2015年10月18日日曜日

天国に市民権をもつもの


[聖書]ルカ191127
[讃美歌]6,441,463、
[交読詩編]78:1~8、
[聖書日課]士師記7:1~8、ヘブライ11:32~12:2、

 

本日、私たちに与えられた主題の背景を、少しだけお話しさせてください。

新約聖書の時代の市民権は、ローマ帝国における市民権であり、イタリア半島内のラテン市民権と呼ばれるものでしょう。それが共和制国家を取り巻く情勢の変化によって、拡充されたものです。共和制国家も帝国も戦争に勝利すると、敗戦国・民族をラテン市民権を持たない非市民層として処遇しました。奴隷と並ぶ労働階級としました。

 

市民の権利は、税金を納めること、武装を整え兵役に服することでした。他にもあります国のため奉仕することが出来る権利。やがてこれらは権利ではなく義務になって行きます。

パウロは生まれながらのローマ市民権保持者、皇帝に訴え、裁きを受けることが出来ました。裁判は、自分の権益・名誉を守るためのものである、と理解されています。

それに対してローマ軍団の千卒長・千人隊長は、自分の代に大変な苦労の末、ようやくその市民権を金で買うことが出来た人です。

 

この事からわかるように、当時の市民権にはいくつかのレベルがあったようです。ベテランズと呼ばれる満期除隊の軍団兵、解放奴隷、服従した敵国の市民、いろいろ考えられます。レベルによって権利に制約がつけられました。投票権のない市民権もありました。

また、市民権は生得のものではなく、権力者(元老院、皇帝、征服者)の側から授与されるものでした。

現代社会で、私たちが市民権を口にするとき、それは市民革命を背景に、特に法的な権利と義務との関わりで用いられるでしょう。聖書の時代とはだいぶ違います。

 

福音書の譬え話で、主イエスが市民権を題材にお話になっているか、と言えば、それはありません。本日の主題が《天国に市民権をもつもの》となっているのは、聖書日課を設定する担当者の考えによります。私には理解しがたいものです。

イエスの十字架によって罪の手から贖い取られたものが、神の国の市民です。

 

さて、ルカ福音書1911以下ですが、始めに文脈を見ましょう。

183543、エリコの近くで、ある盲人・物乞いを癒される。

三福音すべてが、時間的順序や人数の違いなどはあっても、取り上げています。

眼が不自由であることは、イスラエルの構成メンバーの地位を失わせるものです。

 

19110、エリコの町を通っておられると徴税人の頭、ザアカイと出会います。

徴税人の頭ザアカイは、格別に背が低かったように記されます。恐らく幼少期の病気のため未発達だったのでしょう。障害のあるものはイスラエルの宗教共同体から排除されました。誰からも嫌われる仕事につくことしかできなかったのです。裕福な生活を送ります。しかし、彼を助ける友人は一人もいませんでした。そんなザアカイ、イエスの噂を聞いて、何とかお目にかかりたいと願っていました。町の人たちは邪魔をします。遂にイチジク桑の木に登りました。下を通りかかったイエスは、ザアカイよ、と話しかけてくれました。ザアカイは大喜び。

「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていた

ら、それを四倍にして返します。」 イエスはザアカイの家に泊まることを話しました。

この流れは、財産・資産を持つものは、それをどのように用いているか、という問いがあ

る、と指摘する人もあります。ここでは障害を持つ人、貧しい人が恵みに与るものとされ

ています。ユダヤ人たちの神の国到来に対する熱が一挙に高まったことでしょう。

それが次のイエスの教えに反映するのです。

 

もう一つの視点

視点を変える。盲人の物乞いは何も持っていない。彼にあるのは、イエスに対する信頼だ

け。むしろ、当初はイエスに憧れていた、と言いたい。現代のミーハー的な憧れではない。

もっと熱く、自分の生き方を変える希望に直結している。

彼は何故、無一物の物乞いになったのか。誰も自ら望んでそのような境涯になりはし

ない。中東には、或いは古代世界には眼疾が多かった。砂埃と衛生・医療状況のため。

この盲人の乞食は、視力を失ったために自分自身の居場所を失ったのではないか。さらに、

生きるために必要な最低限度の資産すら失ってしまった。

 

