2014年9月21日日曜日

祈りは学ぶもの


[聖書]ルカ11113
[讃美歌]507,529,493,77、
[交読詩編]119:73~80、

 

本日の聖書は、イエスの弟子の一人が主イエスにお願いした場面となっています。

洗礼者ヨハネは、自分の弟子達に祈りを教えていたことがわかります。これは、古代からユダヤに伝わる伝統である、と考えます。イスラエル・ユダヤ人たちは、嬉しいとき、苦しく悲しい時に神に語り掛けました。これが祈る伝統です。

旧約に詩編150編があります。連続で説教したことがあります。飛び飛びですが最後まで来た時、この詩編は、古代ヘブライ人の祈りである、と考えたものです。伝統だから誰でも祈ることができる、とは行かないものです。この詩編を暗誦することで祈りを学んだのです。

 

 私たちの教会では、無意識の内に祈りを避けるようなことは少ないようです。お祈りをお願いします、と言われて拒絶する人が少ない、と感じています。確かに、人前でお祈りする、と言うのは恥ずかしい部分があります。神様との密室での対話を公開する感じです。

 然し、祈りは、個人的なものであると同時に、公的なものでもあります。一方に密室の祈りがあり、他方に公的な、公同の祈りがあります。公同の祈りでは、そこにいる皆がアーメンと唱えることができるような内容、そして言葉が用いられるように勤めたいものです。日常の密室の祈りでも努力し、自分を訓練することも大事です。祈りは学ぶもの。

アシシのフランシスは、美しい立派な祈りを残しました。弟子ベルナルドゥスが真夜中に見たフランシスは、ああ主よ、ああ主よ、と繰り返し、涙を流すのみだったそうです。

 

 私たちの時代、教会によって二種の祈りがささげられています。成(式)文祈祷と自由祈祷です。聖学院大学の宗教主事は聖公会の女性信徒。「教団の先生方は、よくアンナにすらすら自由にお祈りされますねー。私は、とても怖くて出来ません。」

聖公会やローマ教会は、式文祈祷です。祈祷書があり、それに従って祈りをささげます。

公的な礼拝、個人的な生活でも「七品の秘蹟」に関わる部分は、これで十分です。式文に記載されていないことに関するとき、どうするのでしょうか。祈りは不要?

カトリックでは、「洗礼」、「堅信」、「聖餐」、「告解」、「終油」、「叙階」、「結婚」の7つを言います。

 洗礼は、キリスト教徒になる事。堅信は、キリスト教徒であることを確認すること。

聖餐は、キリスト教徒であることの儀式。告解は、罪の赦しを得るための儀式。

終油は、死ぬ人、または病気の人に行う儀式。叙階は、聖職者を任命する儀式

結婚は、そのまま結婚です

これらは、1439年にフィレンツェの宗教会議で定められました。

プロテスタントでは、聖餐と洗礼のみをサクラメント(秘蹟・聖礼典)としています。

 

式文祈祷は、それで充分とはいえません。目標があります。必要に応じて自由に祈れるように訓練することです。繰り返し式文を読むことで、祈ることに習熟し、お捧げする言葉を自分のものとすることが出来るでしょう。母教会は、水曜夜、聖研祈祷会を大事にしました。聖研というよりも、信徒が証しをすることを重んじました。そして祈りました。何時のころからか、形式化し、担当者だけが話し、数名が祈って終わるようになりました。生命的なものが消えていったのです。それでも消えないものが残りました。その時各人の心を捕らえて放さないもの、命の喜びが残りました。

 

『祈りの学校』と題された一冊が書棚にありました。今は隠れていて出てきません。

記憶では、福田正俊先生が書かれたもの。非常に堅い先生が、柔らかいタイトルをつけておられるので、何か理由があるのだろう、と考えました。主の祈りの講解でした。当時の私にはお堅くて、敬遠。熟してから読もう、と考えていました。

祈りは訓練されるべきもの、と語るのでしょう。同時に、祈りによって学ばれることについても教えてくださったはずです。祈りによって生まれ、育てられるものは何でしょうか。

この学校の教師は、先生は何方でしょうか。

 

最近、ローマ教会の修道会では、「祈りの学校」という運動があるようです。目指すものは、次のように表現されています。

「内なる静寂 な生活を探求し他者を労る心と、日々の感謝の心に目覚める霊性的なる生活を行う事を 目的としております。」

 

「祈りの学校の訓育を主宰するのは、祈りの霊であります。彼は各種の主題を与えないで、計画的にわずかの中心的なことに集中します。祈りに熟達するには、いろいろ多くの題目に精通する必要はありません。」

(『祈り』O.ハレスピー著、東方信吉・岸千年訳185〜187頁より引用。

 

ルカによる福音書1818に「失望せずにつねに祈るべき」ことが勧められています。

 

パウロは勧めます。

「希望を持って喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」ローマ1212

 

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

Ⅰテサロニケ516

 

祈ることに関して、教えられてきたことは幾つもありますが、その幾つかを。

自分の内に静寂な心があることを知ること

祈りは、たとえ短い時間であっても続けること

自分のことばかりでなく、周囲の人々、世界を覚えて祈ること

とりわけ悩み、悲しみ、苦しみの中にある人を覚えること

皆で祈るときは、祈りの輪を作るようにすること

神讃美で終始すること

私たちも祈りを学び、信仰の生活を進めたいものです。

感謝して祈りましょう。

 

 

主よ、祈ることを教えてください、と弟子達は願いました。今、私たちも願います。主よ、祈りを教えてください。御霊自ら、言い難き嘆きを以って、われらを執り成し、祈りが受け入れられるように整えてください。そして全世界の民が平和の内に生きることが出来ますように。大きな災害や戦争が続いていますが、互いに支え、力を合わせ、乗り越える道を見出すことを得させてください。