2015年3月1日日曜日

神は裁いてくださる

[聖書]ルカ1818
[讃美歌]433,149,363、
[交読詩編]140:2~8、

 

先週、水曜日午後、札幌へ映画を観に行ってきました。厚別へ来て初めてのことです。

いろいろ感じたり、考えたことがあります。礼拝ですから、少しだけ。

映画の題は《エクソダス、神と王》、脱出という意味で、旧約聖書の二番目の巻物、

「出エジプト記」を題材にしています。

だいぶ昔のことになりますが、セシルBデミル監督が作った『十戒』(1956年パラマウント)、という映画がありました。ユル・ブリンナーがエジプトのファラオ・ラメセス、チャールトン・ヘストンがモーセを演じました。セシル・B・デミル監督は9年余の期間を費やし、その遺作と成りました。これは聖書の映画化という点でも好評で、半世紀以上を経た今でも魅力を感じる人が多いようです。あれは、できるだけ聖書に忠実に、という制作姿勢でした。

 

今回の場合はこの基本姿勢が違います。聖書は素材です。様々なエピソードも利用していますが、映像作家は自由にそれらを利用します。そして自分の映像世界を展開して見せてくれます。要するに、聖書の出エジプト記であろうとしないで、リドリー・スコットの描く《エクソダス》であり、神々と王たちの物語を展開するのです。

 今回の『エクソダス』は、余り人気が無いようです。平日の午後ということもあるのでしょうが、560名の観客、それも若い人の姿は殆ど見られません。現代日本の教会と同じ、ということは当然というべきでしょうか。

 私にとっては面白く、結構楽しめました。それは、この作品をリドリー・スコット監督の描く《エクソドス、神々と王たち》と題されたドラマとして見たからです。聖書のドラマ化なら許せることも、聖書をヴィジュアル化したものと考えると許したくなくなります。

営業妨害する気はありません。「エクソダス」と名付けられたドラマをご覧になるつもりであれば、お出かけください。聖書の映像化、視覚化されたものをご覧になるのであれば、ヴィデオショップで《十戒》をお求めになったほうがよろしいでしょう。

 

 本日の聖書は、ルカ福音書1818節になります。すでに一年以上が過ぎました。まだこんなところ、と言うべきでしょうか。それとも、早くもここまで来たか、と考えるべきでしょうか。少ずつでも、読み続けるならば、大きな聖書も読み終えることが出来ます。毎日1章読めば、1年間で新約聖書を読み終えるでしょう。

 

この18章には、一人の裁判官とやもめのことが語られています。ルカ福音書特有の譬え話です。注意して読むべき部分があります。読んでみましょう。

まず、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が出てきました。ユダヤの国では、訴訟とか争いごとがあれば、町や村の門のところに座っている長老さんがそれを聞き、決まりをつける事になっています。長老と言うのは、公平に裁くことが出来るだけの経験をつんだ人で、たいていは年齢も高い人です。そればかりではなく、ユダヤ社会の中で尊敬されるだけの宗教的な品性人格を有しているものです。イスラエルの律法を守り、神の祝福を得て仕事も家庭も繁栄しているのが普通でした。

 

この裁判官は、どうやらユダヤの長老さんではないようです。神を畏れず、これでは長老にはなれません。旧約律法は、とても人道主義的です。汚れている、とされる人たちのことも守ろうとしています。この裁判官は、法と権利を守るはずなのに、それとは正反対のことをしている人のようです。こんな裁判官がいるのでしょうか。

ユダヤの律法は、裁判は町の門のところで長老によって行われます。必ず複数です。訴える側、訴えられる側から選ばれ、中立の立場からも選ばれたそうです。当時のユダヤの状況を考えれば、この第三の立場は、ローマ帝国の代表になるだろう、と考えます。最終的には総督が代表します。その権限を持たせた代理人を裁判に立ち合わせたことでしょう。この人は、総督に賄賂を贈りその地位を獲得します。従って、裁判の当事者から賄賂を得て、埋め合わせをすることを当然と考えます。賄賂の多い側に有利な裁定を下します。正義も公正も全く省みられることはありません。これがここに登場した裁判官です。

わが国では、判事・検事には高水準の報酬が約束されています。賄賂や人脈などによって判決が曲げられることが無いように、考えられています。諸外国に於いても同じように考えられているはずです。ただし、高額の報酬も感情による予断は防げないようです。

自分一個の利益のために正義と公正をなげうち、裁きを曲げるのがこの裁判官です。

 

もう一人の人物が登場します。一人のやもめです。わざわざ、一人と書いています。強調したいのでしょう。貧しい者、弱い物の象徴と言えるでしょう。普通ならそのような人でも、守ってくれる親戚の者がいるはずです。ルツ記を読むとゴーエール・最も近い親戚、という言葉が繰り返し現れます。親戚は、何事によらず益になるように計らってくれます。この譬に登場したやもめには、こうした助け手、買い戻してくれる人がいませんでした。そのことを「ひとりの」という言葉は、示しています。

 

この女性は、裁判官のところに来ては「自分に有利な裁定をしてください」と頼み込んでいました。やもめ、というだけで守り、助ける者もなく、賄賂を贈る資産もなく、ないない尽くしのこの人は、熱心に、執拗に頼むことしかできません。時も所もお構いなしに、この裁判官を捉まえては頼み込んでいたのでしょう。

はじめは、こんな貧乏人、と思ったでしょうか、相手にしませんでした。それでもめげずにやってくるやもめ、とうとう裁判官も参りました。

「私を散々な目に遭わすに違いない」、ここには暴力的な行動への恐怖があるように理解される言葉が用いられています。身分と格差が法によって守られている社会では、暴力はたいへん恐ろしいものです。一瞬にして何もかも破壊してしまいます。昔も今も変わりはありません。弱く貧しいやもめにも使うことの出来る暴力があります。判事は知っていました。恐れています。「彼女のために裁判をしてやろう。」

  風評の発生、多様なハラスメント、これらも暴力

 

 この譬は、この不正な裁判官が神である、と言うのではありません。

神は、沈黙しておられるように感じられても、必ず叫びを聞き、応えて下さります。

それは、古代エジプトで、奴隷の生活の中での叫びを主が聞いてくださったのと同じです。

悲しみと嘆きと苦しみの中から、私たちが発するうめきを神は聞いてくださる。

ヘブライの詩人も嘆き、祈っています。

 

23我らはあなたゆえに、 絶えることなく殺される者となり

屠(ほふ)るための羊と見なされています。

24主よ、奮(ふる)い立ってください。 なぜ、眠っておられるのですか。

永久に我らを突き放しておくことなく 目覚めてください。

25なぜ、御顔を隠しておられるのですか。

我らが貧しく、虐(しいた)げられていることを忘れてしまわれたのですか。

 

神は、その民のうめきを、嘆きを、叫びを聞いてくださいます。それは、神が私たちの思い通りになることではありません。速やかに救いを来たらせてくださるのです。この譬はそのことを語り、同時に私たちが、救いを祈り求めることを許してくださっていることを教えています。

出エジプトの民は、ちょうどそのような祈りの民だったのです。