2015年1月11日日曜日

放蕩息子

[聖書]ルカ15:11~32、
[讃美歌]289,6,431
[交読詩編]84:6~13、

 

15章で読まれる三つの譬は、なくしたものを見つけた喜びについて語っています。

はじめの二つは、よく似ているので一緒に扱われることが多いようです。三つ目は、その前の二つによって準備されて登場し、罪を悔いたものが戻ってくるのを喜び迎える愛に満ち溢れた父親の物語である。10章の「良いサマリア人の譬」と並び称される傑作です。

ある人々は言います。「最も優れた短編、完璧な小品、想像力に富む芸術作品、短編物語中の最高傑作、福音書の中の真珠」。絶賛の嵐、しかし、正しく理解されてきたのだろうか。

 

 芸術家の制作意欲を刺激してきました。

『放蕩息子の帰還』オランダの画家レンブラント・ファン・レインの大作絵画(1666-68)。原題《Terugkeer van de Verloren Zoon》。新約聖書に登場する放蕩息子の逸話を描いた、晩年の代表作の一つ。サンクト・ペテルブルク、エルミタージュ美術館所蔵。

バッサーノ、プーサン(マドリード・プラド美術館)、ムリーリョの連作(プラドおよびアイルランド・ナショナル・ギャラリー)、ロダン、アンドレ・ジード台本、ダリウス・ミヨー音楽、ポンキエルリはオペラ。

『放蕩息子』(ほうとうむすこ、仏: Le Fils Prodigue )は、バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)による最後のバレエ作品、またセルゲイ・プロコフィエフによる同バレエのための音楽(作品46)および交響組曲(作品46bis)。その音楽の一部はプロコフィエフの『交響曲第4番』に転用されている。他にドビッシーの音楽も。

 

「放蕩息子」という題名は、随分古くからのものだろう、と考えます。近年、異論が強くなっています。あくまでも主人公は、二人の息子の父親です。内容の強調点も、この父親の息子たちへの愛であって、決して放蕩息子ではない。あるいは、放蕩ですらないのです。タイトルとしても、「息子を迎える父親」「父の愛」などが適切である、と言われます。

あるいは、父親の二人の息子のうち放蕩息子は誰か、と言う意味で、このタイトルがあるのかもしれません。「帰ってきた放蕩息子」「父の手元にいた放蕩息子」「父の愛は誰に向けられるか」、いろいろ考えても、なかなか父の愛を考えることになりません。主人公は、二人の息子ではありません。「待っている父」です。

「父は愛するから『待っている』のであり、父は神を意味するからである。」

罪人を赦す神が、この譬の主人公なのです。

 

そこで私たちは、放蕩息子から考え始めましょう。

放蕩息子[名・形動](スル) 思うままに振る舞うこと。特に、酒や女遊びにふけること。

また、そのさま。「―な息子」「―したあげく身代を潰す」

どら‐むすこ【どら息‐子】 怠け者で、素行の悪い息子。道楽息子。放蕩(ほうとう)息子。

飲み、打つ、買うの三拍子そろった放蕩もん、という言い方がありました。

宗教や政治、或いは骨董、芸術(パトロンを含む)なども道楽に含まれました。

「酒、女、賭け事を知らずに百まで生きた馬鹿がいた。」私が聞いた大学教授の言葉。生真面目に見える先生でした。学生は大いに喜んだものです。その真意は、何事も経験せよ、それを乗り越えよ、と言うことにあった、と考えます。

若い時は、これらの誘惑に負けてしまうことが多く、近づかないのが一番よろしい。危険薬品・ドラッグ、に近寄るな。「君子、危うきに近寄らず。」しかし、向こうから近寄ってくる時どうするか。間違って足を踏み入れてしまったらどうする。時には、法テラスに相談する必要もあるでしょう。そうして結論的には、「逃げるが勝ち」。

 

 この譬は、151と同じ状況、舞台で話されています。少なくとも、ルカはそのように設定しています。徴税人や罪人が同席しています。それを見て批判しているのは、ファリサイ人や律法学者たちです。羊が見つけられた譬、見つけられた銀貨の譬を話し、続いて、この譬を話されます。この譬が意味することは、誰もが理解できます。しかし、誰もが、意味されていることを聞いて、理解し、受け入れるものではありません。自分を正しいと考え、信じている人たちにとっては、耳障りの悪い話です。拒絶してしまいます。

