2015年11月29日日曜日

主の来臨の希望

[聖書]イザヤ52110
[讃美歌]194,8,236、
[交読詩編]47:2~10、
[聖書日課]ヨハネ7:25~31、ローマ11:13~24、

 

本日は、教会暦のアドベント第1主日、この日から教会は新しい年度に入ります。

主キリストの御降誕を以って全てが始まる、という意味になります。降誕日の前、4回の主日を、その準備の期間とします。クリスマス、イースターには、このような準備期間がついています。救いの到来は、旧約聖書以来、長い準備期間がありました。それを考えるなら、迎えるわたし達、教会も相当の備えをして当然でしょう。信仰的な心の備えと同時に、

生活面での実際的な準備も進められます。リース、クランツ、クリッペン、アドベントカレンダー、クッキーやケーキ作り、食材集め、ローソクやモミの木の準備、プレゼントの下見。合唱の練習。クリスマスカード作り。一つ一つが丁寧に整えられます。それによって、年に一度のクリスマスの楽しさが増して行きます。印象付けられるでしょう。

 

本日、与えられた聖書は、イザヤ52110です。イザヤ書は全部で66章。

1章から39章までが第一イザヤ、預言者イザヤは、貴族アモツの息子、紀元前8世紀にエルサレムで活動しました。

続く40章から55章が第二イザヤ。通称ですが、この第二イザヤは紀元前6世紀に捕囚先のバビロンで活動した預言者です。名前は伝えられていません。よく無名の青年預言者と言われますが、そんなはずはありません。

「名もない雑草」といった時、御殿場でした。林冨美子先生にたしなめられました。「もちだせんせい、どんな雑草でも名前があるのよ。こちらが知らないだけ。」自分がその名を知らない、と言うべきでした。

そして第三部は第三イザヤ。名前が分からないため、第三イザヤと呼ばれますが、捕囚からの帰還者を迎えたエルサレムにおいて活動し、56章以下にその預言が置かれています。大まかに、こうした三部構成でイザヤ書は成り立っています。

 

新バビロニア帝国によって、南ユダ王国は破壊され、パレスチナの地から遠くバビロンへと、3千人を越す人々が拉致・連行されました。主として祭司や長老など宗教的社会的指導者層に属した人々でした。こうした人たちが連れ去られることによって、国は完全に機能を停止し、滅亡し、長く荒廃してしまうことになります。第二イザヤもそのように捕囚された民のひとりでした。名を知られぬこの預言者は、捕囚先のバビロンにあって、他の民たちと同じ苦しみを味わいつつ、神のみ言葉を取り継ぐ働きを担ったのです。

捕囚民の一覧を読むと、そこにはバビロニア帝国側の用心深い構想が見て取れます。王やその一族、貴族達、政治・経済の指導者に加えて軍事指導者、勇敢な戦士、軍事技術者・生産者がバビロンへ移されます。軍事蜂起、反乱などが起こされないようにしています。

 

「慰めよ、我が民を慰めよ」40章で始まる第2イザヤ。そのほかにも良く知られた言葉がたくさんあります。「ベルは伏し、ネボはかがみ」、「白髪となるまで、あなた方を持ち運ぶ」とあるのは46章。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。」

これは幾つもある苦難の僕の中でも有名な53章の一部。

 

さて、52章は何を告げるのでしょうか。預言ですから、当然神の言葉。言葉は単なる音声ではありません。言葉にはそれを発するものの意志や感情、計画、精神などが込められています。或いはその背景なども聴かれねばならないこともあります。

まず、この言葉の背景を確かめましょう。

 

「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。」冒頭1節の言葉です。口語訳では

「シオンよ、覚めよ、覚めよ、力を着よ。」となっています。

シオンは、イスラエルを指しています。エルサレム神殿のたつところがシオンの丘でした。それに基づいてしばしば用いられます。

覚めよ、とあるのは、捕囚のイスラエルは長い間眠った状態にいた、と理解しているのでしょう。新訳は、イスラエルは捕囚の間全く無力になっていた、と考え、そこに力を着よ、という言葉を結びつけ訳したものと理解できます。

 

異国にいながら、既に赦され、解放されている、と言われなければ判らない、そんなことがあるだろうか。考えているうちに、かつて読んだことを思い出しました。

 

