2014年3月2日日曜日

主よ、御心ならば

[聖書]ルカ51216
[讃美歌]289,16,532
[交読詩編]125:1~5、

重い皮膚病の人。

社会的疾病、単に個人の病気にとどまらない。病気は、当人を不快にします。そればかりではなく、周囲の人たちを巻き込んで行きます。この病気では、進行するに従って肢体が不自由になり切断せざるを得なくなることもあります。しばしば視力が減退、失明にも至ります。原因も分からず、薬も治療法もなく、天刑病、不治の業病と言われ、嫌悪されてきました。従って、これを発症すると社会的に措置されるのが普通でした。時代、民族、国家を問わず。隔離する、孤独を強要する。

「私たちは、この病気になったという不幸の上に、この日本の国で病気になったという不幸を背負わされています。らい予防法、偏見と差別。」大戦中に特効薬プロミンが発見され、戦後日本でも順次使用されるようになりました。今では、感染症のひとつと考えるようになり、治る病気とされています。らい予防法は廃止になりました。それでも、根強い偏見はなかなか消えません。差別もあります。                                                           

 

私のこの病気とのかかわりは、神学校の五年生のとき、一年間の教会実習を洗足教会で行ったときのことです。副牧師の棟居牧師が関わっておられたことで、いろいろ教えられました。その後、途絶えてしまいますが、牧師になった頃でしょうか。父が言いました。『君が関わるによいことを考えていたけど、救らい協会が適切だと思うよ。会費三年分、払い込んでおいたから』と。これもそこまで。

それから七・八年後、御殿場教会へ赴任しました。関係する施設、特別養護老人ホーム・御殿場十字の園へ行きました。待っていたのが、付属診療所の所長、ホームの女医さん・林冨美子先生。「持田先生、待っていたのよ。いろいろ教えて差し上げようと思って。」

御殿場教会の礼拝者の中に、駿河療養所の所長さんがおられた。奥様は教会役員。

昨年9月、葬儀の司式をさせていただきました。この石原先生からは、多くのことを教えられました。病原菌や薬のこと、標本のこと、行政のこと、今は忘れてしまったが、他所では得られないものを得たものです。                                                                                                                            

諸方へ就任のご挨拶を差し上げたところ、すぐ返信が来た。棟居牧師、「御殿場とは良い所へ行ってくれた。早速、南の方、神山の療養所へ大日向牧師を尋ねて欲しい。」

教会の役員に相談しました。「あちらへは足を踏み入れてはいけません」と言われています。と言うことで、案内もしてもらえませんでした。家族だけで行きました。会堂に座ってお迎えくださった。「この時が来るのを17年間、お待ちしておりました。」林先生が待ってくださったのとは意味が違う。重く、深いものを感じました。

地元の教会とつながりの出来る日のことです。確か、神学校入学の翌年からとなります。

このために私は今まで生きてきたのか、と思いました。

この関係を終生続けよう、と思い定めました。以来、岩槻、玉出の28年、あわせて30年余り信仰の交わりを続けました。

今は出来なくなっていますが、御旨ならば、継続されるかもしれません。無理でしょう。

 

 聖書のギリシャ語は、この病人をレプラと呼んでいます。旧約聖書の時代から知られています。ヘブライ語ではツアーラトに対応するものです。どちらもどのような病気であるか、よく判りません。皮膚の病ばかりでなくある種のカビと考えられるものも含まれています。歴史的に、医学的に何の病気か分からないものを、特定の病気と結びつけることは出来ません。古い時代の和訳聖書は《らい病》と訳しました。新共同訳は、これを《重い皮膚病》と訳すことにしています。   

新約聖書には、「レプラ」の症状は全く記されていません。つまり、この病に関する情報としては、旧約聖書以上の事柄を知ることができないのです。このことも、新約聖書の「レプラ」を、ハンセン病と特定できない理由の一つです。

 

