2014年5月4日日曜日

安息日に許されていること


201454
[聖書]ルカ6111
[讃美歌]211,205,321、
[交読詩編]23:1~6、

ここには二つの出来事が記されています。

第一は、労働禁止規定にそむいている、という問題。

イエスの弟子たちが、安息日に麦の穂を摘まんで食べた。これをファリサイ派の人たちが目撃しました。安息日は労働をしてはいけませんと教えられていないのですか。

ファリサイの人たちは、律法に詳しいことは確かです。それを専門に勉強し、実践しています。学ばず、知らず、行わない人たちは、同胞とは考えられないでしょう。彼らには、麦の穂をつまんで食べることは、刈り入れと脱穀という二つの労働でした。安息日に禁じられていることです。旅人が、畑から採って食べることは、申命2326が許しています。

だから、畑から盗んだことでは訴えられていません。

 

主イエスは、ダビデ王とその供の者たちのことでお答えになります。サムエル上2136に記されています。ユダヤの子供たちは、聖書を学んでいます。ダビデは偉大な王様です。成人しても憧れの的であったでしょう。

ダビデは、サウル王に仕えていましたが、その怒りを買い、殺されそうになります。サウルの息子ヨナタンの助力があり、逃亡します。(祭司の町)ノブの祭司アヒメレクと会うと、サウル王の密命で行動中、パンが欲しい、と言います。すると祭司は、聖所から取り下ろした聖別されたパンならある、と応え、これを与えます。

 

主イエスは、この誰でもが知っている出来事を用いて、安息日は誰のものか、と問われます。「人の子は安息日の主である。」この「人の子」を人間一般と理解すると、マルコ福音書のように、人間が安息日に拘束されるのではありません。安息日は、神の恵みのときです。労働からの解放を感謝し、讃美するときです。

この理解は、律法を限りなく破壊し続けることになります。

「人の子」はイエスご自身を指すものとも理解されます。ルカは、イエスこそ安息日の主であり、安息日の規定がいつ、どこで、どのように適用されるかを、決定される力を持つ方である、と主張します。

 

第二は、同様に、安息日に禁じられている癒しを行った、ということです。

この頃、主イエスは、力強く教え、また不思議な力をもって病気を癒すことで、評判が高くなっていました。安息日ごとに会堂で語り、癒しをなさっていたのでしょう。噂を聞いた律法学者、ファリサイ人たちが、イエスを訴える口実を求めてやってくるようになりました。そうしたある安息日のことが6節以下に語られています。

 

イエスご自身が、会堂の中で手の萎えている人の手を伸ばします。

この物語には、よく分からない点があります。手の萎えている人が会堂内にいたのか?

いたのでしょうね、障害は神の祝福から外れている徴、という考えがあります。イスラエルという宗教共同体では、仲間はずれになりました。

 

神殿では、この人たちは婦人・異邦人と一緒の場所、周囲の庭が居場所でした。

会堂では、内部に婦人の姿が描かれたものがあったようです。やはり、婦人・異邦人も会堂内に居場所を与えられていたものでしょう。彼らも会堂で教えを聞き、学ぶことが出来ました。おそらく目に付かないような隅の方です。そうした者にも、主は目を留められます。力弱く、退けられ、侮られているような人々こそ、主によって見出されています。

 

主は腕の萎えた人を、真ん中に立たせられました。そこで、人々に言われます。具体的には、律法学者・ファリサイ派の人々への質問です。「安息日に律法が許しているのは、善を行うことすなわち命を救うことか、それとも悪を行うことすなわち命を滅ぼすことですか。」答えがなかったようです。主は、ただ言葉を以って、この人の腕を伸ばされました。

 

これは、広く考えるならば、私自身の行い、生き方への問いかけです。私自身が、人のために良いことを行うのに、或いは他者の必要に仕えるのに悪い日などありはしない、という主張です。このことは、13章と14章で繰り返されるでしょう。

 

安息日とは何でしょうか。

一般的には、「神は七日目に休まれた」から、という神学的な理由が挙げられます(創世213、出エジプト2011)。「安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間働いてあなたのすべての業をせよ。・・・主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福されて聖とされた。」

おそらく、それだけではなく、生活上当然の理由もあっただろう、と考えます。労働者と動物には休みが必要である、という実際上の根拠です。出エジプト2312、申命51415に見ることが出来ます。

これらは律法であり、掟です。イスラエルはこれを忠実に守ろうとします。聖書は全てを想定し、規定しているわけではありません。伝承が、学者が詳細を教えました。

 

 彼らは律法の分析、適応に関する専門家、権威者でした。ファリサイ派は、それを学び、実行する専門家であり、それを誇りとしていました。

今、この会堂においてイエスが堂々と行ったことは、彼らの権威を、誇りをいたく傷つけるものでした。彼らは怒り狂います。イエスを何とかしよう、と話し合います。

今はまだ、大祭司が登場していません。祭司・大祭司が加わるとき、イエス殺害の企てが動き出します。

 

怒り狂う、とはどのような状況でしょうか。冷静な反応が出来ない、ということは判ります。過剰な防衛反応かもしれないと感じます。権威や誇りを守ろうとします。しかし、それほど守るべきものでしょうか。守る価値があるのでしょうか。

彼らが、このとき示すべきであったのは、癒された男の喜びを分かち合うことでした。ひとりの人が、イスラエルに回復されたのです。神のもとに喜びがあります。この喜びに与ることこそ、尊敬される律法学者、ファリサイ人です。

 

 イエスの言葉に対してわたしたちはどのように対応するでしょうか。怒り狂うことはないでしょう。しかし適当の自分のうちに取り込むだけではないでしょうか。そして、自分はこれだけ従っているから、これで良いのだ、と満足する。

 安息日に、何が許されているか、決定するのは主イエスだけです。

「人の子は安息日の主です」と言われた意味を良く考えなければなりません。

キリスト・イエスは、わたしの全生活の全領域で主なのです。