2015年2月8日日曜日

赦してやりなさい

[聖書]ルカ17110
[讃美歌]361,141,533、
[交読詩編]103:113

 数週間前、説教準備で書いたものを読ませていただきましょう。時間の制約を考え、削除したものです。

「それぞれの時代の問題に対して、決然と精力的に、力強く行動することの大切さを語られた。1967年、修士論文のために読んだ書物には、現代世界というか、当時のアメリカが突きつけられ、今後世界が戦うべき問題が挙げられていました。人種、離婚、核、人口などが大きな項目になっていたようです。これらは今でも大問題になっています。50年近くの時が流れましたが、いまだに新しい問題なのであり続けています。解決不能なのでしょうか。」

 

戦後世界は大きく変化したように見えるし、感じられる。ロケットが宇宙空間を翔り、衛星カメラが地球上を撮影・監視している。多くの国々が独立し、国際連合で活躍している。医療の世界では、触診よりも各種検査が重視されるようになり、データが蓄積されている。それほどにIC機器、或いはPCが普及、発達している、ということでしょう。確かに大きな変化があり、進歩発達した、と言えます。そうは言っても相も変らぬ問題に絡み付かれて身動きが取れないでいます。これが冒頭の文章の意味です。

科学技術面は、時日と共に、着実に進歩しているようです。ハード面での進歩。

人間の存在に関する事は如何でしょうか。相も変わらず、同じことを繰り返しているのではないでしょうか。人間はひとりだけで存在するのではなく、他の人と共に存在し、増殖して行きます。他者と共に社会を構築している、という考えもあります。

 京都大学の霊長類研究所はたいへん有名です。おサルの調査・研究です。平和的だ、と考えられていたチンパンジーが、他の種類のサルを捕まえて殺して食べることがあるそうです。人間の仲間のサル達は、共同生活を営み、社会を造るようになります。そこでは規則・ルールが必要です。それ以前の態度・マナーにも意味があります。

 

初めの段落、12節は、躓きに関すること。

避けられない躓きであっても、一人の小さいものを躓かせる者は、不幸である。

マタイ1867とマルコ942は、並行関係にあります。小さい者は、勿論、身長や体重ではありません。信仰の新参者たちのことです。成熟した信仰者の言動が未成熟な者たちの躓きとなることは、よく見られることです。信仰の共同体には自由の法則が生きています。その自由が躓きを来たらせる時どうするのか、という問題です。

 せっかく獲得した自由を大事にする、ゴーイングマイウェイに徹する人もいるでしょう。

主イエスは、はっきり語ります。共に生きる者たちの間では、愛の法則が生きている、と。自分の自由を削ってでも他の小さい者に仕えることに値打ちがあるんだよ。ガラテア513

 

次の段落は、悔い改める者を赦してやりなさい、と教えています。

マタイ182122では、何回まで赦すべきでしょうか、という問となり、それに対してイエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と答えています。

学生時代、スウェーデンの映画が流行りました。インゲマル・ベルイマン(20077月没)の作品でした。相次いで上映されました。若い人なのか、と思いましたが、終戦直後に映画製作をはじめていました。 

「「第七の封印」「処女の泉」などの名画で知られるスウェーデンの巨匠で、1991(平成3)年に第3回高松宮殿下記念世界文化賞(演劇・映像部門)を受賞した映画監督のイングマール・ベルイマン氏が30日、スウェーデン南部の自宅で死去した。89歳だった。20世紀映画の三大巨匠の一人として故黒澤明監督、イタリアの故フェデリコ・フェリーニ監督(ともに世界文化賞受賞者)と並び称された。

  1918年、スウェーデンの大学都市ウプサラに生まれた。父親は厳格なプロテスタント教会の牧師。ストックホルム高校(現大学)時代は学生演劇に熱中、脚本家見習いとして映画会社に就職し、以後、演劇と映画の二本柱で活動。40年間にわたり50本以上の映画を監督した。

  若い娘の奔放な性を描いた出世作「不良少女モニカ」(1952年)。ペストが流行した中世を舞台に死生観を強く打ち出し、主人公の騎士が死神とチェスを指す名場面でも知られる「第七の封印」(56年)、老教授の老いと孤独、生と死に切り込んでベルリン映画祭グランプリを受賞した「野いちご」(57年)、“神の沈黙”3部作として名高い「鏡の中にある如く」「冬の光」「沈黙」、さらに「ペルソナ」「叫びとささやき」「ある結婚の風景」「秋のソナタ」などを撮り、自伝的作品「ファニーとアレクサンデル」(82年)を撮り終えて後、「映画でやるべきことは、すべてやり遂げた」として映画監督を引退した。

