2015年10月11日日曜日

審きの日

[聖書]フィリピ1111、神学校日・伝道献身者奨励日、
[讃美歌]6,480,481、交読詩編9:2~13、
[聖書日課]創世記6:5~8、ルカ17:20~37、

 

教会暦に基づく聖書日課に従い礼拝を構成してきました。週報の礼拝次第の上部に、神学校日・伝道献身者奨励日とあります。これは教会暦ではなく、教会行事と呼びます。

この仲間には、元旦礼拝に始まり社会事業奨励日まで、合計20項目が挙げられています。

間もなくやって来る宗教改革記念日、収穫感謝日も行事の一つです。これらは、信徒教育・訓練の一環として有用であることは認められるが、世界の教会が一致して認めるものではない、一部の地域教会で発生し、ある程度の広がりを持っている、ということが多いようです。たとえば、有名な『母の日』です。アメリカで生まれ、アメリカの宣教師が活躍した地域・国家の教会に広まりました。「有名な」と申し上げましたが、この国の中での話です。恐らく韓国、フィリピンなどでも良く知られているでしょう。歴史の長いヨーロッパの教会では、恐らく受け入れられていないでしょう。批判もあります。

このようなことは、各家庭で考えれば充分であろう。

主旨は、よく理解できるが、教会として受け入れる余地はありません。

母だけに感謝というのはおかしい、父の日があってしかるべきである。

 

神学校日・伝道献身者奨励日に関しては、説明するまでもないと思いますが、少しだけ。

日本基督教団立神学校は東京神学大学(東京都三鷹市)だけです。 

関西学院大学神学部(兵庫県西宮市) 教団認可神学校

東京聖書学校(埼玉県吉川市) 教団認可神学校

同志社大学神学部(京都府京都市) 教団認可神学校

日本聖書神学校(東京都新宿区) 教団認可神学校

農村伝道神学校(東京都町田市) 教団認可神学校

神学校を支え、入学し伝道者になる人たちがまし加えるように祈りましょう。

 

1970年までの神学校は、学生数も今よりは多かった。私のクラスは、40名を超えていた。学園・教会・教団紛争以来入学者は激減。神学教師達も苦労しました。各地の教会を回り、現状を訴え、伝道に献身する人が多く志願するよう語りました。その結果、定年退職後、神学校に進み、寮生活をしながら勉学に励み、卒業し、教師検定試験に合格して各地の教会・伝道所に赴任する人が多くなりました。1025日の礼拝で御奉仕くださる先生も、大阪の玉出教会から東京神学大学で4年間学ばれた方です。玉出教会は、このときもう一人、退職校長を聖書神学校へ送りました。岡山県の教会に赴任され、たいへん良いお働きをされましたが、既になくなられました。次主日礼拝には、このかたの奥様が、ここへ来られる予定です。

また118日礼拝で御奉仕くださる松本牧師も、東大出身で、三菱系の企業の研究者でしたが、定年前に退職され、東神大に学び牧師となりました。

このような神学校の働きを理解し、学生の成長のために祈ってください。教職養成において教会と神学校は車の両輪である とよく言われます。次代の教会のために教職養成は重要です。祈り、献金してくださるようお願いします。

 

「教団立」であることの意味は、日本基督教団が設置主体として経営の責任を負っている、ということではありません。そうではなくて、日本基督教団の成立(一九四一年) において合同した諸教派が持っていた神学校のほとんどが合流して東京神学大学が生まれた、という歴史的経緯を語っているのです。つまり東京神学大学は、日本基督教団 を構成している旧教派の諸神学校による合同(ユニオン)神学校です。英語名がTokyo Union Theological Seminary であることがそれを示しているのです。

 

さて、本日の聖書フィリピ書を見ましょう。

フィリピの信徒への手紙は、初代教会を形成した大伝道者パウロが、書き送ったものです。

このフィリピ教会・始まりの事情は、使徒言行録16章に記されています。アジアの西側で、

御言葉を語ることを聖霊から禁じられたパウロは幻を見ます。その中で一人のマケドニア人が、「マケドニアへ渡ってきて私たちを助けてください」と願います。パウロは、これを神の召しである、と確信して、直ちにマケドニアへ向かった。トロアスを出航してネアポリスの港に着き、マケドニア第一の町フィリピでの活動を始めます。

この時から、キリストの福音は、世界の辺境アジアを出てヨーロッパに向かい、世界の中心ローマに至ります。

その一方、フィリピの教会とパウロとは固い絆に結ばれ、教会はパウロの活動に加わり、パウロを助けました。簡単に言えば、この支援活動に対するお礼状がこの手紙です。もっと詳しいことを知りたい、と思われたら、水曜日午前の聖書研究会においでください。フィリピ書の勉強が始まりました。今週が第三回目です。歓迎致します。

