2015年2月22日日曜日

神の国はいつ来るのか

ルカ172037
[讃美歌]361,11,577、
[交読詩編]66:1~20、

 

219日は、今年の『灰の水曜日』Ash Wednesdayでした。この日から主日を除いた40日が四旬節です。旬という文字は10日間を指します。主日を除く意味は、この日が、主の甦りを記念する日だからです。四旬節自体は、主イエスが受けるみ苦しみを覚え、自分の罪を悔い改め、祈る期間です。甦りは、歓喜のときです。

この期間をどのように過ごすか、どのように過ごせば主の受難を深く味わうことが出来るか、昔から考えられ、実践されてきました。

 

この期間を受難節とも呼びます。これは英語でLentと言い,そのまま日本語としても使われてきました(レント)。Lentは断食を意味する昔のゲルマン系(古ドイツ語)の言葉から今の英語になったものです。キリスト教が北方のゲルマン系民族に接した時,受難節が断食の期間であることから断食を意味する彼らの言葉を用いたものと思われます。イースターが英語圏を中心とした呼称と同様,レントも英語圏中心です。ラテン語圏の国を初めその他の国々では40を意味する言葉で呼ばれています。訳して四旬節

ラテン語でQuadragesima,イタリア語でQuarensima,

ポルトガル語でQuaresma,フランス語でCarêeなどです。

 

この期間中,キリスト教徒は,イエスの十字架上の死をしのび、 悔い改めと真摯な祈りに多くの時間を当て又,嗜好品を避け、食材にも配慮した日常生活を送ります。

 

40日間については聖書に次のように記されております。

イエスが福音を述べ伝えられる前に荒野で40日間断食され試練の時を過ごされた。

 (マタイ41,2:マルコ1章12,13:ルカ41,2節:)

モーゼはイスラエルの民と神との契約を締結した後、シナイ山に登り4040夜を過ごした。(出エジプト2418節)

預言者エリヤは40日間歩き続けホレブ山につき、神の声を聞きその使命におもむいた。

(列王記上198節)

更にはノアの洪水の出来事に関し、創世記7章では洪水が40日間地上を覆った(17節)とあります。

 

こうした事から,イエスの十字架上の死をしのび、復活の喜びを祝うまでの準備の時として4世紀のはじめの頃(ニカイア公会議 325年)から40日間が守られるようになりました。 日曜日、主の日は主イエスの甦りを祝う日であり、断食は中断されます。

 

断食はどのように守られていたのでしょうか?

時代や地域或いは聖職者とそうでない者、聖職者でも修道僧とそうでない者、様々な形で守られてきたようです。

レント期間中、週に12度のみ食事をするとか24時間以上何も食べないとか、厳しく律するところもありましたが、一般的には,太陽が昇っている間は食事をせず、日が沈んで夕食を取る一日一食が普通でした。イスラムの断食は今でもこのようにされています。

しかし時代の経過と共に食事の時間がだんだん早まり中世の初めには昼に食事をとることが許されるようになり,或いは肉体労働者には断食が免除されるとか又疲労を回復する為に途中で軽食を取る習慣も許されるようになり数世紀前から、食事の内容(食材)を制約する他には日常通りの習慣になったようです。

 

レント期間中の食材については,生命を持つもの即ち肉類,魚類はいっさい駄目で固いパンだけと言う厳しいものから鳥や魚は良いとする緩い規律,或いは固い殻を持つ果物,卵から生まれるものは駄目と言うような中間的なものなど様々であったようです。

しかし,一般的には肉類や乳製品,卵などをレントの期間中食べないのが普通で、その事から,こうした厳しく律せられるレントの始まる前のカーニバルの祭の習慣や、復活祭での卵や、イースターバスケットで食卓を飾る習慣につながってきました。

 

今年も、ブラジルのカーニバルの映像が放映されました。リオ・デ・ジャネイロその他諸都市で行われ、多くの観光客を集めています。サンバの音楽も迫力に満ちています。

カーニバルは、謝肉祭と訳され、毎年、レントの前日に行われます。灰の水曜日から断食に入ります。特定の嗜好品を自制したり、或いは食材を控えたりします。勿論今では、日没から日の出までの間だけの断食が多いようですが、40日間肉やコーヒー、ビールを絶つようなことが行われました。これは苦痛だと感じます。本当に断食をしています。

 そうした時代に、これから断食に入るので、いつも食しているものへの感謝を表したのでしょう。肉に感謝する謝肉祭、コーヒーに感謝するカーニバル。観光事業となってしまっても、人々の素朴な信仰は生きている、と考えたいものです。

 

