[讃美歌]433,12,475、
[交読詩編]107:1~16、
WEBから一つの文章を御紹介しましょう。どのような方のものか、お考えください。
1、好きなお酒は? ワイン、シャンパン。
2、好きな映画は? ショーシャンクの空に、海の上のピアニスト。
3、好きな本は? キルケゴール、
4、一番嬉しい時は? 拍手を貰う時。
5、一番悲しい時は? 体のことをいろいろ言われる時。
私はこれを読んで、判らなかったのですが、結構趣味的な方かな、と感じました。
これは、すでに引退したトップ・ストリッパーの書いた本にある自己紹介文の一部です。
「踊り子として一番嬉しい時は」拍手を貰う時、となっています。踊り子、と判りますので、それは読みませんでした。踊り子、たいへん体力を使います。四季劇場の『キャッツ』が始まったようです。観た事はありませんが、猫を表現するためにたいへんな運動能力を必要とする、と聞きました。ストリッパー、これも観たことはありませんが、肉体的な美しさと運動能力を維持するために節制が必要だろうなあ、と感じます。どちらかと言えば、体育会的で頭脳明晰な人。注目はキルケゴールです。
同じ著書から、キルケゴールに関する記述の一部を引用・掲載します。
『「空の鳥を見なさい。野の百合を思いなさい」・・教師としての百合と鳥から沈黙を学ぼう、あるいは口をつぐむことを学ぼう。・・百合はせっかちに「春はいつくるだろうか」などと尋ねたりはしない。・・たとえ萎れるがゆえに苦悩し続けようとも、百合は口をつぐむ。・・百合には自分を偽ることができない。・・百合や鳥は神の国を求め、他のものはまったく求めない。他のものはすべて彼らに与えられるのである。』
このキルケゴールの福音書”野の百合”の解釈を、彼女が正しく理解していれば、何も求めず自分を偽らない”野の百合”の思いに反して、自らの肉体に美容整形を施す所業を決して行わなかったと、私は今強く確信しています。
キルケゴールは、デンマークの哲学者、実存哲学の創始者と考えられています。
『あれか、これか』『死に到る病』などが有名です。ある学者は、彼を評して『キリスト者になれなかったキリスト者』と書きました。それは彼が、キリスト教を信仰しながらも、『信仰』の前に立ちすくんでしまったからである、と言う。そうでしょうか?
私は、彼はイエスをキリストと信じる信仰者だ、と考えます。彼は、聖書の中に記されたイエスを讃美します、渇仰します。救い主・キリストである、と信じます。
間違いなくかれは、キリスト信仰者。しかし、教会の信仰箇条を信じ、告白する教会の信者ではないでしょう。そのためでしょうか。彼は、アンティクリストを名乗ります。筆名に反キリスト、或いはそれに類するものを使います。
私は、神学校時代、たまたま彼の書いた《三つのキリスト教講話》を読みました。聖書の読み方で大きな影響を受けた、と考えています。
この書は、大祭司、収税人、罪ある女、この三つからなっています。
三つの講話には、彼の誰よりも深い聖書理解が記されています。神学校の頃、私はこれを読み深く心動かされました。
教会的ではないかもしれない。伝統的ではないだろう。それでも、聖書的であることは確かです。二番目の『収税人』が、今朝の『ファリサイ人と徴税人』、ルカ18:9~17です。
ユダヤ国内では、徴税人が汚れた罪人である、ということで衆目は一致します。国民の中から追放すべき存在でした。外国政府のために自国の人々から税を集める、という苛酷な、腐敗したシステムの関与者。非難されて然るべき人物像と言えます。
政治的には民族・国家の裏切り者です。宗教的には不浄、席を共にすることも忌まわしい汚れた存在です。
彼の祈りは詩51の精神に通じるものがあります。しかし、彼の生活は人々に責められるようなものでした。
ファリサイ人は、ここ神の前で自己紹介をしているようなものです。それによれば、
律法の要求を超える生活をしていることが伺えます。満点以上の優等生。
その感謝の祈りは、詩17:3~5の内容と精神に結びついた一般的なラビの祈りと同じです。
「私が~でないことをあなたに感謝します」という形です。
彼は、傲慢かもしれない。ことによるとある種の実力を持っているかも。いやみな人です。
それでも彼が熱心であり、信じるものに一生懸命であることは、誰であれ否定できない。
そのために、彼が間違っているとは誰も言わない。言うことができない。