  

私は親しむことが出来ませんでした。一つも観ていません。同時代・同傾向の映画の題名を記憶しています。『491』。当時の青少年の無軌道で奔放な生活を主題に、これでも赦さねばならないのか、と問う作品でした。七度を七十倍するまで赦して、その次491回目はどうするのか、問いかけていました。むしろ赦すことが主題、と言えるのかもしれません。私が、今でも観ていないのは怖かったからだろうと思います。野放図な生き方の感化で、自分がそうなってしまうように感じたのでしょう。すでに、自分の中にその素地があるからです。主は回数で限度を示してはいません。無限を意味しておられます。

 

17章の最初の部分は、弟子達との対話となっています。16章のファリサイ人との対話とは、だいぶ様子が違うように感じられます。

56節は、「使徒たち」との対論です。ホイ アポストロイ トー キュリオー

福音書では、殆どの場合弟子たちと呼びます。ここは珍しい。なぜか?

ここで福音書記者ルカは、イエスに従いエルサレムへ行った弟子達ではなく、甦りの主と出会い、教会の指導者、復活の主の宣教者となった使徒たちを意識しています。

 ルカの教会で、信仰が弱まるようなことがあったのでしょう。確信が揺らぐ、と言ったほうが良いかもしれません。迫害が迫っている時、平穏な時代とは違う緊張に捉えられます。逃げるべきか、殉教するべきか。判断が出来なくなります。信仰は、現在の状況を正しく掌握する力を与えます。これから何処へ進むかを示します。したがって、次の一歩を何処におけばよいか選ぶことが出来ます。

小学生の時、運動会の分列行進の練習がありました。予科練出身の若い先生が指導してくれました。一緒に相撲をとったり、赤ふんどしで水泳を教えたりしてくれた先生。行進のときは、足元を見ていては曲がってしまう。顔を上げて、遠くの目標を見て進みなさい。

将来・未来とは、これから何処へ行くのか、と言うことです。人生の目標を何処に置くのか、正しく設定すれば、それを見上げて歩むことが出来ます。

そして、このところから過去について正しく判断させます。自分のこれまでのことは、決して誇ることは出来ない、と教えるでしょう。罪の悔い改めが生まれます。

 

7~10節、これは、他の福音書には見られないものです。

前半の譬は、一人の奴隷が畑と家の中、二つの働きの場を与えられているところで起きたこと。私は、一つの奉仕を成し遂げました。褒めてください。奉仕を受ける側に回してください、と言っているように考えられます。私たちは皆、キリストの僕です。

ある宗教では、信仰に階級や位をつけ、年功や献金、奉仕への参加など教派への貢献によって、上昇する仕組みを作っています。もう少しで奉仕を受ける側に立てるぞ、ということが励みになるそうです。

 

神学校の授業、北森嘉蔵先生。早いものです、半世紀が過ぎてしまいました。

「君たちは、なすべきことをなしたるのみ、と言いたいだろう。実際そのように言っているだろう。よく考えて欲しい。本当になすべきことをなし終えたか。たいていは、なすべきことをなし終えてもいないのに、言っているのではないか。」

いつもは賑やかでおしゃべりな学生達、この時はしゅんとなってしまいました。同じことを高崎毅先生も言われた、と記憶しています。厳しく、優しく、謙遜な先生でした。

小生意気な私も、サボってばかりいることを反省、肝に銘じたものです。人間の傲慢さ、独善は、イエスの時代から2000年間同じだし、この50年間だけでも変わりがない。

 

私たちは、多くのなすべきことのうち、わずかばかりのものだけを行い、それをもってなすべきことをなし終えた、と安心している。自分の担当と定められたことを済ませただけでも、なすべきことをなし終えました、と安心、平然としている。それで良いのか。

この点でも、人間は古来たいして変化していないし、いわんや進歩などありはしません。

傲慢にも、何も成し遂げていないのに、なすべきことをなしたるのみ、などと言っているのではないか。そんな自分のドヤガオ。笑止千番、身震いするほど自己嫌悪に駆られます。想像しただけで背筋が寒くなります。そんな私を神は愛してくださる。赦してくださる。赦してやりなさい、とのみ声が聞こえてきます。