2015年1月18日日曜日

親孝行な息子

[聖書]ルカ15:11~32、
[讃美歌]289,210,433,77
[交読詩編]101:1~8、

前回に続き、いわゆる『放蕩息子の譬』の後半部分から福音を学びます。

放蕩息子の回心、こういう話しはどこかで聞いたことがあるでしょうか。

聖アウグスチヌスは、若いころ放蕩の限りを尽くした、と言われている。

聖フランチェスコが金持ちの道楽息子で、それこそ放蕩の限りをつくし、名誉欲のために戦争に加わり、おそらく殺人さえもしたであろうことは、よく知られている。

聖人、英雄、天才といわれる人々には比較的よく付きまとう逸話です。

 

本心に立ち返った若者が、父の家の雇い人の一人にしてもらおう、と考えて帰って来ました。その姿を遠くから認めた父親は、駆け寄って我が家に迎え入れます。そして一人の息子として歓迎し、子牛をほふり宴会を開きます。

 

この息子の考え方には、大事なものがあります。彼は、次のように言っています。「私は、天に対しても、お父さんに対しても、罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。」

天の父に対しても、地上の父に対しても、罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。資格喪失するような一つの罪を犯した、と認めます。しかもそれを二つの側面から見つめています。これは私たちの生活においても当てはまることです。

 

 ひとつの罪があります。それは神に対するものである、と同時に隣人に対するものである、ということが多いのではないでしょうか。「約束」を考えて見ます。人と人の間の約束、それを守らなかった時、人に対して罪を犯しました、と考えるでしょう。約束には時間や能力の行使が伴います。それらは誰のものでしょうか。私たちにとっては神に属するものです。それを無駄にしてしまったのですから、神に対しても罪を犯しています。面倒くさいから、出来るだけそのようには考えないようにしているのではないでしょうか。時として、良心的になると、このことに気付き、悩みます。そして、考えることをやめます。

 

 父親は、多分、息子のこうした考えを聞いて喜んだでしょう。しかしそうでなくても、歓迎したに違いありません。譬の中で、息子の言葉に対する父親の態度を顕わすために、「それにもかかわらず」と言う意味で、アッラ よりも強い デを使っています。「帰ってきた息子はこう言った、にもかかわらず父は、こうした。」となります。

愛に満ちた父親です。その愛は、息子の言葉通りにするだけではありません。雇い人の一人にするのではなく、息子の地位を回復しました。

 

もう一人の息子、年長の息子が畑から帰ってきました。毎日毎日単調に見える農作業、実はからだと共に大変神経を使う労働です。家に近づくと、疲れている彼の耳に宴会の物音が聞こえてきました。「音楽や踊りのざわめき」家で働く僕に訊くと、なんと弟息子が帰ってきたのを喜んで祝宴を開いている、と言います。しかも、子牛をほふっているとのこと。これを聞いたこの息子は、腹を立てました。怒り心頭です。「アンナ奴のために祝宴か、この俺様をなんと思っているんだ、馬鹿にするのもいい加減にしろ」。弟に対する怒り、嫌悪感があります。

そればかりではありません。大甘の父親、に対する怒りが見えます。

財産を使い果たし、尾羽打ち枯らした姿で帰ってきた息子、すこしは懲らしめが必要だろうに、なんと肥えた子牛を屠り大ご馳走。その上、音曲付だ。音楽、踊り、一体何様だと言うのか。

雇い人の言葉も気に入らない。「弟さんが帰ってこられた」何を言うか、アンナ奴、弟なんかじゃあないぞ。財産を貰って、出て行ったんだ。あいつの分はこの家には、何もないのだ。そんな奴、弟のはずがないじゃないか。

 

父親は、家に入ろうとしない長男の様子を知らされたのでしょう。出て来てなだめます。

しかしこの息子は、聞き入れようとはしません。その主張は、自分は、父に仕えて一度もそむいたことがありません。親孝行を尽くしてきました。これが基本です。ああ、それなのにそれなのに・・・。友達との宴会のために小山羊一匹すらくれなかった。なんと冷たい父親だ。食い物の恨みは大変強く、執拗に、長く消えないものです。恨み節は更に展開されます。

