ行くか、決めておかれると良いでしょう。突然、激しい頭痛が襲います。3時間が目途です。

私は、終始自分の車を運転して行きました。もうそのようなことは致しません。どうぞ皆様方も、万一の時は、遠慮せずに救急出動をお求めください。

 

517を見ると、イエスの教室・教場には、様々な人が集まりました。教えを聞き、学ぼうとする人。慰めや勇気、力を求める人たちでしょう。不純な動機で加わる人もいました。彼らは、学ぶ気持ち、という以上に、批判し、攻撃し、排除しようと考えていました。イエスその人を排斥します。同時にここに集まってきた多くの人々の中にも、何か不都合なもの、不信仰な者を見つけ、非難しようとしていました。

 

時と場所に関する記述は見られません。見えないと観たくなる。知らされないと知りたくなるものです。いつですか、どこですか、と言う質問が出てもおかしくはありません。

場所は、おそらくペトロの家(438参照)であろうと推測されています。

時に関しても、手がかりはあります。病人を運ぶ、屋根に上る、屋根をはぐ、癒す。これらの行為は、安息日に禁じられた労働に該当します。こうした、人の動きなどから安息日ではないと考えられます。平日に起こったことでしょう。

 

518以下に登場する人は、脳の血管が切れたか、詰まったかする病気のため、半身不随、体の自由を失ったものでしょう。現代では、こうしたことは血管や動脈瘤の先天的、または後天的奇形による破裂、あるいは様々な原因によって梗塞が起きるもの、と考えられています。不自由になったことは大きな不幸でした。その中にも幸いなことがありました。

重い皮膚病の人と違うこと。家族、友人との離別はありませんでした。孤独にはなりませんでした。親しい友人が居り、イエスのもとへ、運んできてくれました。情報を集めたのも、彼らだったかもしれません。

 

運んできました。しかし、「群集にはばまれて」、イエスの前まで進むことが出来ません。

ルカは、盲人のこじき(1839)やザアカイ(193)などで人間の壁を描いています。ルカは、伝統的なユダヤ社会では異邦人でした。その中で、人間が妨げる、人間に妨げられることを経験していたのでしょう。

 

友人たちは、機会を逃さないために、驚くべき手段に訴えます。屋根に上がり、そこから吊り下ろすことにします。マルコ2:4では、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴を開け、・・・吊り下ろした。」となっています。パレスティナの家屋は木の枝を並べ、その上に漆喰や泥土をつめた屋根でした。これをはぐのは容易でしょう。

ルカは、屋根、かわら、を意味するケラモスというギリシャ語を使っています。ルカ自身の背景を顕していると考えます。パレスティナの建築様式には合致しません。

 

吊り下ろされてきた人を見て、驚かれたことでしょう。しかし主は、この人たちの信仰を見た、と記されます。イエスは、この集団の求めと、その必要とするものを理解し、さらにご自身に寄せる深い人格的信頼を理解されました。そして直ちに言われます。「人よ、あなたの罪は赦された」と。彼らの求めを超えた必要に応えられました。

病の癒しを求めてきたはずです。ところが、与えられたのは罪の赦し。

現代の私たちは、ここには食い違いがある、と言います。赦しと癒しは別物でしょう、と。

 

ところが、主イエスの時代は、だいぶ考え方が違いました。当人や家族の罪の結果である、と考え、病の癒しには罪の赦しが伴う、と信じていました。

主イエスも当然、そのことを知っておられます。

 

私たちの人間理解、肉体と精神、更に感情、魂を加えて成り立っている、とするのが普通でしょうか。基本的には、ギリシャ・ローマ思想、ヘレニズムの二元論が現代の底流となっています。しかし、主イエスは、ユダヤの伝統の中におられる。それはヘブライズムの一元論であり、統合された一体性を持つ人格、という考え方です。病気と罪、癒しと赦しは表裏一体のものと考えられていました。

この奇跡は、イエスが罪の赦しの権威を持っていることを確証するものです。

 

主イエスは、赦しと癒しの関係は、元来分かちがたく、密着していた、という点にまで私たちを招いています。従って、ここでも二つの力を神の力のもとに統一的に発揮しています。二つと言いましたが、二つでありながら、一つなのです。

そして今、癒しと赦しの双方の権限が弟子たちに与えられています。二つでありながら、一つなのです。私たちは、「罪は赦されました」と語り、「病は癒されます」と語ります。私たちは、その権能を委ねられたものです。歴代の教会と共に、この実現に努めねばなりません。希望と平安、感謝と賛美の源泉となるのがキリストの教会です。

 

 10月には、厚別教会50周年記念礼拝が行われます。次の50年を見据えて、教会の基本をしっかり共有したいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《「ちゅうぶう」とも。悪風に中(あた)る意》脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態。中気。ちゅうぶ。一般的には、脳出血後に残る(後遺症の)マヒ状態のことで、「中気」ともいいます。

 

脳卒中という言葉は一般的な用語であり、医学用語ではありません。正式には脳血管障害、または「脳

血管疾患」といいます。脳卒中の卒は卒倒そっとう(突然倒れる)の卒で“突然に”の意味、中は中毒(毒にあたる)の中で“あたる”という意味ですから、脳卒中とは脳の病気で突然に何かにあたったようになる(倒れる)ことを意味します。

 

これは中国から渡ってきた言葉ですが、西暦760年の日本の書物にすでに見られますから、この病気は日本でも長い歴史をもっていることがわかります。近代医学が発展する前から、人々は卒中という病気があることをある程度理解していたことの証拠でもあります。

日本では現在147万人が罹患しており、ガンの127万人と比較しても多くの患者がいる国民病です。

寝たきりになる原因の3割近くが脳卒中などの脳血管疾患です。

高齢者の激増や、糖尿病、高脂血症などの生活習慣病の増加により、脳卒中の患者は2020年には300万人を超すことが予想されています。

 

脳卒中は、脳の血管が詰まったり切れたりする病気です。

脳卒中は大きく2つに分類することができます。

脳卒中には、虚血性の脳卒中と出血性の脳卒中があります。

虚血性の脳卒中は脳の血管が詰まって起きるもので、主に脳梗塞(脳塞栓)(脳血栓)の事をいいます。

出血性の脳卒中は血管が切れて起きるものです。主に脳内への出血(脳出血など)と脳周辺(くも膜下出血など)への出血に分類されます。日本では患者のうち4分の3を「脳梗塞」が占めています。