 さて、ルカ福音書17章をご覧頂きましょう。

マタイ24章とマルコ13章は、このところと同じ、終末に関することを語っています。

歴史の終わりと人の子の訪れに関すること、と言っても良いでしょう。小黙示録と呼ばれることも多いようです。マタイ、マルコは、エルサレムの最後と神殿の崩壊と関係付けていますが、ルカはそれらとの関係は語りません。神の国と人の子の再臨にだけ関心を寄せます。

 

論議はファリサイ人の質問が始まりです。途中からは弟子達に対する教えになります。

神の国とは何か、人の子とは何のことか、何も語られていない、論議されていません。

私たちはそれを考えねばなりません。何故お話にならなかったのか。簡単なことです。

ファリサイ人にしても、弟子達にしても、神の国、人の子に関しては充分な知識があったのでしょう。ただ、それがいつ来るのか、或いは人の子を一目で良いから見たい、と願っているのです。

 

神の国は、バシレイア トウー セウー、神の支配と理解されています。これは、マルコ115でよく知られています。当時のユダヤは、ローマ皇帝によって支配されていました。更に、イドマヤ人のヘロデ王家の支配もありました。二重の外国人支配を受けていたユダヤ人の間では、イスラエルの神ヤハウェのご支配を待ち望む気持ちが高まっていました。信仰深いユダヤ人は誰でも、神の十全な支配が到来することを求めていました。

だから、イエスに神の国の到来の時期を質問するのは、当然のことでした。

 

新約聖書では、イエスが「人の子」といわれているところが88回も出てきます。

「人の子」の第一の意味は、ダニエル書71314の預言のことを言います。

「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。」

この「人の子」というのは、メシアの称号です。イエスが主権と栄光と国を与えられたお方です。イエスがこの言葉を使われたとき、人の子の預言をご自分に当てはめておられたのです。 当時のユダヤ人には、この言葉はよく知られていたもので、誰のことを指しているかもよくわかっていたはずです。イエスはご自分こそがメシアだと宣言されたのです。

 

 「人の子」の二番目の意味は、イエスが本当に、人間であったと言うことです。神は、預言者エゼキエルのことを「人の子」と、93回も呼ばれました。神は、単にエゼキエルを人と呼ばれたのです。.人の子とは、人そのものを意味します。 イエスは100%完全に神でした。(ヨハネ1章1節)けれども、イエスは100%完全に人間でもありました。(ヨハネ114)第1ヨハネ42は、「人となって来たイエスキリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」と言っています。もちろん、イエスは神のみ子です。その要素において神なのです。また、イエスは人の子、つまり、その要素において人でもあります。 つまり、「人の子」ということばは、イエスがメシアであり、本当に人間でもあるということを示しているのです。

 

イエスはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、自分のことを「人の子」という表現を用いました。だれかがイエスのことを指して「人の子」と言ったのではなく、自分のことを、それもメシア的称号として用いられたのです。ですから、イエス以外にはだれもこの「人の子」という称号を使ってはいません。イエスは故意にこの表現で自分のメシア性を表したのです。

 

神のすることを人間が計算するのは、もし傲慢でも不遜でもないとしたら、無益なことです。何時、何処で、ということは神の知恵の内に隠されているからです。

神の国は、人間によって打ち立てられるようなものではありません。使徒167

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。(口語訳)

 

御国は何時来るのだろうか、人の子は何処で見られるのだろうか。

この問に対しても、多くの者たちが答えようとします。今日の状況の中ではテレビに出演するタレントや役者を何時、何処で見られるか、という情報を提供するようなものです。

韓国ドラマは、ある時期たいへん高い人気を誇っていました。主演俳優・女優が來日して歓迎され、大騒ぎでした。空港まで多くの人が詰め掛けました。來日の情報を流すからファンは一目みたい、と思うのです。

救い主・メシアと俳優・タレントを同列に論じることは出来ません。それでも、一目みたいと願う人々の思い、という点では同じです。

 

 主イエスは、人々の期待するような答えは与えません。意地悪ではなく、神のご計画と人の思いが、天と地が遠く隔たっているようにかけ離れているためです。 

21節「神の国はあなた方の間にあるのだ」。ここで主は、自分が今ここに居る。これが神の国です、と仰っています。しかし、ファリサイ人だけではなく、弟子達もそのことが解りません。そこで主は、弟子達に教えられます。

 厳しく、激しい審判が突然、やってくること。

 その中から救いが与えられる人たちがあること。

 苦難が突然襲ってくるので、その時自分の命や財産等に心奪われ、執着するならせっかくの救いを失う結果になること

火事は、財産すべてを消滅させるから怖い。命さえあれば、一生懸命働いて再建できる。

命を大事にしなさい。強盗がきても、無駄な抵抗はしないように。父の教えでした。

四旬節、受難節は、主の受難を偲ぶだけではありません。同時に私たちが受けるべき救いと苦しみを学び、正しく備えることを教えるのです。