 様々な事情の中で、聖書の時代、この病気は不治のもの、うつるものとされ、非常に用心深く扱われたようです。レビ記13章にその記述があります。「患部のある者」とあります。これだと皮膚に腫瘍・できものがあると、全て疑われそうです。

「病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。」

 

家を出て、他所に住み、道行くときは、間違っても人々が近寄らないようします。長い杖

を持ち、その先には鈴をつけて鳴らします。そして大声で病人が来ていることを知らせます。多くの人々の健康と安全を守るために、この屈辱が、この孤独があります。それも2000年以上にわたって当然とされてきました。イスラエルの律法の定め。そして世間一般の常識によって守られていました。

 

町の中にこの病人がいました。イエスを待ち受けていたのかもしれません。孤独な病人にも友人は居ます。断絶させられていても、切っても切れない家族とのつながりはあります。そうしたところから良い知らせがもたらされたのでしょう。ナザレのイエスという名の不思議な人がいる、とのことです。この病人は信じました。むしろ、信じるしかなかったのでしょう。最後の望みを託することが出来るとすれば、この人しかいない、と確信して、やってきました。呼びかけます。これは掟破りです。

 

しかし、彼は知っていました。自分は確信している。後は、『主の御心しだいだ』。癒す能力があると信じる。しかし癒す気持ちがなければ、私は癒されない。「主よ、御心ならば・・・私を清くすることがおできになります。」必死で訴えています。

 

その主イエスは、どうされたでしょうか。お前は、ユダヤ伝統の律法を破っているよ。出直しなさい。とでも言ったでしょうか。イエスは、「手を差し伸べてその人に触れ」られました。イエスは、この人が置かれている穢れと孤独の唯中に入り込んで行かれました。

この人が掟に背いたように、自らも掟に背くのです。不法行為と穢れを共に担われました。

それによって、孤独から解放なさいました。

 

 初めて療養所の神山教会へ行ったときの事を思い出します。地元から初めてのもの、一緒にお茶を飲み、菓子を食べる。そこには孤独を打ち破る力が働いていたのです。私は、感性が乏しいので、当時はそこまで理解できなかった。私ごときものがやって来ることは、それほどたいしたことではあるまい、と思っていました。それなのに、たいそう喜んでくださった。偉い先生ではなく、

普通の牧師が来た。聖書の言葉が現実になることだったのですね。

 

イエスにおいて、愛は信仰・希望を凌駕するものとして評価されるようになります。

それは律法を完成させるものだからではないでしょうか。

またパウロは、様々なときに、律法厳守の限界を悟り、愛の発揮する無限の力を実感したのです。

 

「誰にも話してはいけない」。何故でしょうか。奇蹟の後、それを人々に語り、宣伝しなさい、とは言われません。この活動、医療行為は、語り伝えられれば必ず誤解を招くに違いありません。悪魔祓い師、悪霊のかしら、これらはイエスに対する誤解であり、同時に癒しに関する誤解となり、癒された病人の社会復帰を遅らせることになります。

もうひとつ考えても良いでしょう。この癒された男が、社会に復帰するためになすべきことを速やかになし終えるように配慮されたのです。「詳細は語る必要はないから、ただ行って癒された体を祭司に見せなさい。」

徹底的に病める人、弱い人を理解し、その傍らに立たれるのがキリストイエスです。

 

奇跡では、大きな力が出て行きます。主なる神に感謝の祈りを捧げます。さらに新しい力に満たされるようにと祈ります。これは、主イエスの秘密、奥義です。退いて祈られるのは、この時だけではありません。イエスにあっては、当然のこと、日常のことでした。

私たちも、感謝して祈りましょう。

 

 

 

旧約聖書の定め、レビ記(口語訳)

13:45患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。

13:46その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。

14:2「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、

14:3祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、

14:4祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、

14:5祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、

14:614:7これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

14:8清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、

14:7これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

14:8清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない

 

