2014年5月11日日曜日

選ばれた12人

[聖書]ルカ61219
[讃美歌]211,206,405
[交読詩編]34:2~8、

あるとき、主イエスは、山に登り、祈って夜を明かされました。

これは、431から516までのガリラヤ伝道に続く時、と考えられています。諸会堂で教え、多くの病人を癒し、悪霊を追い出し、最初の弟子を招きました。それからは、ユダヤの宗教家たちとの対立が描き出されました。これが517611でした。

祈りは神との会話、そして対話。楽しいとき、慰めに満ちたとき。力づけられるとき。

大事なこと、重要な決定に先立って、主は必ず祈られる。

一人だけではなく、神と共に事に当たられる。

 

朝になると、弟子たちを呼び集め、その中から12人を選び、「使徒」と名付けられました。主イエスの周囲には大勢の婦人達や弟子たちがいたようです。マタイ818(ルカ957),マタイ823(ルカ822)、またエリコを通るときの描写にも、多くの者が従っている事が知られています。もちろん群集もいるでしょう。

同時にイエスに従う男女が多くいた、と考えることが出来ます。イスカリオテのユダが欠けた後も、すぐに二人の候補を立てて補充しています。また、最初のエルサレム教会は、12人の職務専念のため、ギリシャ語を話す7人を立てて、必要な仕事に当たらせています。

 

 何故12人なのか?

十二人、戦後まもなく《一ダースなら安くなる》というタイトルのアメリカ映画があったことを覚えています。子沢山家族の物語だったようです。物不足の中で、生活は苦しかったはずです。でも楽しい生活だったのでしょうか。父はよく「子ども一ダースも良いね」と言いました。大量消費、購入が出来て、割引サービスがある今の時代なら、それも良かったでしょう。あの頃は、とても大変だったはずです。そうした中で、元気付けるためだったかも知れません。9人のときは野球チームが出来るよ、10人になると、男女別にバスケットボールチームが出来るね、と言っていました。

 

おそらく、イスラエル12部族が意識されているのでしょう。アッシリアによって北10部族が排除されるまでは、12部族がイスラエルの全世界でした。そのことに思いを致すなら、12人は全世界の広さを意識するものなのでしょう。

 

選んだ目的は何だろうか。ここには何もありませんが、他の福音書と読み合わせると、多くのことが分かります。

「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためだった。」マルコ313

「穢れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒すためであった。」マタイ101

ルカは、「弟子たち・・・から12人を選んで使徒と名付け」。ルカは、この「使徒」を何回も使います。使徒言行録への伏線としているのでしょう。

12人の選びは、そば近くに居らせ、すべての事を観て、学び、新しい生き方を与えるためです。

 

 その後の出来事を通して私達は学びます。彼らの生涯は、十字架と甦りの目撃証人となること、殉教によっては、教会の礎となること、へと変えられました。

天国への帰還の先駆者となる。

 

押し寄せる群衆は、イエスに求めています。

教えを聞き、病気を癒していただき、穢れた霊から解放されるためにやってきました。

イエスはこの群集をいつくしみます。弟子たちはこれを学ぶものです。

 

弟子は、ギリシャ語でマセーテース。師匠の下でしっかり、全てを学ぶ者。師匠のようになることを目指します。学究の徒。今で言う神学教師もこの中に入るかもしれません。文武両道。芸道、職人の道、

使徒は、アポストロス。アポ、から。ステロー、投げる。向こうへ投げられたもの。

古典では遠征隊、艦隊。一国を代表して他国へ派遣される者、大使、公使など外交官。使節、自身の身を以ってその国を顕すことが求められる。

「ある人の使者は、その人自身と同じである。」後期ユダヤ教の諸文書の言葉。

職権を委任して送り出す、派遣する。「代理として全権を付与された者」

12人の者たちは、キリストの使者として、キリスト御自身と同じであることを求められ、期待されるはずです。教会も神学校も伝道者をそのように教育しなければなりません。

 

 12人がどのような人であったか、分かることは余り多くはない、と言わざるを得ません。

『黄金伝説』のような伝承を調べることになります。その大部分は伝説・聖伝であって、歴史性は乏しい、と言うべきでしょう。今は三福音書の名前だけあげて見ましょう。

イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、

そして、(ゼベダイの子)ヤコブ、(とその兄弟)ヨハネ(この二人にはボアネルゲ「雷の子」)

この四人は、ガリラヤこの漁師で、最初にイエスに呼ばれて、従っています(51以下)

フィリポ、バルトロマイ、マタイ(収税人レビ)、トマス、

アルファイの子ヤコブ、熱心党(宗教運動か、政治運動か不明)と呼ばれたシモン、

ヤコブの子ユダ、

それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダ。

 順序としては、フィリポの直前にアンデレを入れるのがマルコ。それ以外は、ほぼ同じ順序です。これは、後の教会で権威を認められた序列であろう、と考えます。

 

マタイ福音書は、関係のある者同士を組にして紹介します。マタイの名には、徴税人とつける。ヤコブの子ユダの名はなく、タダイが出てくる。

三福音書を書いた人の中では、マタイだけが選ばれた12人に入っています。それだけ交わりも深く、さまざまな事情を知っているのでしょう。そうした事情がこの特徴的な12人の名前一覧、となったのでしょう。

ルカは、余りそうしたことは知らないので、親密性は見られません。それだけに客観性があると認められます。知らないのを良いことに、教会内の序列をなくそうとしたのかもしれません。残念ながら成功しません。複数の人間がいるところでは、必ず序列争いが起きるものです。差別されている者は、差別する者になろうとします。侮蔑されれば、どこかで侮蔑する者になろうとします。教会は、世俗の身分地位による呼び方を捨て、兄弟姉妹と呼ぶことで、主の御前での対等を顕そうとしました。それでも人格の持つ力を消すことは出来ません。神の与えたもうものです。受け入れ、兄姉と呼び

ます。

 使徒信条は、この使徒たちに由来すると考えられています。全教会の基本です。大事。

古ローマ信条に基づきつつ、更に充実した信仰告白となっています。信条を持たないことに定められた教会も、この信条は認めます。私は、この信条を礼拝毎に暗誦、告白したいと願っています。

教会の中には、このほかにも12人の使徒に由来するものがたくさんあります。

使徒的伝承と呼ばれます。受け入れがたいものもあります。機会があれば、学びたい、と願っています。今日はここまでにしましょう。