 「ところが、あのあなたの息子が」、この譬の白眉とも言えるでしょう。この息子と帰ってきた息子は、同じ父・母の子供、と考えられています。紛れもない兄弟。それを『あなたの息子』と呼ぶ。もはや、自分の弟ではありません、との意思表示。それも今始まったことではない。財産の分与を求めた時から始まっているのではないでしょうか。無理もない、とは思います。兄にとって弟は、血のつながり、守るべき対象、財産を分かち合う相手でした。家を出て行ったとき、大部分のつながりは消えてしまいました。弟ではなくなったのです。血は水よりも濃い、と言い、決して切ることが出来ません

 もう一つ見逃せないことは、兄弟の間にあるはずの愛が見られない、ことです。

 

 兄弟で思い出すのは、ドイツ文学の古典。シュニッツラーが書いた『盲目のジェロニモとその兄』という短編。神学校のドイツ語の時間、井上良夫先生が教材とされ、学んだ。

中年のくたびれ果てた男が二人。盲目の男はギター片手に歌をうたう、。もう一人は喜捨を貰う。

兄はカルロ。彼の不注意で弟ジェロニモは失明した。その負い目を担い、兄は弟と共に生きてきた。ここには貧しいけれど、愛と信頼がある。心無い旅の青年、毒を吹き込む。目の見えないジェロニモの耳に、「今金貨を入れてやったぞ、騙されるなよ」。これまで金貨を貰ったことはなかった。旅人に答える。「俺の兄貴は、俺を騙したりしないよ」。旅人が出立した後、カルロに言う。『兄さん、俺にも金貨、触らせてくれよ』。

兄は、当然金貨なんかないよ、と答える。疑惑の雲がわき、大きく広がる。嵐が来るとき、青空に一転の黒雲、急速に広がり寄せてくる。

 シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オテッロ』、愛し合うオテッロ将軍とデズデモーナ。

ヴェニスの軍人でムーア人であるオセロは、デズデモーナと愛し合い、デズデモーナの父ブラバンショーの反対を押し切って駆け落ちする。オセロを嫌っている旗手イアーゴーは、自分をさしおいて昇進した同輩キャシオーがデズデモーナと密通していると、オセロに讒言する。嘘の真実味を増すために、イアーゴーは、オセロがデズデモーナに送ったハンカチを盗み、キャシオーの部屋に置く。

イアーゴーの作り事を信じてしまったオセロは嫉妬に苦しみ怒り、イアーゴーにキャシオーを殺すように命じ、自らはデズデモーナを殺してしまう。だが、イアーゴーの妻のエミリアは、ハンカチを盗んだのは夫であることを告白し、イアーゴーはエミリアを刺し殺して逃げる。イアーゴーは捕らえられるが、オセロはデズデモーナに口づけをしながら自殺をする。

 

 ヴェルディはこれをオペラに。マリオ・デル・モナコが主演して東京・産経ホールで上演された。階段を利用した演出、きっと名のある演出家だったのでしょう。圧倒的な歌唱と演技、名演だった。すばらしい舞台でした。

 

 信頼が疑惑に代わるとき、人と人の関係は大きく変化します。本来の関係は消失します。

不安と恐怖、侮蔑と嫌悪、憎しみと殺意の関係が生まれます。兄弟親子であっても全く違ったものになります。

父と、いつも一緒にいた親孝行な息子が、実は決して一緒ではなかったことを暴露しました。

畑でも、家でも、確かに肉体は一緒のところにいたのでしょう。しかし、その心は全く違う所を彷徨っていました。「あなたのあの息子が娼婦どもと一緒に」と言います。雇い人がそんなことを知らせることは出来ません。兄は、父のもとに居ながら、もう一人の息子、弟の行状を想像していたのでしょう。その心では弟を監視し、自分も弟のように遊びたい、と歯噛みするような思いで居たことでしょう。

