[聖書]ルカ23:13~25節、
[讃美歌]533,209,298[交読詩編]22:25~32、
早いものです、なんと四月になりました。本州では桜の季節、時期を違えて、次々と咲いては、潔く散って行きます。日本では、この桜を、武士たちがことのほか愛好しました。
余計なことですが、侍が敬遠したものがあります。首が落ちる椿、腹を割るイチジクです。
その伝統は、近代日本でも職業軍人たちに受け継がれました。そればかりではなく、その周辺の女性たちにも愛好されました。
御殿場教会の庭に、自分で購入した苗を植えました。「市の花」を盛んにしよう、との趣旨です。寒山、普賢象、大島、吉野、緋寒桜など・・・。富士霊園の桜は、質量ともに豊かで、ことのほか見事でした。赴任直後に天野三郎執事がお連れくださいました。
本日の聖書は、捕らえられたイエスが、夜が明けてから、最高法院へ連れ出された場面になります。サンヘドリンと呼ばれ、ユダヤの政治、軍事、経済、法律解釈、犯罪の審判、あらゆることに関する最高議決機関です。ユダヤ民族全体を律する法は、ただ一つ律法です。民族の存在は、この律法にかかっています。イエスが、この法廷に引き出されるのは、彼が法の各条に違反していることよりも、神のように見える、ということの故ではなかったか、と考えます。民衆に歓迎されたこと、奇跡を行ったこと、新しい権威に満ちて教えを語った事などです。従来の権威者たちの嫉妬心という理解もあります。自分たちの地位が脅かされている、ということも事実でしょう。様々な理由から、イエスは裁きの座に引き出されました。そして、問われます。「おまえはメシアか」。メシアは、旧約聖書で予言されている救い主、救世主のこと。地上で権力を握る王・支配者を意味することもあります。ローマ帝国が支配するユダヤでは、治安を乱す罪、反逆に問われる可能性があります。更に、「おまえは神の子か」。イエスの応えは、「それはあなた方がそう言っているのだ」というものでした。この言葉を得て、舞台は、ピラトの法廷へ移ります。
最高法院は、ユダヤの法で裁くよりもローマ法による死刑を求めました。皇帝に税を納めることを拒否する、自分こそ王たるメシアだ、という言葉がイエス自身のものであれば、治安を乱すものになります。ローマ総督の最大の任務は、治安の維持です。
8節以下には、ヘロデ・アンティパスがイエスと問答を試み、話しかけたことが記されています。ヘロデの求めは、イエスの教えなどではありません。イエスが何か不思議なことを行うのを観たかったのです。イエスは、何も応えられません。何もなさいません。大祭司や律法学者たちは、これ幸いと、激しくイエスを訴えた、とあります。
ルカはここで面白いことを書いています。「ヘロデとピラトはこの日以来親しい友達になった」とあります。領主ヘロデは、ローマ帝国の支配を代表するピラトと敵対関係にありました。この日、イエスを共通の敵と見ることで結びつきました。敵の敵は味方。
ルカは当時の事情に精通している。更に、人間心理に通じている。
二人は、互いに相手を危険視している。それもあって、イエスへの判決は相手に譲る。
ピラトは、非常に残忍な総督、機会を捉えてはユダヤ人に権力を思い知らせた。紀元37年、サマリヤ人からひどい暴行の訴えが出されたため、シリア総督ビッテリウスは、彼を罷免した。ビッテリウスは、このとき同時に、カヤパと言う別名を持ったヨセフを免職させ、新しい大祭司を任命した(古代史18:4)。
群集の求め、これは大声でなされました。
大声には、形容詞が付くことがあります。「傍若無人、周辺に人がいないかの如し、人も無げに。」
電車内などで大きな声が聞こえると、どこの国人か、と考えてしまう。
酔っ払いの声は計算外。日本人としての常識がなくなっている。
何故あれほど静かなのだろうか、と考えることもある。たいていは、話す必要があっても声を潜めるようにしている。そこまでは要求されていないだろうに、と思う。
このごろは、様々なことに関する情報が変化しています。「大声」に関しても全く新しい情報が現れています。
「大声ダイヤモンド」、作詞:秋元康 作曲:井上ヨシマサ、2008年10月、AKB48の楽曲
走り出すバス 追いかけて 僕は君に 伝えたかった 心のもやもやが消えて 大切なものが見えたんだ こんな簡単な 答えが出 てるのに 何にためらって 見送ったのだろう? 僕が僕であるために 衝動に素直になろう ...
大声で叫べばダイヤモンドになる、ということらしい。
大変人気のあるグループであり、ある意味エポックメーキングな楽曲であったらしい。
しかし、歌詞を読んでみたけど、大事なことが分からない。如何やらこういう類のものは、頭で理解するよりも情緒、感覚で感じればよいものらしい。その辺は、阿久悠さんとの違いかな。あの人の歌は、きちんと頭で理解できて、心の深みで感じることが出来た。
詩というものは、そういうものだと思う。抒情詩、叙事詩、いろいろな分類があると思う。思想の歌と言う分類があっても良いのではないか。欧米では、哲学者・神学者が詩を書いている。それも、多くの人によって受け入れられる優れた詩を書いている。
大きな声には、他の人々を脅迫する効果がある。
大きな声は、その語る内容が正しいと思わせる効果がある。錯覚でしかないのだが。
大きな声には、賛同者が大勢いると錯覚させる力がある。
年寄りに対する一番の親切は、大きな声で話すことです、と大阪の教会で聞きました。
年寄りは、自分の耳が聞こえないからどうしても大きな声で話します。そのくらいの声で話してもらうのがちょうど良いのです。
私は普通、小さな声で話します。自分の耳には聞こえています。少なくとも、自分の話は聞こえる。その程度の声で話しています。
大きな声は、強い自己主張ではないでしょうか。地声、ということもあるでしょう。
ある時、中国育ちの同級生が言っていました。彼は大変大きな声が出る人です。
「大陸では、赤ん坊が泣いても、隣近所への遠慮など考えなくて良いので、ほって置くよ。
よく泣いた子どもは声帯が強くなり、大きな声になるんだろう。日本は、向こう三軒両隣
にご迷惑かけないようにしなければならない、と考えるから小さい声で話すようになるわけさ、ということです。」
大きな声を出すと、正々堂々の主張である、というイメージを広げます。でたらめな内容であっても、真実が語られている、真理を語っている、と印象付けられます。日本の政治家の条件は、大きな声で話すことではないでしょうか。中身がなければないほど大きな声が求められます。
同じ内容でも小声で、囁くように言ったならそれは秘め事になってしまいます。聞く人は、その内容に対して確信を欠いているのでは、と疑ってしまいます。
大声は、小さな声を押しつぶすものだ。
祭司長や律法学者たちは、自分たちの考えが通るように大声を求め、細工しました。しかし真理はそのようなところにはありません。
創世記28:10~22「ヤコブの梯子」
Ⅰ列王19:12,13、「風の中、地震の中、火の中にも主はおられなかった。
火の後に静かな細い声が聞こえた。」
大声は、何を要求したのでしょうか。イエスを十字架で死なせることでした。そのためには、暴動と殺人を犯した、とされるバラバを釈放することを要求しました。ここに、群衆の罪があります。この群集は、ほかならぬ、私たち自身です。
細い静かな声で語りかける真理の言葉を聴きましょう。