2015年12月6日日曜日

旧約における神の言葉

[聖書]列王記上22117
[讃美歌]259,227,58、
[交読詩編]147:12~20、
[聖書日課]ヨハネ5:36~47,Ⅱペトロ1:19~2:3、

この日本の国で神の言葉とは何を指すでしょうか。

神前結婚式に出席したことがあります。本当は、私の兄弟の結婚式9回出席したはずですが、一回しか記憶にありません。その時は、祝詞奏上で、「・・・の、ぶすけ」の言い方がおかしいということでみんなが噴出したことが記憶に残りました。もう50年を越えました。

祝詞奏上は、先祖の神々に申し上げる、ということでした。

 

祝詞奏上(ノリトソウジョウ)                           祝詞とは神へ申し上げることばで、御守りいただいている事への感謝の意や、 これからも御守りいただくお願いを申し上げる儀です。

 

明治になって、日本の国の様子はそれまでとは一変しました。一方では近代化が推し進められ、脱亜入欧、欧米に追いつけ追い越せ、産業国家への道を進みました。他方、明治政府、その指導者は立憲君主国家を標榜しながら天皇を超法規的な存在としました。現人神です。勅語、ご聖断は絶対であり、現人神の言葉として受け入れることが求められました。

ご真影、お写真もまた神聖なものとして仰がれました。昭和20年、1945年夏までは、このような状況でした。絶対的な神の言葉があり、それはそのまま受け入れられ、考えることもなく服従させられました。

 

旧約聖書における神の言葉、この主題があり、それを考えるなら、私たちの社会における神の言葉、という主題があり、それを考えることも必要かなと感じました。もう少し続けさせてください。

 

ある日、ある時、ある所で、ある人が、これから神の言葉を告げます、と言いました。

私たちはどのような気持ちでそれを聴くでしょうか。有り難い、と思いかしこまって、神妙にそれを聴くでしょうか。まず多くの人たちは、そうはしないでしょう。冗談半分に、何処の神様の言葉ですか、あなたのうちの山の神ですか、横丁の祠の神さまかな、靖国神社の神さまもあったねー、などと言うのではないでしょうか。

 

日本人は、非常に信心深い、と言われます。生活自体の枠組みが宗教的になっています。

生まれてから死んで葬られる時まで、その節目節目は宗教儀礼で飾られます。慣習、仕来たり、風習であって、たいした意味はないと言う人もいます。そう思うことは自由ですが、存外意味を持っている、というのが現実です。

しかし、この日本の宗教状況には、一つの不思議があります。神道の祭儀には、祝詞奏上はあります。それに対して神の側からの応答はありません。元来祝詞には、神からのものと、人の側からのものという二種があったとする説がありますが、いまだに決定してはいません。現代の神道は、神からの言葉を失い、一方的な言葉で成立しているようです。

 

折口信夫は古代祝詞の用例から「〜と宣る(宣ふ)」と結ぶノリト型と「〜と申す」と結ぶヨゴト型の別のあることを探り出し、高位にあるものが下位にあるものへ祝福を授けるための言葉がノリトすなわち「宣り言」であり、その礼として下位にあるものが高位にあるものを称え服従を誓う言葉がヨゴト(寿詞)であると解した。

すなわち現今云うところの祝詞は、折口のいわゆるヨゴト(寿詞)の系譜に属する祈願の言葉がたまたま「祝詞」の名を取ったものであるということもできる。祝詞の語源・本義に関する右の両説は現在でも容易に決着がつけがたい。

 

 ソロモンの死後、その後継者レハベアムの頑迷により、北の諸部族はヤロブアムを王に推戴し、王国は南北に分裂(紀元前922年)しました。その後、南のユダ王国では20人の、北のイスラエル王国では19人の王が統治することになります。

ユダ王国の4番目の王はヨシャファトです。その頃、イスラエル王国の王はアハブで、イスラエル王国7番目の王でした。分裂以来、北と南の王国は不仲でしたが、この王達は仲良しになっていました。

あるとき南のヨシャファト王は、北のアハブ王を訪れました。アハブは、ヨシャファトに言いました。われわれにとって大事な町、ラモト・ギレアドは、シリアに奪われ、そのままになっています。あの町を取り返しに行こうではありませんか。ラモト・ギレアドというのは、神の民であるイスラエルとユダにとっては、特別な意味を持つ土地でした。

 

旧約の中でも、申命記、ヨシュア記には、律法の細かな規定が多く記されています。その中で、全くそのつもりがなかったのに、事故で人を殺してしまった者は、ラモト・ギレアドの町の中にいさえすれば、その罪の裁きを猶予されるとされた土地でした。神がそのように定めた場所で、逃れの町と呼ばれました。それが、今、アラムの王の支配の下におかれたままになってしまっている。それで、共同戦線をはって、これを取り戻そうと相談をしているのです。

