[聖書]ルカ10:38~42
[讃美歌]507,204,456、
[交読詩編]62:2~23、
前週は、高橋俊男さんの海洋散骨葬のため、羅臼への出張をご許可いただきました。
散骨は、初めての経験です。散骨葬をしても良いか否かに始まり、さまざまなことを考え、経験することができました。感謝いたします。これまで、小樽、八雲町、定山渓・洞爺湖・支笏湖、層雲峡、栗山町、などへ行きました。函館は、赴任前に寄っています。今回は、北海道経験が一気に拡張されました。
7日午後新札幌を出るJRで、知床半島の羅臼を目指して移動を始めました。老人に深夜バスは無理です、一泊してください、と言う役員会の助言により、釧路泊まり。
8日午前11時過ぎ羅臼に到着、午後3時45分、小型の観光船「エバーグリーン」に乗って沖合いを目指しました。シャチ、鯨、イルカが来遊する海域です。海洋動物を愛した故人の遺骨粉の袋を海に投じました。当人の遺志をご遺族が忠実に実施しました。その向こうには国後島が見えます。30㌔と聞きますが、本当に直ぐ近くに見えます。
9日は、荒天の予備としてありましたが、雨が断続的に降り、ホテルで休養。高橋さんご一家は、バスで、峠を越えてウトロへ行かれました。
10日は、ご一家は雨の中、徒歩で出発、釧路経由で厚別へ。私もホテル前からバスに乗り、知床横断道路でウトロを目指しました。乗客は、終始私だけ。驚きました。これでは路線廃止、多くの観光客が、地元の人が不便することになるのでは。着いてからツアーバスに乗って知床五湖のひとつを見学。海に落ちる『乙女の涙』フレペの滝も。夜は、知床第一ホテルで、北見から来た若い友人の木村志門さんと食事。
11日は、先ず浦幌海岸でカヌーを調べる。海が荒れている、とのことで諦める。オシンコシンの滝を見る。鮭鱒孵化場があり、川を登る鱒を見る。清里町の焼酎会社(町産のジャガイモを原料に『浪漫倶楽部』を生産)に立ち寄り、摩周湖の伏流水が湧いている《神の子池》、摩周湖を見て、釧路湿原で丹頂鶴を捜し、12倍の双眼鏡で見つけました。と言っても二つの動く白い点だけです。肉眼の他の人たちは、騒がないところを見ると、見付けられなかったのでしょう。この道中、エゾシカは何回も見ました。虹別は酪農の町、其処では牧草地にシカが入り、食事中。キタキツネも一回。赤ゲラも、すぐ目の前に来てくれました。羆は期待もあったのですが、残念でした。釧路の和商市場で勝手丼、更に白糠でラーメンをいただき、その夜9時過ぎに木村さんの車で帰り着きました。道央部に集中豪雨、と言うことでしたが、途中たいした降りもなく、無事でした。
出張を機に、ゆっくりして来てくださいと役員会で言われ、夏休みの気分でした。
余分な話ですが、私の喜びを分かち合いたい、と願いお話しました。お許しください。
この旅では、三軒のホテルのお世話になりました。そうした機会に、いつも感じるのは、
笑顔の大切さです。はじめは、こちらも緊張しています。その時、笑顔が生まれるような会話が始まると、皆が笑顔になり、ごく自然に「有難う」、の言葉が出てきます。話が続くと、大事な情報を聞くことが出来たりもします。水曜日の朝、高橋さん一家が出発するのを見送り、ホテルの玄関に立っていると、従業員の一人が、『お連れ様は、雨の中歩いてご出発ですか』と聞きました。そして、「ご相談くだされば何とかしましたのに」と言うなり、車で出て行きました。街中のバス乗り場まで送ってくださる、とのことでした。お客さんと従業員という関係ではなく、有難う、と感じ、感じさせる笑顔があると、約束外のサービスも生まれます。笑顔と感謝は拡大再生産されるものです。
本日の聖書は、譬え話ではありませんが、ルカ福音書特有のものです。
ベタニア村は、エルサレムから山ひとつ、越えた辺り、と考えられています。
「ヨハネ11では、エルサレムから東へ25丁(原文は15スタディオン、2,7キロ)オリブ山の南東麓に建てられた村。ラザロの名にちなんでエル・アザリエと呼ばれ、現在は人口700人(50年前のこと)。主として回教徒・イスラムである。住民は魔よけのため、魔が恐れるという青色を入り口の鴨居に塗り、室内の壁には青色の手形をやたらにつける習俗を守っている。」(この項、馬場嘉市)