19世紀の中ごろ、一艘の帆船が大西洋を横断する航海に出た。スペインの西部ポルトガルの港を後に、アメリカ南部・カリブ海目指して西南へまっしぐら。快調な航海は間もなく破れた。浪は荒れ、風は強くなり、嵐が来た。まもなく帆は持って行かれ、舵は壊れ、舟の行く先はおろか現在地を定めることもできない。自力航行できないままに、舟は何日も流された。遂に水はつき、食べるものもない状態。行き交う船もない。遠くに通り過ぎる船が見える。あそこはきっと定期航路に違いない。しかし、方向を変えることも、連絡することもできない。ようやく一艘の船と出会った。漂流しているとは見えないのだろう。通り過ぎてしまう。大声で叫んだ。

助けてくれ、水をくれー。返事は、「自分で汲めよ、足元にたくさんあるよ」。

半信半疑、バケツを下し、くみ上げてびっくり、水だ、塩水じゃないぞ、真水だ。

こんなことがあるのか、奇跡だ。海の真っ只中に水が湧いているのか、それとも、川ができたのか。

実は、この漂流船は、いつの間にか潮に流され、ブラジルの大河アマゾンの河口部に入っていたのです。

 

 アマゾン川の長さは7000km超、流域面積は豪州大陸に相当する。

河口は大きく広がっており、どこからどこまでを河口と考えるかにより大きく異なるが、その幅は東京から名古屋・大阪までの距離に匹敵する 300 km とも 500 km ともされる。一般的には、九州より僅かに広い面積を持つマラジョ島は中洲島と考えられている。水量、流出物の量が莫大なため、河口から約 320 km 沖合いまで大西洋は海水の塩分濃度や、海面の色が変化している。

 

アマゾン川の水深は極めて大きい。本流は通常でも50-60mであり、場所によっては120mほどの深さを持つ。このため、かなり上流まで大型の船が航行できる。喫水が6m程度の船ならばマナウスまでの航行が可能で、4m程度の船ならブラジルを超えペルーのイキトスにたどり着ける。なお、河口とイキトスの距離は3500kmあるが、標高差は100m程度であり、アマゾン川は非常に流れが緩やかな点も特徴である[5]

北海道から鹿児島までの直線距離は約2,000km。北海道稚内駅から鹿児島県枕崎駅まで行くとした場合の鉄道の距離を、Yahoo!の路線検索で調べれば3140.9km

 

自分たちは塩辛い海の真っ只中にいる、と信じていたのに、そこは真水の海でした。

わたし達は、神ならざる力の支配のもとに生きているようです。ところが、そのまま神の力の支配するところを生きています。

 

主の来臨は、一個の弾丸が飛んで来るのを迎えるようには考えません。むしろ、周辺一体が朝日に照らし出されてゆくように、明るくなる情景です。やって来るイメージで考えることが多い。しかし、み子は、み父と共に、既に私たちの周囲に満ちておられます。それを見出し、受け入れることが来臨です。

  讃美歌21268、(讃美歌97、待降の部)

朝日は昇りて 世を照らせり、暗きに住む人、来たり仰げ。

知恵に富みたる主 世に出でたり、この世の悟りも むなしきもの。

 

かつて、イスラエル人はエジプトへ行き、奴隷身分に落とされ、厳しい労役に苦しんだ。

また北イスラエルは、アッシリア帝国により滅亡させられ、国民は消滅しました。

そして今、ここバビロンで南ユダの民は、わたしが嗣業として与えた大地から遠く離れた偶像礼拝の土地に捕らえられています。主は言われます。

この状態は、私の名が常に、絶えず侮られていることだ。しかし、それにも拘らず、わたしはこの地に於いても絶えず神であり続けてきた。ここにいる私の民は、間違いなくわたしが神であることを知るだろう。今まで、私の姿、力を見ることができなかった者たちに、私の存在を私の力によって明らかにする。

 

神の存在と力は、点ではなく、面によって示され、知られます。

現在でも、神は存在しています。人々が、神は死んだ、と言っているその時にも、神はその周辺一帯に存在しているのです。アマゾン川河口に入った船と同じです。

私たちの周囲に神とその恵みは存在しています。目を開いて見出すことが求められています。そしてバケツを下ろすことが。