2014年5月18日日曜日

幸福と不幸


[聖書]ルカ62026
[讃美歌]211,208,407、78、
[交読詩編]95:1~11、

「禍福はあざなえる縄の如し。人間万事塞翁が馬」。これは、中国伝来の格言。信仰の言葉とは違います。運命主義的に感じられます。本日の聖書は、マタイ福音書で有名な山上の教えのうち、至福の教え、そのルカ・ヴァージョンです。

それにしても、だいぶ違うので、別物として考えたほうが良いのではないか、と考える学者もいました。二つを比較しながら読んでみましょう。

 

文脈は基本的に同じです。

マタイは、四人の弟子たちの召命とイエスの宣教についての要約(マタイ41825)のあとで語られます。

ルカは、12人の召命とイエスの宣教の要約(ルカ61219)に続きます。

長さ、大きさはかなり違います。

ルカの説教は、マタイの長さの四分の一しかありません。共通に取り上げられる事柄には顕著な違いがあります。それでも、この二人が、共通の資料を使っていることは確か、と考えられます。

マタイは、諸福音書の他の部分に見られる資料を多く含んでいます。更に、その説教には解説が施されています。そのことから、研究者は、ルカのほうが彼らの共通資料により忠実に従っている、と結論します。

 

ルカでは、説教は平原でなされています。山上ではありません(マタイ51)

ルカにとって、山は祈りの場であり、そこで弟子たちを選びました。

ルカにおいて、イエスは人々と共にいるために平地へと降りてきます。

洗礼のときのように(321)、イエスはご自身を民衆と同列に、その一人のように扱われました。

 

マタイの群集は、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側からやってきました。

ルカは、民衆が、ユダヤ全土とエルサレム、またティルス、シドンから来ていた、と記しています。この海岸地方からの人たちは、ユダヤ人だけではなく、異郷の地、異教徒たちの存在を暗示しています。イエスの宣教が異教徒へも及んでいることを、ルカは積極的に認めようとしているようです。第二巻に当たる使徒言行録の構想を持っているルカです。

異邦人伝道の正当性の根拠を見出しているのでしょう。                                 

 

マタイは九つの幸福を挙げています。『九福の教え』と呼ばれる由縁です。

ある註解書は(クラドック)、「七つの祝福」と書いているが、その理由が分かりません。

ネストレーを見ると、マカリオイが九回繰り返されています。誤植だろうか、不可解。

マタイは、同じ言葉を繰り返し用いて、壮大なうねりを、流れを作り、力強さを感じさせます。

ルカは、注意深く、対照的に構成し、幸福・不幸を一対のものにして四組並べます。

ユダヤの文学は、正反対のものを一対に並べることをひとつの特徴としています。箴言などに見られます。わが国では、こうしたことは、お笑いの世界に良く見られます。桂三枝さんが、お笑いタレントを目指す若い人を指導している場面を、大阪のテレビが流していました。何でもいいから思いついた言葉を口にしなさい。関係ない言葉のほうが面白い。

それをいかにも関係あるようにしてしまうのです。頭が良いなあ、と思いました。

 

 ルカの組み合わせを確認します。貧しいー富んだ、飢えているー満腹している、泣いて

いるー笑っている、拒絶されるー受け入れられる、というものです。

これを読んで、感じることがあります。ここでは、マタイと違って、何かをするように促すことや、何かになるように勧告することがありません。ここでは、徹底的にあるがままの状況が語られているのです。

 

おそらくマタイの教会は、内的、霊的な危機に陥っていたのではないでしょうか。

自分たちは信じているから大丈夫、と言うような傲慢の罪であろう、と考えられます。

 

それに対してルカの教会は、現実的な貧窮・欠乏の中にあり、彼らを励ます力を、イエスの約束の中に見出したのでしょう。 更に、ルカ自身の傾向を考えることが出来ます。

ルカは福音書に続いて続編、第二巻を書いています。それが使徒言行録です。

使徒11は、はしがきになります。

1:12 「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。」 ここで、すでに書き記したものが、ルカによる福音書です。そして今、書いているものが、使徒行伝として知られるようになります。

 

この第二巻を読んで行くと、その中に、ルカ独自のバランス感覚が働いていることに気付かされます。とりわけ、ペトロとパウロの間でバランスを取ろうとしているようです。彼らの演説と奇跡の回数や分量を、同等にしようとしています。そうしたバランス感覚が働いて、幸いと災いの間にもバランスをとろうとしたのではないでしょうか。同じバランス感覚は、ユダヤ人たちのエルサレム教会と、異邦人たちを中心とするアンティオケ教会との間にも働いているように見えます。

ルカ自身は、マケドニア人、医者として伝道者パウロの後半生の活動を見聞しています。

パウロの教えること、その活動、アンティオケ教会のことに重点が傾いて当然です。それにもかかわらず、抑制を効かせ、エルサレム教会、ペトロの権威に敬意を払っています。

これが、幸福と不幸、祝福と災いを組み合わせたルカのバランス感覚かもしれません。

 

共通の資料を編集したことをもういちど考えてみましょう。イエスがこのままに語られた、としたらどうなるのでしょうか。

イエスにとって、この二つの相反するものが、遠く離れたものではなく、ごくごく近いもの、それこそ背中合わせの近さにあることを示しているかもしれません。

26節、満腹―飢えるように、笑っているー悲しみ泣くように、これは、わたしたちの現実です。実に良く起こることです。この教えは、あなた方に向けられています。

また、これら災いの言葉は、世間から賞賛され、認められているような弟子たちにも語られています。

 

災禍の中に陥っている人には、祝福が近いことを示して、希望を与え、励ましています。

どれほど暗い闇でも必ず明るい朝を迎える。明けない夜はない。

今、幸福に酔っている人には、その中に不幸の種がある可能性もある。不幸な人を見て、笑ったりしないほうがよろしい。喜びがもたらされたことを感謝し、分かち合いなさい。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。ローマ1215

これは倫理的、律法的勧告ではなく、信仰者の現実です。信仰があるかどうか、反省し、吟味することが(Ⅱコリント135)、求められるでしょう。

こうした現実はどこから来るのでしょうか。ルカは、伝道者パウロの後半生の主治医でした。ずいぶん多くのことを教えられたでしょう。そのパウロは、フィリピの信徒への手紙で、大胆に語ります。

11 わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。

12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。

13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

口語訳ですが、新共同訳では次のようになります。

「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」。これは、幸福であっても、不幸であっても、と置き換えることが出来ます。その秘訣はイエスを我が主キリスト、と信じる信仰

です。感謝して祈りましょう。