却って彼は、彼が求めている人々からの尊敬を得ることが出来たりもする。
週二度の断食の規定は何処にもないが、信心家の間では習慣になりつつあった。それは自発的な禁欲によって、民の中の罪ある者の罪を贖おうという願いから生じた習慣である。パリサイ派自体はそうした贖いを必要としないからである。
十分の一税についても同様である。申命14:22以下では、穀物、ぶどう酒、油の十分の一と更に家畜の初子が生産者に求められている。
信心家は、十分の一税を、申命14章で挙げられた産物よりずっと広範囲のものにまで広げた(マタイ11:42、23:23その他)。
祈りのスタイルを観てみましよう。
ファリサイ人は、自信に満ち神との親交を確信して、諸手を挙げて祈りました(詩141:2、エズラ9:5、1テモテ2:8)。目を天に向けていたでしょう。
取税人は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」。
彼は、罪を犯したことを意識しています。彼はただ疑いつつも(23:48)、恵を懇願するのみです。神の義が彼に対して向けられるなら、彼は滅ぼされざるを得ないのだから。
取税人は、自分に関しては無条件で神を義とします。パリサイ人は、神の前で己を義としています。
神は、人が御自分に依り頼み、御自分の前で己の無価値を認める場合にのみ、その人の価値を認めたもう(マタ23:12参照)。
AMハンターは、『イエスの譬 その解釈』INTERPRETING THE PARABLES1960で、
「義とされる」はパウロの義認についての教えを暗示する。
これこそまさしくこの譬の主題である。「幸いなのは、神の前に請い求める人たちである」、とイエスは第一の至福の教えで言った(マタイ5:3)。これは譬にされた至福の教えである。
説教要旨、真の改悛とは、1、「取税人のように、ただ一人で神と共にいること」。ただひとりで神と共にいるとき、私たちは自分がどんなに神から遠いかを認める。
2、取税人のように「下を見ること」を意味する。なぜなら、私たちは神の尊厳と神聖を知る時、自分自身の小ささと弱さを認め始めるからである。
3、「神さま、罪人の私をおゆるしください」と叫んだ時、取税人が気付いたように、「危険の中にいることに気付く」を意味する。なぜなら、私たちはパリサイ人のように全く安全だと感じている時、真に危険の中にいるからである。
私自身が、ケルケゴールの講話を読んで感じたこととは、だいぶ開きがあります。
というより、かなり大きな衝撃があり、それ以外のことは、記憶から抜け落ちてしまったようです。このところでの衝撃は、パリサイ人は、決して一人ではなかった、ということです。徴税人も、パリサイ人もそれぞれただ一人で神殿に昇った、とあります。間違いなく、徴税人は、誰も近寄ることもなく、親しい者もなく、たった一人で祈りました。
それに対して、パリサイ人は如何でしょうか。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
キエルケゴールは、このパリサイ人は、決してひとりで立っていない、と指摘します。
パリサイ人は貪欲な人、不正な者、姦淫をする者、取税人その他を引き連れ、足元に引き据え、踏みにじりつつ祈りをささげている。そればかりではない。自らを神の座に立たせている。即ち自分を義とするだけではなく、神としている。裁くことは神の業であるのに。
「自己を判断するのに神の前においてせず人と比較してする場合必ず不当なる自負高慢を生じ、自己を義と信じて他人を軽しめる。パリサイ人はほとんどみなこの種の人であった。パリサイ人と取税人はちょうど正反対の性格を有っている。」黒崎
高ぶりと謙りに関わる最後の一文は、譬を一般化するための後世の付加でしょう。
結論を申し上げます。ひとつは、神は罪人を義としてくださる、ということ。
もう一つは、自己義認を究極的な誤りとしている、ということです。
自己義認、自己正当化に始まる独善が、人々の交わりを始まる前から破壊しています。
主イエスは、すべての人が神の前で自分自身を見つめ、行き方を判断するようにと求めておられます。他の人との比較ではなく、また他の人々の評価・思惑でもなく、神は私をどのように見てくださるか、判断しましょう。
この譬に対する反応は、「自分がこのファリサイ人のようでないことを感謝します」、という言葉で閉じられるかも知れません。そうなると、まるで漫画になってしまいます。