2014年4月13日日曜日

イエスの十字架


[聖書]ルカ232643
[讃美歌]533,313,299
[交読詩編]24:1~10、

 本日は、棕櫚の主日The Palm Sunday、マルコ11111、マタイ21111

ルカ福音書では、19:37以下、エリコから、険しい山道を登ってこられた。オリブ山の近くで、ようやく下りに入ります。東から西に向かう下り坂。子ロバの背には服がかけられています。鞍の代わりでしょうか、敷き皮のつもり、と考えます。子ロバの背に乗り、道を進まれました。

イエスがエルサレムに入ろうとされた時、人々は衣服を道に敷き、棕櫚の枝を打ち振りながら神を讃美し、イエスを歓迎しました。世を救う神の子、メシア・キリストがおいでになった。ハレルヤ、万歳。

ベツレヘムでお生まれになり、ナザレで成長されたひとりの人生の頂点です。

 

このことが主日に起きたか否か、論が分かれますが、私は他の時であろうと考えています。その理由は、ルカ17章以下の流れと、ユダヤの掟によります。

 

先ずユダヤの掟は、夜間の活動を認めません。福音書も殆ど夜間の活動を書きません。私たちは、書かれていない事共の存在を考えることがある、と思いますが、ここではそうしたことはほぼありえないでしょう。

次に、17章以下の流れですが、1711に「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。」とあります。サマリアからエルサレムは、直線で180キロ以上はありそうです。山道が多い地域です。一日30キロ以上進んだとしても56日はかかります。

以下場所の記述はなく1835「イエスがエリコに近づかれたとき」となります。

エリコからエルサレムへ行くには、およそ25キロほど、ひたすらに山を登るだけです。

朝出発して、日暮れまでになんとかオリブ山を下って城門を入るか、間に合わなければ東側の村々の宿泊所を利用することになるでしょう。

ユダヤには、安息日規定があり、労働を禁じています。歩くことも、日常の生活で必要な距離は許されますが、それを少しでも越える距離になると、労働になる、ということで禁じられます。生きるための厳しい労働からの解放をもたらすものが、自由な歩行の喜びを奪い、抑圧するものになりました。

もちろん商売に関わること、畑へ行くことなどは禁じられます。会堂へ行くことが認められるような距離。英国ダーラム市は、この伝統を受け継いでいます。土曜の夜、翌日、日曜の昼食の準備をします。そして教会の礼拝へ。パブもレストランも閉店です。旅行者は困ります。教会でそのような人を見つけると、自宅へ招きます。これが、知る人ぞ知る、ダーラムのサンデイランチです。

 

このような歩行禁止の規定の中を生きていれば、後の時代に主の日と呼ばれる日曜日にエルサレムに居ようと思えば、安息日に歩いていなければならないのです。これは考えられません。木・金を使う可能性はあります。土曜日・安息日に入場されたことと同じように、日曜にエルサレム入りしたとは考えにくいのです。

でも、こんなこと、いつでもいいじゃないですか。これまで多くの学者が、受難週の行動を確定しようとしてきました。それだって確定できません。そのために復活が否定された、とは聞いていません。

 

主イエスの生涯の最終ステージは、受難と甦りです。十字架が過ぎ越しの金曜日。三日目の朝早く、空っぽの墓が見出されます。それを基準に、逆算して時間表が作られました。それでも不明な点があり、推測しても埋まらず、意見の相違が残されています。

 

キレネ人シモン(リヴィア、首都はトリポリ)、年来の宿願達成のため過越祭のエルサレムに来た。彼がユダヤ人であれば、おそらく商人であり、商用をかねて父祖の地を踏んだのでしょう。他方アフリカ人であれば如何でしょうか。ローマ帝国は、ナイルの流域を穀倉地帯としています。エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、これら北アフリカ一帯は、穀物の生産地であり、輸出国でした。シモンは、大胆な推測をすれば、アフリカ人の改宗者、農地所有者、穀物生産・販売業者、後には、ローマへ出ている。

 

チャーチルの書いた『第二次世界大戦』第3巻に、キュレナイカという地名が出てきていました。第二次世界大戦、北アフリカの戦場

エジプトの西側に接続。それと、ローマ時代を描く歴史書

ハリウッド映画『偉大な生涯の物語』では、名優シドニー・ポワチエが演じていた。

 

このシモンに関係する聖句が、いくつかあります。

マルコ1521「アレキサンデルとルポスの父でシモンというキレネ人が」、マルコの教会では良く知られた兄弟。

ローマ1613「主にあって選ばれたルポスと、彼の母とによろしく。」

マルコは、その福音書をローマの教会のために書いた、という説があります。シモンの一家がローマにいる、よく知られている人々、となってくるのです。シモンの名は出てきません。20年近くの間に亡くなってしまったのではないでしょうか。

 

かつて、『強いられた恩寵』という題の説教を聴いた覚えがあります。印象的な説教題でした。内容は記憶していません。いくつか考えることが出来ます。

キリストの苦しみに与ることが許されたこと。

息子たちが福音を受け入れたこと(少なくともマルコの教会では、父親より良く知られている)。お連れ合いとルポスはローマへ移ってもなお信仰の交わりの中にいる。

自らは求めず、知らず、ただ神の愛に基づくご計画によって与えられたことが、強いられた恩寵です。私などが伝道者にさせられたことも、強いられた恩寵かな、と考えています。

 

刑場には、三本の十字架が立てられました。2237が成就しました。

『その人は犯罪人の一人に数えられた』。イザヤ5312の予言です。

 

二人の犯罪人の反応は、いかがでしょうか。

ひとりは、「自分と我々を救って見せろ」、そうしたら何だというのでしょうか。人は自分を救い、守るためなら何でもやる。しかし世界を救うキリスト・メシアは違う。彼は自分を救わないゆえにキリストと呼ばれ、信じられる。

「自分を救うが良い」、これは、はじめ議員によって、次いで兵士たちによって、嘲りを持った罵りの言葉です。この犯罪人は、彼らの尻馬に載って言っただけかもしれません。しかし、三度繰り返されることを重視するなら、この言葉が、人間の深い本性から発していることを示すように思われます。そ知らぬ顔で、ここで礼拝をしている私たちの心の底にも同じものがあるんだよ、と言われているのです。

 

もう一人は、自分こそこの刑に相応しいことを告白し、憐れみを求めます。

それに対する主イエスの言葉。アメーン ソイ レゴー、で始まります。まことに、

主イエスの重要な発言には、このアメーンが先行しています。                           

楽園・パラダイス、ペルシャの言葉で、囲いの内側、守られた場所を意味します。

人々の好奇の目や、侮蔑、差別、攻撃にさらされることのない、平和の国へ伴われる、と主は言われました。主イエスは、その生きる限り、病める者を、罪人を救い続けるのです。そのために、私は来た、と言われます。

感謝して祈りましょう。