親孝行な息子は、実にもう一人の放蕩息子だったのです。

 

弟のような人生は、おそらく多くの人にとってはあまりに奇抜で、親近感のもてない生き方に感じられるかもしれません。しかし、兄の生き方、弟が自分勝手に身を持ち崩そうとも、自分は実直に仕事をし、父親とともにこつこつと働いていく生き方は、多くの人にとってじゅうぶん理解可能なものだし、多くの人はそうして実直な人生を送っているのでしょう。弟と兄、両者のどちらかと言われれば多くの人は兄の中に自分の姿を見出すでしょう。そして、久しぶりに帰郷した弟に対して父親が用意した宴会のあまりの豪華さに、われわれはこの兄とともに不平をもらすのかもしれません。

 

24節、32節、死んでいたが再び生きるようになり、失われていたのに見出された、と繰り返されます。譬では、最後の部分が強調される、と言うのが文学上の原則。

しかしこの譬はそれではおさまりません。死より悪い状態があります。それは失われていることです。生より良い状態があります。それは見出されることです。

 

この物語の主題は、差別されている者を受け入れて、神に逆らった罪人を、迎え入れてくださる神の愛なのです。登場する「父」は神を、「弟」(放蕩息子)は罪人である人間(異邦人、取税人、遊女たち)、「兄」はパリサイ派、ユダヤ人を指していると言われています。

 

悔い改めが必要なのは、実は兄に他ならないのです。聖書が語る悔い改めとは、弟のように父の家へと向かうことだけではありません。絶望と死の淵から命へと向かって立ち上がるのが弟の悔い改めであったとすれば、兄が今必要としているのは、弟との和解であり、ねたみと憎悪を取り去ることであり、父と共にあることの豊かさを再発見すること、これこそが兄のなすべき悔い改め、我々のなすべき回心に他ならないのです。

父なる神は、私たちすべての者を悔い改めへと招き、待っておられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

『杜子春』芥川龍之介

或春の日暮です。

  唐の都洛陽らくやうの西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。

  若者は名は杜子春とししゆんといつて、元は金持の息子でしたが、今は財産を費つかひ尽つくして、その日の暮しにも困る位、憐あはれな身分になつてゐるのです。

 

杜子春とししゆんは一日の内に、洛陽の都でも唯一人といふ大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそつと掘つて見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山出て来たのです。

  大金持になつた杜子春は、すぐに立派な家を買つて、玄宗げんそう皇帝にも負けない位、贅沢ぜいたくな暮しをし始めました。蘭陵らんりようの酒を買はせるやら、桂州の竜眼肉りゆうがんにくをとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹ぼたんを庭に植ゑさせるやら、白孔雀しろくじやくを何羽も放し飼ひにするやら、玉を集めるやら、錦を縫はせるやら、香木かうぼくの車を造らせるやら、象牙の椅子を誂あつらへるやら、その贅沢を一々書いてゐては、いつになつてもこの話がおしまひにならない位です。

  するとかういふ噂うはさを聞いて、今までは路で行き合つても、挨拶さへしなかつた友だちなどが、朝夕遊びにやつて来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になつてしまつたのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りの又盛なことは、中々口には尽されません。極ごくかいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺てんぢく生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれてゐると、そのまはりには二十人の女たちが、十人は翡翠ひすゐの蓮の花を、十人は瑪瑙めなうの牡丹の花を、いづれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏してゐるといふ景色なのです。

  しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家ぜいたくやの杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。さうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通つてさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、又杜子春が以前の通り、一文無しになつて見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸さうといふ家は、一軒もなくなつてしまひました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。

 

「いや、お金はもう入らないのです。」

 「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまつたと見えるな。」

  老人は審いぶかしさうな眼つきをしながら、ぢつと杜子春の顔を見つめました。

 「何、贅沢に飽きたのぢやありません。人間といふものに愛想がつきたのです。」

わたしは、・・・

峨眉山がびさんに棲すんでゐる、鉄冠子てつくわんしといふ仙人だ