もう一人の人物が登場する。彼は仕事を持ち、豊かな資産を持っている。しかし持ってい

ないものもある。背の高さがない。彼は背が低かった、とある。子どもの頃病気になり、

成長が止まってしまった、と推測されている。

友情を持っていない。イエスの姿を見るために行列・人間の壁の前に出たい。背が低いの

だ。彼が前に出たところで誰の妨げにもなりやしない。しかし、目引き袖引き彼の邪魔を

する。意地悪をする。決して助けようとはしない。

これがザアカイの現状です。有能な徴税人、金はあるが、親しい友はいない。

そのザアカイの家に泊まりましょう、と主は言われます。11節以下は、このときザアカイ

の家で話されたことと考えられます。

35:4心おののく者に言え、「強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復を

もって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる」と。

35:5その時、目しいの目は開かれ、耳しいの耳はあけられる。

35:6その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う。それは荒野に水が

わきいで、さばくに川が流れるからである。

 

ルカ722、マタイ115,122220302114、などにも引用されています。

当時のユダヤ人にとってメシア到来の予言としてよく知られていた聖句です。

 

さて、11節以下「ムナのたとえ」は何を告げるのでしょうか。

マタイ251430に、ほぼ同じ物語が「タラントンのたとえ」という小見出しになって出

ています。タラントンもムナもギリシャの通貨の単位です。

タラントンは、計算用の単位で、6,000ドラクメに相当。

ムナは、ギリシャの銀貨で、1ムナは100ドラクメに相当。

ドラクメは、ギリシャの銀貨で、主さ約4.3グラム、デナリオンと等価。

1ムナは、ギリシャ・シリアの金銭価値では約100ドラクマに当たります。これは労働者の

三か月分の賃金に相当します。

 

人々は、ザアカイの家の客となったイエスのザアカイとのやり取りに耳を傾けていました。

すると、イエスはひとつの譬を話し始められました。

立派な家柄の人が、王位を受けるために遠い国へ旅立つことになりました。そこでこの人

は十人の人を呼んで10ミナを渡し、「これで商売をしなさい」と命じました。

 

この譬えのところどころに、歴史的な事実が目に付くように挿入されています。

ヘロデ大王の息子アルケラオスは、父親の死に際して父王の後継者として王位を受けるた

めローマに上ります。彼は非常に嫌われていました。ユダヤ人は、自分たちの代表55人を

王位継承阻止のためローマに送りました。結果、アルケラオスは王にはされず、短い期

間ユダヤを治めることを許されました。同時代の出来事が語られています。

 

主イエスの譬の内容が重なります。ユダの人々が考えているような神の国は来ません、と

いうこと。彼らが考える「神の国」は、あらゆる恩恵、自由、喜び、平和が直ぐに自分た

ちのものになるというものでした。それにたいして主は、この譬を語られます。

十人にムナ・タラントが預けられました。これはすべての者に与えられているもの、何で

しょうか。能力でしょうか。現代のタレントの語源はタラントです。しかし能力には大き

な格差があります。時間では如何でしょうカ。タイム イズ マネーと言われますので、

これも当たっているようです。もっと良さそうなのはです。誰でも命ある限り生きてい

ます。人それぞれは、与えられた命を時間の許す限り、その能力を生かして生きてゆきま

す。

私たちは、それを誠実に生きる責務を担っています。結果が問われるものではありません。

既にその家の者になっている私たちは何かを証明するのではなく、主人に対して忠実であ

ることだけが求められます。

神の国の市民権は、神の国の主権者によって、既に与えられました。市民たるものは、ど

のように評価されるでしょうか。その人の成果ではありません。成果によって市民となる

のではありません。プロ野球の監督・選手は、契約金・給与に相当する働きを求められま

す。

神の国の市民は、神に対する忠実が求められます。その人が、どれほど与えられた能力を

用いたか、与えられた時間を終わりまで無駄なく用いたか、その命がどれほど輝いたか。

たとえ一瞬でも良い、誰かがその人の光によって、輝きによって導かれ、歩むことが出来

たなら、その一生は価値あるものとせられます。