2014年9月7日日曜日

行ってあなたも同じように


[聖書]ルカ102537
[讃美歌]507,12,474、
[交読詩編]40:2~12、

 

ルカ福音書は、他の福音書には見られない特有の譬話を持っています。

愚かな金持ち12章、失われた羊・銀貨・息子たち15章、

不正な家令・金持ちとラザロ16章、パリサイ人と収税人18章、ミナ191227

そして、先程、お読みいただいたのは、《善きサマリア人の譬》Good Samaritan

大変よく知られています。ルカは、10章から19章にかけていくつもの譬を配列しました。

マタイ・マルコにもありますので、大小長短合わせて60篇の譬になります。これらによって、イエスは、譬の名手、という評価が定まっています。

こうした箇所を話すことは難しい。話し手も聞き手も、ああ、わかっている、あれだろう、とばかりに多寡をくくる。そういう姿勢は良くない、と言っても、そうではないことを話せるか。難しい、とりわけ自分程度の能力では。

 

 譬は、どのように語られ、聞かれてきたのでしょうか。

はじめ主がお話しになられたときは、譬についても、解説しておられます。第8章『種を蒔く人の譬』です。譬を用いる理由は、ある人々には、解り易くなるだろうが、ある人々にとっては、真理が隠され、解らなくなるためなのです。ということでした。

譬の研究は、解らない、隠されている秘密を探し出そうとすることから始まりました。

 

古代の教会では、譬の細部に、多くの意味を見出そうとし手研究の歴史が始まりました。

イエスが譬を話したその時代に、その背景の中に戻してはどうか。

背景とは、「神がその民を訪れ贖われた、神の偉大な終末的行為として理解されるイエスの伝道である。」AM.ハンター、55p

すると、主御自身が伝えようとした目的、内容が明らかになるはずだ。

殆どの場合主は、ひとつの譬においてひとつのことを語っておられる。

其処では、譬の細部は物語を造作するための舞台であることがわかるだろう。

 

今風の言葉で言い直してみましょう。譬は、そのとき、その場で、その人たちに向けて語られたもの。その場で、直感的に理解されるもの。詳細な研究から生み出されるような、細部に関する特定の深い意味はありません。よく言われます。ルカ8章で、種まく人の譬が話される。話し手、聞き手が目を上げると、向こうにその種蒔きの光景が、実際に広がっていたのではないでしょうか。それほど、具体的、実際的であり、頭の中でこしらえたものではありません。

 

古代の解釈の実例をご紹介しましょう。

オリゲネス(185254年)、アレキサンドリア、神学校長、説教家。

聖書には少なくとも三つの意味がある。人間が体と魂と霊であるように、どの聖句も、字義的意味、道徳的意味、および霊的意味を同時に持つことが出来る。

 強盗どもの間に倒れた人はアダムである。エルサレムが天を意味するから、旅人が向かって行くエリコは世界を意味する。強盗どもは人間の敵、悪魔とその手先である。祭司は律法、レビ人は預言者を代表する。善きサマリア人はイエスご自身である。傷ついた男が乗せられた獣は、堕落したアダムを負うキリストの体である。宿屋は教会、デナリ二つは父なる神と御子、サマリア人の再訪の約束はキリストの再臨である。ハンター33

見事です、芸術的といっても良いでしょう。どう言っても面白いですね。面白い

 

アウグスティヌス(354430年)は、その上を行きます。

傷ついた旅人は、その神認識のゆえに半ば生き、その罪への隷属のゆえに半ば死んでいる堕落した人間である。彼の傷に包帯をすることはキリストによる罪の抑制で、油とぶどう酒を注ぐことは、よき希望の慰めと活発な業への勧めである。宿屋の主人は微行をやめれば、使徒パウロであることが示される。デナリ二つは愛の二つの戒め(神を愛せよ・申命65、隣人を愛せ・レビ1918)であることがわかる。 ハンター35

   

パウロは、律法全体が隣人愛というテーマに要約されることを述べています。

(ローマ1389、ガラテヤ514

 

 その後、長い研究の歴史があります。時間の都合があります。省略、またの機会を。

現代に到るまで、多くの学者は譬の主題がひとつである(ユーリッヒヤー)ことでは一致しています。然し、それが何か、と言う点では意見が分かれています。

 

律法の専門家が、イエスに質問します。一応、この人は律法を解釈する専門家、と考えられます。専門家にもいろいろあります。実践者、調査者、分析者、研究者、教育者、運営、管理、企画、広報、経理など。いつの間にか、Jサッカーの世界で考えていました。

この人が実践者ではなく、様々な解釈を研究し、教える専門家、と考えられています。

 

 永遠の生命を得る道に関する質問です。何をしたら・・・

専門家です。既に答えをもっています。何故こんな解っていることを聞くのだろうか。

ルカは、そのような疑問を持ったのでしょう。彼は、イエスを試みようとしたのだ、と書きました。

主イエスは、問い返されました。律法にはどのように書いてあるか。

答えは二つの愛の戒めです。(神を愛せよ・申命65、隣人を愛せ・レビ1918

そして、それを実行しなさい、と言われて、彼はもう一度質問します。

「私の隣人とは誰ですか。」彼は、自分が実行していないので、隣人を少しでも限定しようとしました。彼の動機は自己愛です。立場・地位・名誉などの保全が狙いです。それゆえ主は譬を以って応えます。真理を隠すような形になるのでしょうか。それとも逆?

