2015年2月1日日曜日

金持ちと貧乏人のラザロ

[聖書]ルカ161931
[讃美歌]361,8,464、
[交読詩編]147:1~11、

 

この譬もルカ福音書特有のものです。不正な管理人の譬同様、私には難しい。好きではありません。とりわけ陰府の事が判りません。陰府、シェオール、すべての死者が横たわり、最後の審判を待つところ。そこでは一切の音が消え、動きもなく、熱も光もない冷たいところ。このように学んできました。ところが、この譬では、死んだ金持ちは、陰府へ下り、そこで何かによってさいなまれています。もだえ苦しんでいます。水を求め、舌を冷やさせてください、と願うところから考えると、たいへんな暑熱に苦しめられているのでしょう。

 

 登場人物は、金持ち、この人はたいへん贅沢な生活をしています。その衣裳は眼を瞠るようです。王侯貴族につき物の紫布。それをいつも着ている。柔らかい亜麻布。

食卓も世界中から集めて調理した食品が供せられる宴席です。高価で、美味で、手に入れ難いようなグルメ向きの宴席。信じられないようなことですが、それを毎日繰り返す。

この人は、何の苦もなくそうした生活を進めます。しかも、そのために何の労動も、悩みも感じていません。こうした食卓は、残り物があるでしょう。私たちの心配は無用です。その家の女子供、家族や雇い人、奴隷たちが頂くことになっています。

 アラビアのロレンス、アラブの族長の天幕に客となり、食事を供せられた。小羊が丸ごと大皿に盛られてきた。サフランライスがたくさん、周りに盛られている。一体何人で食べるのか。とても食べきれる量ではない。悩んでいると答えがあった。一番良いところ、美味しいところは、客人と主人が食べます。次は男たちのものです。残った部分は女子どもたちのためのご馳走となります。残しては失礼になるなどと心配せず、美味しいところを食べたいだけ、召し上がれ。

 

 この人物に関して大きな特徴は、金持ちになった経過は何も語られていないことです。

多くの場合、悪辣な手段を講じ、搾取、略奪、詐欺的な手段で資産を形成するものです。

この人の場合、そうしたことがあったが、記されていないのか、親代々の資産があり、利が利を産むような状態で、苦もなく贅沢を続けることが出来たのでしょう。

 

邸宅の門前に貧乏人ラザロが物乞いをしています。貧乏人であれば、それなりに仕事があり、身過ぎ世過ぎができるでしょう。このラザロは、何もありません。ただ名前だけです。譬の登場する人物は、一人も名前をつけられていないのに、選りによってこの貧乏人に名前がつけられています。当時の人々の大多数は、こうした貧乏人は、神からも見棄てられ、なんら好意を獲得することは出来ない。主なる神のご不興をこうむっているのだ、と考えていました。しかもこの名前は、マタイ115ヨセフの系図にもありますが、ありふれたものです。エレアザル、「神援けたもう」を意味します。

 

ことによると、意図的にラザロの名を記したのかもしれません。

豊かな金持ちは、あらゆるものを持っていて、何ひとつ不自由はしないけれど、ただ一つ名前がなく、名を呼ばれることがない。根底において孤独な存在であること。

貧乏なラザロは、何も持たず、食べるものにも不自由しているが、この名を呼んでもらえるし、それによってかろうじて人間らしい存在に止まっている。孤独ではない。

この対照を鮮やかにする意図を持って。

 

貧乏人のラザロは、食卓から落ちるもので腹を満たしたい、と願っています。彼にまでまわってくる物は何もありません。家の者たちを喜ばせていただけです。ことによると食卓を綺麗にするために使われたパン切れにありついた犬に替わりたいと願っていたかもしれません。

マルコ728「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子供のパンくずは頂きます。」旧讃美歌206、主の清き机より こぼれたるくすをだに、讃美歌2177、パン屑さえ拾うにも 値せぬものなれど、

 

貧乏人のラザロ、神が助けてくださる、即ち神の援けを必要としている人です。

 

前回、お話したように、ファリサイ人は、豊かな財貨を、神の好意によって与えられた恵みの徴と考えていました。金持ちは、神の好意の徴として富を、与えられているのです。

「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。あなたの身から生まれる子も土地の実りも、家畜の産むもの、即ち牛の子や羊の子も祝福される。」申命記2834

この金持ちは、神が人を滅ぼしている時に干渉すべきでない、という論拠によって、彼がラザロを助けなかったことを正当化できました。

この譬は、神の律法を喜ぶ者について語る神学なのです。

「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。しかし、神に逆らうものはそうでない。」

詩編134、これをルカは攻撃しています。

 

 この貧乏人が死にました。誰にでもいつか来る時が来ました。早いか遅いかの違いだけです。天使達はこの人を天のみ国で開かれる宴席で、父祖アブラハムの近くに連れて行かれました。特別な上席です。

 

金持ちも死んで葬られました。彼はどうやら永遠の住まいではなく、刑罰の場所と考えられる死の世界(詩66参照)に移されたようです。ハデス、死者が行く地の深いところ、とされます。何故シェオールではないのでしょうか。

 

そこで、いわゆる地獄の責め苦にあわされているようです。そこから天の宴席の様子がよく見えました。大声で叫びます。24節、ラザロの指先に水をつけて、その一滴で自分の舌を冷やさせてください、と願います。この水は、義人が住む場所にある泉(エノク書229)を指しているそうです。こうした願いは拒絶されます。

 

 そこで、この金持ちは、自分のことではなく、自分の兄弟5人のためにラザロを派遣してください、と願います。それに対してもアブラハムは、拒絶します。

「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるが良い。」

金持ちは粘ります。「死んだ者の中から、誰か行ってやれば、悔い改めるでしょう。」

アブラハムの答え、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」

 

 この金持ちは、死んだ後、アブラハムの下へ行くことが出来ませんでした。不思議なことに、彼はそのことについて抗議していません。それを受け入れ、兄弟たちが同じような苦しみに遭うことがないように願っています。 彼は、確かにファリサイの聖書解釈と教えに従い生活したでしょう。掟に反することはしていない、と主張できました。同時に、それとは違う聖書の言葉に従っていなかったことも知っていたのです。収穫を貧しい者や寄留者と分かち合うべきこと(レビ19910)や、生活に苦しむ貧しい同胞に対して、大きく手を開きなさい(申命15711)。更にイザヤ5867 (口語訳)

6 わたしが選ぶところの断食は、悪のなわをほどき、くびきのひもを解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを折るなどの事ではないか。

7 また飢えた者に、あなたのパンを分け与え、さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ、裸の者を見て、これを着せ、自分の骨肉に身を隠さないなどの事ではないか。

 

 金持ちは、自分の兄弟たちが正しい道を歩むように、悔い改めるように導いて欲しい、と考えました。そのためには、モーセと預言者に聞き、従うことしかないんだよ、と主イエスは言われます。これが、この譬の意味です。死者の中から甦った主イエスの言葉を聞くのは私たち。それ以前のファリサイ・ユダヤ人にはモーセと預言者達がいます。彼らの言葉を正しく聞き、学び、従うことが出来ます。そのことへと求められ、招かれています。