 

 さて、この譬の聞き手には、私たちも入れられています。最初の聞き手と同様に理解できているでしょうか。当時の常識は、私たちには通用いたしません。いくつか確認しましょう。

 

 この年若い息子は、何故財産を請求したのでしょうか。親元から離れて自立するため。

自由になりたかったから。こうした青年期特有の精神・心理状況から説明されることが多いようです。彼は財産が分与されると、時をおかずそれらを処分しています。中には土地も入っているはずです。イスラエル人の土地は、神から与えられた嗣業であり、他の部族に渡してはならないものでした。恐らく、彼が受け継ぐべき土地を狙っていたものが、そそのかしたのでしょう。素早い処分が理解できます。

 息子の側にも、何らかの動機があったのでしょう。全ての結果には原因があるものです。

彼は親からの自立を求めた。その実態は何か。勝手気ままな生活を求めていた。放蕩三昧に身を持ち崩すことになります。外へ出て、自立できる人であれば、親元にいても自立的に生きることが出来ます。

 

 「財産の分け前」を父に求めます。現代では生前贈与を求めた、と考えられています。

イスラエルの慣習では、遺産の相続は、長男が、他の息子の倍を取ることが出来ることになっています。弟は遺産の3分の1を受け取ったことになります。

 

「遠い国へ旅立ち」イスラエルにとって、エルサレムとユダヤこそ神いましたもう所。

主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、 1:2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。 1:3しかしヨナは主の前を離れてタルシシへのがれようと、立ってヨッパに下って行った。ところがちょうど、タルシシへ行く船があったので、船賃を払い、主の前を離れて、人々と共にタルシシへ行こうと船に乗った。ヨナ書1:1~3、

距離だけではない。神の顔を逃れたところ、神から離れたところへ行ったのだ。

現代人は、神のいないところで、勝手気ままに生活することを求める。そのために、神は死んだ、と言うのではないでしょうか。

 年若い息子がどのように財産を費消したか、「放蕩の限り」、「娼婦どもと一緒になって」30節。芥川は、『杜子春』の中で、同様なことを、詳細に書いています。

財貨が豊かな時は、多くの客があり、宴を共に楽しんだ。それが尽きてくると、誰も近寄

らないし、声をかけてもくれず、全く助けてくれない。人間の薄情さでした。

 主イエスが、ルカが、こうしたことを主題と考えていたなら、もっと詳細に語ることが出来たでしょう。残念なほど淡白です。

「豚の食べる いなご豆」、豚はユダヤでは汚れた動物。反芻しない、蹄が割れていない。

この青年が如何に窮迫したかを示すもの。また同時に、彼が異教徒の国へ来ていたことを示す。イスラエルの神ヤハウェを棄てた者は、当然、苦しむ。苦しみの中でだけ、本心に立ち返る。

 

17節「我に返って」、口語訳は、本心に立ち返って。人間の本心とは何か。どのようなものか。彼が、どのようなところへ進むか、見ればわかるでしょう。

父の存在を思い起こします。父が与えてくれるものを思い出します。自分が、その父の息子であったことを思い出します。それらすべてを自ら捨て去ったことを思います。自分は、もはや息子ではないが、雇い人の一人にしてくれるかもしれない、と気付きます。これが、年若い息子の本心です。

こうして彼は、家路に着きました。空腹を抱えて、物乞いをしながら、彼方に家を認めたころです。父は、その家の何処にいたのでしょうか。息子が帰ってきたことを知り、彼を迎えようと走り出てきました。よく門前にいたように語られますが、むしろ二階または望楼から毎日見ていた、と考えます。それにしても、全く様子が変ってしまった者を、よく見分けたものだ、と思います。

父は、愛する息子を待っていました。自分を捨てて出て行った息子を、なお愛し続けているのです。背いた息子であっても、なお愛しているから見分けることが出来、迎え入れることが出来るのです。

 

帰ってきた息子を迎えて、祝宴を始めます。良い服、指輪、履物、子牛、言葉を連ねます。放蕩に関する記述と比べると、やはりこちらに比重がかかっていることが感じられます。最後にイザヤ書55:7を読んで終わります

「主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。

私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」