2015年11月1日日曜日

神の顔を避けて


[聖書]創世3115
[讃美歌]194、218、492、
[交読詩編]51:3~11、
[聖書日課]ヨハネ3:13~21、ローマ7:7~13、

 

本日は、「聖徒の日」永眠者記念日として礼拝を守ります。

新約聖書では、聖徒・聖なる者・聖人をハギオスで表し、

すべてのイエス・キリストを信じる人、キリスト教会の信徒を指しています。

 

宗教改革記念日、1031

マルチン・ルターは、1517年のこの夜(万聖節の前夜) all saints day

ヴィッテンベルク城教会の門扉に95か条の論題を公示。全教会内外の論議を求めた。

主要な論議は、ローマ教会の贖宥権販売に反対することでした。ローマ教会・教皇庁の伝統的な権威に敢然と挑戦します。サンピエトロ大聖堂・ヴァティカン宮殿の建築資金のために作られた制度、教義に何の権威があるのか。諸聖人の余分な功徳、それを職宥権としてなどとんでもない。罪人の罪の赦しは、ただキリストの十字架による贖いにより果たされた。獲得された。そのほかどんなものも、贖罪を果たすものはあり得ません。

 

ばんれいせつ【万霊節】これは112

All souls' day キリスト教特にカトリック教会や聖公会の一部で,万聖節の翌日である112日になされる死者の記念日。死者の日。

 

ローマ・カトリックなどは、この前の日を万聖節 all saints dayと呼んで、

すべての聖人達を記念しているようです。これが111日。

我々の教会・日本キリスト教団では、聖書に出てくる《聖なる者、聖者》はすべてイエスを主キリストと信じる者、信仰者と理解しています。そこで、11月第一日曜をすべての逝去者を記念する時と考え、守っています。万霊節、万聖節を一緒にしたのでしょう。

したがって、本日はすべての信仰者、すべての死者を心に覚え、祈り、主なる神の主権を讃美するときとなります。

 

ハロウィンHalloweenブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アングロ・サクソン系民族の祭日。 10 31日すなわちキリスト教の万聖節の前日をいう。古くはケルト人の祝日で,ケルト暦の大みそかにあたり,この夜悪霊や魔術師たちが戸外を駆けめぐって次の年の予報を声高に叫び歩いたといいます。

 

カソリックの万聖節の前日に、死者を覚え、死者に扮装し、日本の盆や彼岸のように歓迎する俗習がハロウイン、となります。

 

創世記3章は、創造された初めの男アダームとその相応しい助け手である女の物語。

蛇が登場し、女を言葉巧みに誘惑する物語。その後の主なる神との対話が続きます。

ご一緒に改めて読んでみましょう。新しい発見があるかも知れません。

 

創造物語は誰が見て、書いたのでしょうか。昔は、モーセが神より啓示されて、それを書いて伝えた、と教えました。

今では、古代イスラエル人が紀元前10世紀、ダビデ・ソロモンの統一王国、繁栄の絶頂期に自分達の信仰告白として書いた、と考えます。第1章は、捕囚の時期にイスラエルが同様に告白した、と考えています。天地創造物語は、当時の人間の自己認識とも言えます。

 

誘惑者は、美しく、真実を身にまとっている。蛇であり女です。

誘惑の虚言は、90パーセントの真実に混ぜて乗せられる。

虚実はあざなえる縄の如し、儲かりまっせー、というのはだいぶ違う。人間の欲望を刺激する。

 

誘惑者エヴァは、自分の弱さを知り、一人を恐れる。常に同伴者、随伴者を求める。

一人ではなく、ふたり一緒に食べよう。その結果も二人なら怖くない。責任は感じない。

神のように賢くなれる、と思って食べる。その結果は、裸の恥を知ること、神の足音を恐れ、身を隠す。神の言葉に背いた自分を知ったこと。

 

裸であることが判った。性的な意味を強調する向きもあるが、これは人間が守られ、隠されている状態から、それらを剥ぎ取った状態を示しているのだ。ありのまま。

ありのまま、良い意味だけではありません。恐ろしく、弱く、汚れたことも含まれる。

それを知った者は、それを何とか隠そうとする。それがイチジクの葉。

主なる神は、そんな人の弱さを獣の皮をはぎ、衣として与え、守ることになります。

 

衣類の意味が教えられます。ファッションとして美しく飾る以前に、衣裳は人間の弱さ、欠点を隠すものだ。現代風にはスタイルの欠点・欠陥を補正する、と表現するのだろう。

 

これ以前、彼らは神と顔を合わせることを怖れず、親しく話ができた。しかし今や、神のようになったはずの彼らは、神を恐れる者となった。ある時、園の中を歩まれる神の足音を聞き、怖れて身を隠した。隠したことでかえつて彼らは、その犯したことを明らかにする。ここに用いられている表現は、ヨナ書に全く同じように顕れます。P1445以下

 

預言者ヨナは、神を知らず、悪行を行うアッシリアの都ニネベへ行って予言せよ、と命じられます。勿論悔い改めて唯一の神を礼拝しなさい、と語ることです。ヨナは、あんな悪逆非道のアッシリアに預言するのは真っ平だと拒絶します。預言の結果、彼らが悔い改めたら、神様は必ず考えを変えて彼らを憐れむに決まっている。オー嫌だ、私の面子はどうなる、彼らと一緒に神礼拝するのかい、いやだいやだ。

遂にヨナさんは、身を隠そうとします。《神の顔を避けて》13タルシシへ行く船に乗り込みます。しかし、何処へ行っても、神から逃れることはできません。

 

罪の責任は、自分で担うには重過ぎる。責任転嫁。アダームはエヴァに、エヴァは蛇に。

しかもその中で、アダームは、「神さま、あなたがわたしと一緒にしてくださった、あの女が」と言い、神に責任転嫁。エヴァは、「蛇がわたしを騙したのです」という。お造りになったもののうちもっとも賢いから、わたしが騙されるのは当然。悪いのはお造りになった、あなたですよ。

 

こうして二人は、神との約束を破り、楽園を追放されます。

繁栄の絶頂にいたイスラエルは、その只中で自分達の罪を、罪責を見つめ、認めました。

 

元来、旅の始まりは楽園喪失の時、エデンの東、ノドの地へ移されたことにあります。

416カインは、主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。

その時主は、ご自身が造られた獣の皮をはいで、衣として二人に与えた。

裁きの中にも、神の恵みと憐れみは示されていました。

 

人間は、神のもとへ帰るまで真の平安は得られません。

死は恐怖ではなく、まったき平安の時です。

その間の人生が平安に満たされるのは、神の御心に従う時なのです。

詩編10219『主を讃美するために民は創造された。』

目的の地に辿り着かないまでも、この地上を歩みつつ、人は充足することができる。

讃美しつつ歩もう、ハレルヤと歌、唄いつつ歩まん!

 

こうした人間の救いのために、御子イエスは、この世、この世界に来られました。

この神の愛を明らかにするのが、ヨハネ316です。