ここには、1951年に発掘されたマルタとマリアの家の跡があり、フランシスコ会の美しい『ラザロ教会』が建てられている。その近くには、岩床掘られた地下洞窟にラザロの墓がある。青い塗装に触れる学者は少ないし、的外れになっていることがあります。今でも中近東の町には青色に塗られた家を見ることが出来ます。特に玄関や窓枠を青く塗っています。これはイスラムであることの徴であって、美的センスではないそうです。
マルタとマリアの姉妹は、ヨハネ11:1以下にも登場します。其処に登場する兄弟ラザロについては語られないのはどうしたことでしょうか。福音書記者にとって、ここで伝えようとすることとは関係を認めないからでしょう。譬え話で「削除と集中の原則」がある、とお話しました。出来事を伝えるときにも、同じ原則を用いているようです。ここはマルタとマリアの出番。ラザロには全く違う出番があります。ラザロは削除、姉妹だけに集中。
姉のマルタはもてなしを担当、妹のマリアは客人・イエスの傍らで話を聞いています。
マルタは、イエスに不満を漏らします。「私だけが働いている。手伝うように言ってください。」不公平、不平等と言うことでしょうか。
風習が違うのかもしれません。お客様が来たとき、お相手をする者、お茶などの仕度をする者に分かれるのは当たり前、と感じます。
もう一つ、お客様に、このような不満を漏らすのは、よほど親しい間柄なのでしょう。それにしても甘えがある、と思います。
さて、このマルタ、マリアの問題、或いは同様な関係は、教会の中でもよく起こります。
表面化しないこともあるし、現れてくることもあります。一般的には、働きは分け合い、担い合いましょう、となります。
ある地方教会の牧師は、青年達を良く育てました。「君達は、やがてここを出て他の教会に所属するようになるだろう。その時、その教会でなくてはならない働き人になりなさい。」
この言葉で育てられ、よい働き人、奉仕者が生まれました。素晴らしいと思いました。
よく出来る人たちです。仕事が其処に集中します。お願いしまーす、と言って帰ってしまいます。独占したら、なくてはならない人になる。それでは困ります。
この牧師は、独占を教えたのではなく、共有することを教え、下支えすることを教えたのではないでしょうか。人が持っている気質の違いかもしれません。
ある学者は、このところに『気質の違い』、という題を付けました。しかし、主イエスはそうは言っていません。それは一部のことであり、主題とはなし難いものです。
42節には問題があります。写本の違いです。あるものは「必要なものはひとつである」他のものは「必要なものは僅かだけ、あるいは一つしかない」となっています。
主が言われる「必要」とは何でしょうか。マルタは、女主人としておもてなしを充分に、と考え、多くの料理を作っているのでしょうか。それでもおもてなしにもいろいろあるはずです。暑い渇いた日のもてなし、寒く湿った日、遠くからの客人へのもてなし、など様々です。料理に限ったものではないでしょう。
僅かしか必要でない、ということもたった一つだけしか必要ない、という意味でしょうか。おそらくここで告げられようとしているのは、本当に必要なことは食卓に乗せる料理ではなく、神のみ言葉こそ本質的に必要なものである、ということです。私達が生きるのは、パンだけによるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によるからです(申命8:3、ルカ4:4、ヨハネ6:27)。
イエスは、この直前、神の言葉を聞くことが出来ずにいる、聖書に通じた一人の男、聖書の専門家に会いました。問答の中で、彼に「サマリア人の譬」を語りました。
いまや、イエスは、もてなしに忙しくて、言葉を聞かない女のもとを訪れたのです。
イエスは、仕えるために来られたのだから(マタイ20:28と並行箇所)、彼のそのみ業を受け入れる者こそイエスを完全に敬うことになります。ここでマリアがしているように、イエスに聴く時、人はイエスの奉仕を受け入れることになります。
時を見分けるものは誰か。時の主は誰なるか。
すべてのことに時あり、期あり(コヘレト3:1以下)