 

ヨシャハトは、アハブに賛同しながらも、「主の言葉を伺いましょう」と言います。

アハブは、預言者400人を呼び寄せ、主の言葉を告げるように言います。

預言者たちは異口同音に、「主が勝利をお与えくださる」と預言します。

ヨシャハトは、どうやらこれはおかしい、と感じたようです。王が喜ぶようなことを言っている、それだけで良いのか。そこでアハブに尋ねました。

他の預言者はいないのですか。アハブは応えます。

「もうひとりいますが、彼はいつも悪いことばかり言います」。王の気に入らない預言をする者ならいます。われわれの役には立ちませんよ。それでも良ければ呼びましょう。

呼ばれてきたのが、イムラの子ミカヤです。その使者は入れ知恵をしました。「他の預言者と同じことを言ったほうがいいよ」。本当に善意からの忠告だったのでしょう。

ミカヤは、言いました。「ラモテ・ギレアデを奪い返しに行きなさい。主がお与えくださいます」。

アハブは怒ります。何時になったら本当のことを言うのか。

 

ミカヤは言います。17節、イスラエルは羊飼いのいない羊のように野山に散らされる。主は飼い主のいない羊を、安らかに家へ帰らせなさった。

更に問答は続きます。重要なことは、「主は偽りを言う霊をあなたのすべての預言者の口に入れ、また主はあなたの身に起こる災いを告げられたのです。」ということです。

 

預言者たちの一致した預言に従い、アハブとヨシャファトは同盟を組み、ラモト・ギレアドでシリアと戦いましたが、敗れました。イスラエル王アハブは用心深く、兵士の一人のように装束を変えていましたが、シリア兵の矢が突き刺さり、陣没します。

 

王宮の御用預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとはしませんでした。むしろ、王が喜びそうなことを選んで語りました。そちらのほうが、自分たちの国王から歓迎される地位を確保できるからです。神の御言葉より自分の利益を重んじました。

 

ただ一人ミカヤだけが、神の真実の言葉を告げます。アハブ王が求めることとは違っていても、内容が災いであろうと、真実を告げてきました。アハブ王は、大勢の預言者の言葉を受け入れますが、同時に、真実はミカヤの預言にあることを知らされてきました。

  

ところが、今回そのミカヤが語ったことは、400人の預言者たちとほぼ同じ内容です。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と。王の幸運を預言しました。実は、神から送り出された偽りを言う霊になされるがままに語っていることをミカヤは自覚していました。

この預言者に対するアハブ王の反応も、また興味深い。「ミカヤが災いの預言ばかりするから憎い」と言っていましたのに、今は災いではなくアハブ王の勝利を語っているのに、これに腹を立てています。「お前は真実を語っていない」と言うのです。 アハブ王にとって、願い通り、求めた通りを告げられても、空しく、真実でないことが響いてくるというのでしょう。アハブ王はミカヤを憎みながらも、彼の語る内容に信頼をしていたのでしょう。

 

だから真実でないことを告げられた事が耐えられなかったのです。だからといって、真実を告げられることにも、耐えられませんでした。続けてミカヤが語った預言は、アハブにとってとても悲しい内容でした。

 

イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っている。ということは、イスラエル人の羊飼いの役割を担う王であるアハブがいなくなるということです。アハブは滅びが決定づけられているというのです。一方、イスラエルの民はそれぞれ自分の家に無事に帰ることができる。アハブ王がいなくても、民は安全に暮らしていける、というのです。アハブ王はいなくてもいい、民は安全無事だ、と言われます。王にとっても、このように言われることほど悲しく辛いことはありません。

 

ヨシャファトは、アハブに、「まず主の言葉を求めてください」と言い、自分たちの願望を叶える威勢のよい言葉を聞いた後にも、「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と問いかけました。

私たちもまず真実に基づく神の言葉を求めましょう。私たちは神の御心に適う、真に祝福された命に生きることができるよう、神の導きを求めていきたいと願います。

 

今日、私たちはこのアハブを通して、どんなに神に背を向けている者であろうとも、実は真実を求めて喘いでいることに気づかされました。それでもなお自分の思いに強く縛られ亡びに向かう人間の愚かさにも気づかされました。

そうであればこそ、このような私たちに命の道を切り開いてくださった主イエスを心から喜び迎えたいと思います。

私たちは、多くの場合自分にとって都合のよいことを期待し、求めます。

神は、それとは反対のことを用意されます。そして最終的には、わたし達が肯き、ああこれで良かったのだ、と納得する道を備えてくださいます。