 

 ある人、ユダヤ人です。下って行く、と言うことに「堕落」を見ていた時期もあります。

それは不用と考えます。むしろ、このエリコへの道は、険しい箇所があり、屈曲し、追いはぎ・山賊の類が出没することでよく知られています。どのような事情があったのでしょうか。単独は危険です。隊商を組む、護衛を伴うことをしなかった。自己責任を果たしていません。

こうした事情を、主は少しも語ろうとしません。イエスの譬の凄みは、話の適当な速さ、スピード感にある、と感じます。それを損なうような細かなことは、大胆に切り捨てます。聞き手が関心を持つだろうことであっても、通過されます。削除と集中の原理と言いたい、と考えています。

「半殺し」、おそらくユダヤ人が教えられている血の流出がある状態です。血は命、生命が流出しています。血に触れることは汚れることでした。

 

 通りかかったのは祭司。聖なる仕事に携わります。聖なる状態でいることが求められます。身を清く保つことは義務でもあったはずです。レビ人、彼も祭司のもとで神殿の礼拝に仕えています。彼らは、共に、聖なる勤めを選び取りました。神と民衆への義務を果たしました。倒れているユダヤ人同胞の姿に、罠を感じたかもしれません。善意で助けようとしたところを隠れていた賊が襲う、ということは普通だったようです。

主イエスは、この二人に関して淡々とその行動を語られました。それに対する評価はなされていません。非難もしていません。

 

次にサマリア人が来ました。

サマリア人は、紀元前722年のアッシリアによる征服の後に、この地を支配していた人々(とユダヤ人との)間に生まれた者たちの子孫です。彼らは、神殿とエルサレムの再建に反対し(エズラ425、ネヘミヤ219)、ゲリジム山の上に自分たちの礼拝の場を設けました。サマリア人は、(正統派ユダヤ教の)儀式からすれば不浄な存在であり、社会的には見棄てられたものであって、宗教的には異教徒になっていました。

よく、犬猿の仲、と言われますが、それは対等の立場に立って喧嘩していることです。

然し、ユダヤ人にとってのサマリア人は、それ以前の関係です。サマリア人を人間以下のもの、汚れたもの、インドでの不可触賎民のように扱いました。彼らの住む土地には足を踏み入れない、ということもありました。エルサレムからシリアのダマスコへは、ダマスカス門を出て、北へまっしぐらに進むのが近道です。ところが、その途中にサマリアがあります。熱心なユダヤ教徒は、この道を行かず、西の方海岸沿いか、東の方ヨルダン川の向こう岸を進んだものです。

 

このサマリア人は、汚れも危険も知っているはずです。一人で来ています。急ぎの仕事があったかも知れません。祭司、レビと余り変わらないのですが、大胆かつ丁寧に、徹底的にユダヤ人のお世話をしました。

ずいぶん昔のことになりますが、三浦綾子さんの対談を『信徒の友』で拝見しました。

うろ覚えですが、人に親切にすることについての話となり、三浦さんは裏切られたことがない、と言い切ります。そして、親切は徹底的にするべきです、裏切られるのは親切が不徹底・中途半端だからです、とその中で語っておられました。このサマリア人から学んだこと、とも仰っていたように記憶します。 

 

イエスは、律法学者の質問に答えていません。お答えにならない、ということが真理

なのです。真の愛、イエスの理解するアガペーは、制限を求めず、ただ機会だけを求めます。律法学者の、自己正当化のための問には答えません。

このことをハンター114は、次のように書いています。

「混血の異教徒のほうがユダヤ民族の柱石よりもよく神の律法を履行している。友よ、これが隣人愛というものである。もしあなたが永遠の生命を望むならば、こういう行為を神はあなたに求められるのである。」

 

すべての人間は、神の手によって造られたものです。神はそのお造りになったものを等しく愛されます。その故に人は愛を知り、互いに愛し合うことが出来ます。其処では自己正当化も、隣人の限定付けも無関係です。

 

キリスト教倫理としては、このように考えればよいのだろう。然し、主イエスが譬によ

って福音を話されたとしたら、どこに良い知らせがありますか、と問い返したくなります。譬によって福音の真理は隠されたのではないでしょうか。解りにくくされている。

福音は、分け隔てなく神の愛が注がれていることでしょう。