屈原は言った。

「私は聞いたことがある、『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠のほこりを指ではじき落とし、水浴したばかりの者は、必ず衣類のほこりを振り払う』と。

どうしてこの清らかな身に、汚らわしきものを受けられるのか。いや、受けられない。

むしろ湘流に入水し、江魚の腹中に葬られても(→魚の餌食となろうとも)、どうしてこの真っ白い身に、世俗の塵埃をまみれさせることなどできようか。いや、できない。」と。

 

漁夫はにっこりと笑い、舟をこいで去った。歌うには、

「滄浪の水が澄んだのなら、冠のひもを洗うがよい。

滄浪の水が濁ったのならば、自分の泥足を洗うがよい。」

そして去って(→そのまま姿を消して)、再び共に語り合うことはなかった。

 

屈原  楚の詩人・政治家(おおよそ紀元前343278) 高潔に生き、そして自殺した憂国詩人 

 名は屈平、字が原である。戦国時代後期に楚の王族として生まれた屈原(くつげん)は、懐王(かいおう)から信任を受けて左徒の官に任命され、主として法律関係の仕事を行った。屈原は博聞強記で治乱興亡のあとに明るく、文辞詞章に長けていた。

 

 ある時、屈原の才能を嫉んだ上官太夫が懐王に「屈平は自分の功を誇り、驕っている」と讒言した。懐王は怒って屈平を遠ざけた。その後、懐王が張儀(ちょうぎ)に騙され秦に出兵したが、この時、屈原は斉に国交回復の使者として赴いている。

 前二九九年、秦の昭王が懐王に会盟を求めてきたが、屈原はこれに反対。しかし懐王は臣下の子蘭(しらん)の進言を採り、秦に赴いて囚われの身となる。

 楚では代わって頃譲王(けいじょうおう)が即位したが、四年後、懐王が秦で釈放されぬまま憂死したこともあって、屈原は子蘭を憎んだ。一方の子蘭も屈原を妬み、頃譲王に讒言したため、屈原は再び江南に流された。

 やがて彼は滅亡の危機に瀕する祖国を憂いながら、五月五日に汨羅(べきら)に身を投じて、人生の幕を閉じたのであった。

 

「楚辞」と呼ばれる詩は彼の創始によるもので、後世の詩に絶大な影響を与えた。

 屈原の詩の代表作は「離騒」「九歌」「天問」「九章」がある。屈原の人柄を最もよく表していると言われる「漁父辞」は、実は屈原の自作ではないとの説が有力らしい。

 

 

『濯纓濯足(たくえいたくそく)』冠の紐を洗い、足を洗うの意。

時世の清濁に従って、身の処し方を変え、意のままに生きること。

出典「古文真宝後集・屈原・漁父の辞」。古くから詠まれてきた「古歌」である。

漁父は莞爾(にっこりと)として笑い、

「滄浪之水清(す)まば、以て吾が纓(えい。冠の紐)を洗うべし、

 滄浪之水濁らば、以って我が足を洗うべし」

と詠いつつ、枻(えい)を鼓して去り、再び言葉を交わす事は無かった。

(=櫂で船端を叩いてそのまま去ってしまい、そして二人の会話は終わった。)

即ち、万事は時世や時勢の清濁に従って、その時々に応じた吾が身の出処進退をすべきということ。

 「滄浪之水」とは、漢水の下流の別称であり、夏水とも漢水とも言われ、

 

これが難しい。私たちの多くは、穢れを共にするより、一人清いままでいたいのです。

中国の政治家・詩人屈原は、《漁夫の辞》を歌いました。紀元前343278戦国時代後期。

高潔な人。この詩の中では、漁夫に「『濯纓濯足(たくえいたくそく)』冠の紐を洗い、足を洗うの意。」を言われるが、それに馴染むことができず入水する。

万事は時世や時勢の清濁に従って、その時々に応じた吾が身の出処進退をすべきということ。