 

112は、当時の手紙の慣わし通り、初めのご挨拶です。発信人の自己紹介と受信人の特定。この部分でたいていの手紙はパウロの使徒職の弁明がありますが、ここでは「キリストの僕」、ドゥーロス・奴隷と紹介します。長い間の親しい関係とそこに生まれた信頼は、使徒職の主張も不必要にしたようです。

それに続いて前文祝祷があります。これはパウロ書簡に共通の「父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平和が」あるように、との祈りです。この手紙が、牢獄の中で書かれた事を思うと、不思議に感じざるを得ません。パウロ自身が、その状況を恵みが満ちている、平和な心境だ、と感じていなければ、こうは書けないでしょう。

投獄された中にも神の恵みがある。だから平安が満ちているのです。

1311には、フィリピ教会の人々のためのパウロの祈りが記されます。

 

ここには「感謝」、「祈り」、「喜び」という言葉が出てきます。これらの言葉を聞くと、テサロニケの信徒への手紙一51618に記された「常に喜べ、絶えず祈れ。すべてのこと感謝せよ」との御言葉を思い出します。

 

パウロは、何故、感謝を捧げずにはいられないのでしょうか。

それはただ単に、フィリピ教会の人々との間にある人間的な親しさ故に、感謝を捧げ、祈り、喜んでいるのではありません。フィリピの人たちが、あのヨーロッパ宣教の初めから、今に至るまで、「福音に与っているからです。」福音を共有してきた、という意味です。

 

それにしても、「福音にあずかっている」とは非常に面白い表現です。福音とは、喜びの知らせと言うことです。もう少し具体的に、その中身を説明すると、

主イエス・キリストが私たちのために世に来てくださり、十字架で死に復活して下さった。そのことによって、私たち人間の罪が贖われ、罪と死の力から解放されるという形で、神様の救いの御業が成就した、ということです。

これは、全ての人に伝えられるべき良い知らせであり、私たちは、それを聖書の御言葉を通して聞くことができます。そのようなことを考えると、ここでパウロが、「あなたがたが福音に聞いているからです」と記していたならば、遙かに分かりやすいでしょう。しかし、パウロは「あずかっている」と言うのです。この「あずかる」、と言う言葉はコイノニアと言う言葉で、「交わり」とも訳されます。元の意味は、同一のものを分け合って受けていること、即ち受けることにおける分担、ということです。或いは、一つのものを与えるにせよ、受けるにせよ、他と共有であること。

 

この共有の内容については、7節最後の行がそれを示しています。

「あなた方一同のことを、共に恵みに与る者と思って、心に留めているからです。」

恵みの共有です。これは良い業であって、イエス・キリストによって私たちの中で始められたものです。始めた、と言うからにはその終わり、完成の時がある、と予期されています。それは審きの日であり、キリストの日です。

最後の審判といえば、日本人にとっては、地獄極楽に分けられる時、閻魔大王などが思い起こされる恐ろしい言葉です。

西欧のキリスト教国であっても恐ろしいイメージが与えられています。モーツアルトやヴェルディのレクイエムを聴くとそのことがよくわかります。『怒りの日』と名付けられています。ラッパの音とともに、というイメージがあります。そしてフォーレの作品では、通常の「怒りの日」がなく、6曲『リベラメ』、終曲『天国にて』イン パラディスムが静かに流れます。

 

ブロッホの作品に『コル・ニドライ』があります。学生時代、従姉妹の世話があり、大手町にあった産経ホールでヤヌーシュ・シュタルケルの独奏会。著名なチェリスト、その夜の演奏曲目の一つ。彼は、この曲をステージに乗せるのは初めてということで譜面台を立てての演奏。その所為でしょうか、緊張感のある素晴しい出来でした。私も始めて演奏会で聴きました。以来いつも思い出します。

コル・ニドライは、『神の日』を意味するヘブライ語です。神の裁きが行われる日。

 

どうやらどの国でも、人間は、審判があり、その後、赦された者、義を認められた者は天国へ上らされる、と考えてきています。しかし、パウロはそのようには語っていないようです。

まずあなた方の中には、すでに良い業が始められています。始められた方が、それを完成させてくださいます。その方とはキリストです。私たちが、あくせく自分の義をたてようと行動してもそれは何の役にも立ちません。本当に重要なことはなんでしょうか。

簡単なことです。私たちの中に与えられた神の恵みを受け入れ、神の栄光と誉れを褒め称えることです。自分の義を自分で立てようとする試みは放棄しましょう。

キリストによる救いに身を委ねましょう。審きの日は、私たちの救いが完成する時です。

感謝と喜びをもって祈りましょう。