2015年3月15日日曜日

永遠の命を受け継ぐために

[聖書]ルカ18:18~30、
[讃美歌]433,141,297,77、
[交読詩編]29:1~11、

本日の聖書には、『金持ちの議員』という小見出しが付いています。これは、ルカ特有の物語ではありません。他の福音書にもありますが、少しずつ違うところがあります。
マルコ1017以下では、「金持ちの男」、となっています。「良い先生」という呼びかけは同じです。マタイ1916以下は、「金持ちの青年」。呼びかけは「先生」。
内容的には、永遠の命を受け継ぐため、どんな良いことをすればよいのか、と問いかけ、掟を守るべきことを示されます。質問者が、それらはすべて守ってきました、と答えます。イエスは、欠けている事を示し、「天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われると、男は悲しみながら立ち去った、となります。細かいところでは違いがありますが、大筋では同じです。三つの福音書に共通している物語、と言えます。

もう一度、ルカ福音書によって、読んでみましょう。
「善い先生」、ディダスカレ アガセ と呼びかけます。
ディダスカロス、教師・先生、師、を意味します。
アガソス、(本質的に、その内的性質がよいこと)、人・もの・行為、状態について、また対人関係において「よい」こと、善良な、親切な。   類語にカロスがある。こちらは外的優秀性、優美性。これに対しアガソスは、外観のいかんに関わらず、そのものの内的本質が「よい」こと。その種のものの中ではまず完全とみなされるもの。喜びや満足等をもたらすもの。

この質問者がどのような人で、どのような動機を持って質問したか、判りません。
議員であることは知られていたのでしょう。議員であれば、最低限の知識を持っているはずです。恐らくユダヤの最高議会・サンヒドリンの議員。これは70人が定数です。他にも地方議員に相当する会堂議員があるようです。いずれであっても律法、伝統、判例、家族関係その他多くの知識・経験を持っていることが確認されて、選ばれたことでしょう。ところが、その議員さんがおかしなことを言います。
「善い先生」、マルコ福音書も同じです。多数決ではありませんが、主ご自身これをお聞きになり、それに反応されたと考えられます。ユダヤ人の間では、本質的な善さ、というものは、神のほかには存在しない、と考えられてきました。そのくらいのことは、議員であれば当然知っているはずです。知っていても、イエスの前に来た時、思わず「良い先生」と呼びかけてしまった。反対意見もありますが、これは決して悪意ではないし、神を冒涜するものでもない、と考えます。
 この質問者は、これまでの人生を通して、一生懸命ユダヤ人として生きてきた。律法や言い伝えを守り、善行に励んできた。しかし、それだけではどうも、永遠の命を獲得できる、という確信に到達できない。ナザレから来た評判の先生は、私の悩みに答えてくれそうだ。その心が「善い先生」との呼び掛けになったのでしょう。

宗教改革者として有名なマルティン・ルターは、若い修道士時代、学問研究とともに戒律を守ることに熱心でした。当時の修道士は誰でも、戒律を守り、難行苦行を自分自身に課し、それを果たすことで救いの実感を得ようとしていました。
しかしルターは、熱心に、正しく守っても救いの確信が得られなかった。

彼の時代は、ルネッサンス時代、啓蒙主義、文芸復興、ギリシャ・ローマ時代の復興、大航海時代、様々な呼び方があります。それだけ活発な動きがあったということです。
言葉を変えれば激動の時代です。伝統破壊、新秩序の出現とも言えるでしょう。
当時有名な出来事がありました。ルネッサンス教皇アレサンドロ6世は、ローマの街中に住居を構え、奥さん・子ども達と一緒に生活していました。ローマ市民は、そのことをよく知っていたそうです。教会の伝統を破壊する、と理解され好評でした。

同じ時代、フィレンツエでは説教修道士サヴォナローラが頭角を現してきました。彼の炎の説教は、教会の堕落、市民の堕落、信仰の堕落を説いた。その結果、フィレンツエの名家、メディチ家は支配者の座を追われます。神聖政治が始まったが、一部民衆は過激に走り、一般大衆から見放さるようになります。教会はサヴォナローラに復讐しました。歴史は、彼を宗教改革の先駆者の一人に数えています。

サヴォナローラは、徹底的に神に従うことを求めた。それを喜んだある人々は、語られた言葉を超えて自分の考えを作り、それを基準とした。富裕な人々の持つ貴重な書物を、神に反することを教えるものとして取り上げた。そして町の広場で燃やした。古代中国で始皇帝が行った焚書の再現です。化学(錬金術)、物理学(占星術)関係の書物、贅沢な衣裳、絵画彫刻、その他多くのものが燃やされた。歴史的にも、人類の進歩の上でもかけがいのないものが失われました。

ヒトラー時代のドイツ、毛沢東時代の中国、同じような文化破壊が行われました。日本でも同じ頃、同じようなことが起きていました。《愛国》を振りかざして言葉狩りが行われました。敵性国家、と言われたらなんでも引っ込めなければならない。今また同じことが起きはじめています。総理大臣・内閣の意向に反すること、攻撃するようなこと、放送を自粛せよ。しかも、自発的自粛であって禁止したのではないから言論封殺ではない、と厚顔無恥な言い草。抗議しないマスメディア。もはやジャーナリストではない、その資格喪失です。
1498年、対立するフランチェスコ会修道士から預言者なら火の中を歩いても焼けないはずだとして《火の試練》を挑戦されました。これは47日の当日、フランチェスコ会側が怖気づいたために実施されなかったが、48日サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束する。サヴォナローラのあまりに厳格な政策とヴァチカンからの破門によって人心は、急速に彼から離れ、彼は激しい拷問を受けました。教皇の意による裁判の結果、1498523日、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。
 修道士ルターは、教会が生み出した戒律遵守や習慣的な苦行によって、救いを得ようとして得ることが出来ませんでした。ローマの教会が生み出した教理や、制度に疑問を持ち、それらを再検討、論議しよう、と呼びかけました。
サヴォナローラは、神に従うことを徹底しました。そこに神の国が成立する、と考えたのでしょう。しかし、人間は間違えるものであることへの理解が足りませんでした。すばらしい説教だったようです。必要を超えた贅沢を戒めることはあるでしょう。しかし全ての信仰者を、修道士のような生活にすることを求めるでしょうか。一部の者たちは、そのような運動にして行きました。大部分の者たちは、運動から身を引き離し、反対する者になって行きました。讃美歌481番は、彼の詩です。福音信仰を素直に描き出しています。

 修道士ルターも、サヴォナローラも、ある意味で、救いに至る道を自分の力で作ろう、築き上げようとしました。本日の議員も同じです。それに対して主イエスはどのようにお答えになったでしょうか。
 アレもした、これもしていると言うが、欠けているものがある。
「持っているものを全て売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
自分の力ですることには、いつも欠けがあります。もっとも欠けていることは、主なる神に全く従うことです。主なる神を信頼することです。救いは神によってなります。
神に、不可能はありません。信頼し、委ねる者をお守り下さいます。神と富に兼ね仕える事は出来ません(マタイ624)。パウロは、富に居る道を教えています(フィリピ412)。
とめること、貧しいことに処する道を学びましょう。