2014年3月30日日曜日

新しいぶどう酒は、新しい皮袋に

[聖書]ルカ53339
[讃美歌]289,210,363、
[交読詩編]27:7~14、

昨年はかなり遅くまで雪が残っていたように感じます。それに比べると、今年は雪融けが早い、と感じています。それでも寒さは変わらないようです。暖かい日が続きましたが、室温は低い。暖房を入れていない部屋へ行くと、短い時間なのに手にした眼鏡が冷たくなっています。厚別の三月末ですから。

本日の聖書は、『断食についての問答』となっています。

マルコ福音書21839に同じ記述があります。前後の記事も共通です。

それに対してマタイ福音書はどうでしょうか。91417にありますが直前の物語は同じですが、直後には癒しの奇跡が続きます。

ルカは、明瞭ではありませんが、レビの宴会の続きとしています。

30節では、イエスの弟子たちにファリサイ人や律法学者たちが問いかけていました。

「何故、罪人たちと食卓を共にするのか」

それにたいして、イエスがお答えになります。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。・・・・悔い改めさせるためである。」

 

そして33節に入ります。

「何故、あなたの弟子たちは断食をしないのですか。ヨハネの弟子やファリサイ人もたびたびしています。断食は、祈りや施しと並んで私たちの美しい、良い業のひとつでしょう。」

これに対してイエスは、譬えによってお答えになります。

 

 初めは34節、どういう時に、人は断食するだろうか。花婿が奪い取られる時が来れば婚礼の客は断食することになる。これは、主イエスを花婿と見るたとえ話です。

イエスの弟子たちは、ちょうど花婿を迎えた婚礼の客のように喜びの中にいます。慶びの祝宴が開かれています。誰が断食をするでしょうか。しかし、この花婿が奪い取られたら、喜びは悲しみに代えられ、人は全て断食するでしょう。

ここではキリストの十字架が暗示され、後の教会、ルカの属する教会が、受難の時に断食していることを、理由付けています。イエスが去って、弟子たちが残されたときこそ断食のときです。

 

 次は36節、新しい服、古い服のたとえです。新しい服から破り取った布切れで、古い服に継ぎを当てはしない。新しい服は破れて使えなくなる。また新しい布切れは、力に満ちているから、古い切れを引っ張り、弱い部分が破れてしまう。新旧両方の服が駄目になる。

古いものを守ろうとして、新しいものを駄目にしないように、求めているのでしょう。

 

 第三は37節、ぶどう酒と革袋の譬えです。

ぶどう酒は、ブドウの実を醗酵させて作ります。世界中で造られています。日本では、北は北海道、南は鹿児島に至るまで各地で作るようになりました。

その土地のブドウの実を絞り、果汁に酵母菌を加えると醗酵が始まります。「酵母菌がブドウ汁の中の等分を食べてアルコールと炭酸ガスに変えて行く」と書かれていました。

9月に収穫し、11月には一応飲めるようになります。そのまま醗酵させていると、いつかはお酢になります。

このぶどう酒は、酵母菌をろ過するか、火入れをすることで、醗酵をとめることが出来ます。上等なワインは、コルク栓をして、寝かせることになっています。それは、まだ醗酵が続いています、生きています、ということなのです。並みのワインは、スクリューキャップを使うようになりました。たいていは醗酵を止めているようです。

 

時代や地域、民族によってブドウ酒の入れ物が違っています。陶器を使うところがあります。ギリシャなどは、大きなアンフォラを使いました。アジアでは革袋を使うことが多かったようです。この革袋の文字について余分なことですが、お話しましょう。

動物の獣皮を「皮革」と言うのは「統言」(ひっくるめた言い方)であって、それを「析言」(微細な違いを厳密に区別した言い方)すれば、「皮」は獣毛が付いたままのもの、「革」は獣毛を除去してなめしたものをいう。部首名としては、「皮」は「けがわ」であり、「革」は「かくのかわ」とか「つくりがわ」と呼ばれる。(阿辻哲次著『部首のはなし』156P中公新書)

「動物の皮膚をそのまま剥ぎ、製品として使用したものを皮(かわ・ひ)といい、動物の皮膚の毛を除去しなめしてあるものを革(かわ・かく)という。しかし、後者も「皮」と表示する場合もある。これは、後者の文字が教育漢字となっていなかったことに由来する。wikipedia

 

口語訳、岩隈直訳、塚本訳、前田訳、いずれも皮袋

文語訳、革嚢(かわぶくろ)

NIV new wine into old wineskins.

If he does,the new wine will burst the skins,the wine will run out

And the wineskins will be ruined.     

英語聖書ではスキン(skin,皮製の器、皮袋)があり、レザー(leather、革、なめし皮)があります。ギリシャ語は、アスコスが皮袋。山羊、羊、子牛などの皮で作り、四肢を堅く縛って、もれないようにし、ぶどう酒、水、油などの容器にした。  ぶどう酒はオイノス。                                                   

古い革袋は、革が乾燥していることが多く、固くなっていて、中にはヒビ割れていることもあります。そういう古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、どんどんガスが発生して袋が膨張しても、革が伸びないので、弱い所からパーンと割れてしまうことがあります。それで革も袋もダメになります。

もちろん、ぶどう酒は流れてしまいます。

でも、新しい革袋なら、まだ革が柔らかくて伸びしろがあるので、新しいワインを入れても割れずに保存することができます。

 

古いものは、新しいものに凌駕される、と言っているように聞こえます。ユダヤ教とキリスト教との関係を考えると、古いものを捨てて新しいものをとりなさい、と教えるように考えられます。実は、そうではなくて、古いものを守るためにも新しいものは新しい入れ物にしなさい、と言っているのです。

 

第四、最後、39節は、古いワインを飲むと、新しいワインなど欲しがりませんよ、と言っています。新しいぶどう酒は、飲むことが出来ない粗悪品と言っているのでしょうか。新しいぶどう酒も、熟成するまで、時間をかけて、待つのが当然、と言っているのです。

ベン・シラの知恵915には、「古いものは良い」とあります。

ぶどう酒の場合、「古い」ということは、十分に醗酵したもの、熟成した良いものを意味しています。決して、賞味期限切れではありません。不用品、ましてや不良品などではありません。それに比べるなら、新しいぶどう酒は未熟で、もっと時間をかけるべきなのです。

この譬は、新しいもの、古いものを比較検討して優劣をつけるものではありません。ひとつを存続させるために、他を捨てることを教えるものでもありません。

 

 

現代の状況は、諸宗教の寛容な態度を要求しています。諸宗教間の対話。民族の対立の陰に、それぞれの宗教の問題があります。真理と権威の問題です。真理を保持している、との主張は、その信仰からは当然でしょう。しかし、それは、他の信仰を排斥するものではないはずです。ともに成長することが期待されます。教育においても、親や教師が自分たちを絶対化するのではなく、子ども、生徒、学生と共に成長することが教えられ、求められているのです。更に言えば、主イエスにあってはどのような人も、どのような考えも捨てられることはありません。感謝して祈りましょう。