2015年12月20日日曜日

キリスト降誕

[聖書]ヘブライ10:1~10、
[讃美歌]259、旧101、268,260、
[交読詩編]113:1~9、
[聖書日課]ゼカリヤ2:10~13、ルカ1:57~66、(祝会261)

本日は、待降節第4主実ですが、クリスマス礼拝を守ります。何処から始まった習慣なのか判りません。本来、クリスマス礼拝は25日になってから守るはずです。ローマ教会を尊敬できるとすれば、そのような旧く、良い慣わしを守っていることです。今でも、函館のトラピスト修道院ではクリスマスの真夜中の礼拝を行っています。先日伺った折、松本牧師夫妻は、出席の約束をしておられました。24日夜、出かけて、25日になって礼拝する。ここ札幌でも、山鼻の教会をはじめ各所で、深夜ミサを行っているはずです。み子の御降誕という喜びを、その感謝を、分かち合うために。

 

このクリスマスに与えられたのは、ヘブライ人への手紙です。私にとっては初めてのことです。この手紙には、降誕の記事はないし、難しい、と感じていました。

101以下にあるのは、み子の降誕はどのような意味をもつのか、ということです。

神の御子が、まったき人となって生まれることにどのような意味があるのでしょうか。

 

すべてに超越する絶対の神が、人間世界に内在し、相対的な存在となるのが降誕物語です。

神は神だから超越のままとどまっていればよいではないか、余計なお世話、と言われるかもしれません。小さな親切、大きな迷惑、という言葉もありました。その答えは、

「神の独り子は、人間にはどうしようもないこと、最終、究極の問題に解決をもたらすために世に降られました」ということです。

 

その問題というのは、罪です。古代イスラエル人は、人間の一番最初の問題も罪だった、と考えました。紀元前10世紀でしょうか、イスラエルはダビデ・ソロモン両王のもと統一王国となり、民族の歴史上最大の領土を支配し、繁栄を誇っていました。そのさなかに書かれ、語られ、教えられたのが創世記の2章から5章にいたる部分です。他にもたくさんありますが、これらはJ資料、ヤハウェ資料と呼ばれています。男と女の創造、エデンの園、禁じられた知恵の木の実、蛇は女を、女は男を誘惑、責任転嫁。

これらは目撃証言のはずはありません。古代人の信仰告白です。全人類に通有性・普遍性があります。

神は天地を創造し、6日目に自分をかたどって人を造った。(ここまでは祭司資料、紀元前6世紀)。

土の塵で人を造りアダムと名付けた。アダムの肋骨から相応しい助け手として女を造った。男の名はアダム、女の名はイヴ。ヘブライ語では土をアダマ、命をエバという。二人はエ デンの園で暮らしていた。

神は「この園にある全ての樹の実を食べても良いが、善悪の知識の木の実だけは決して食べてはならない」と命じられた。

ある日、エデンの園でイヴは、蛇にそそのかされて禁断の木の実(善悪の知識の木の実)を食べてしまった。イヴはアダムにも食べさせた。すると、2人は自分たちが裸であることに気づき、恥ずかしさのあまり体をイチジクの葉で隠した。

神は、約束を守らなかった罪(原罪)により、二人を楽園から追放し(失楽園)、蛇を地を這う動物とした。女には産みの苦しみが与えられ、苦労して地を耕さなければ食料を得ることができなくなった。

 

日本人の多くは、創世記を読んで、おとぎ話か古事記のような神話に過ぎない、と軽く見ることでしょう。これは古代イスラエル人の罪の告白です。そして、われわれ日本人はこの罪の告白を拒絶する傾向が強いのです。

 

だいぶ以前のことになりますが、日本人論が盛んに論じられたことがあります。会田雄次教授の『アーロン収容所』、イザヤ・ベンダサン実は山本七平氏の『日本人とユダヤ人』などを皮切りに、多くの書物が読まれました。そうした中で、こんなことが言われています。

『日本人は罪の意識に耐えられない。私は地獄に落とされるほどの悪人ではない。かと言って、極楽へ行けるほど善人でもないことは認めよう』。日本人の罪意識はこの程度。

 

聖書は、これとは全く違うことを告げています。罪がない、と言い張るところに罪がある。

姦淫の最中に捕らえられた女、をめぐるエピソードが記されています。ヨハネ8111

7節「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

人間である限り何かしら罪は犯しているのですから、この女性の周りにいた大人達、イエスを試みようとしていた者たちは、返す言葉がなかったことでしょう。

「年長者から始まって、・・・立ち去ってしまい・・・」

長老と訳すことができる言葉が用いられています。権威を認められている人々です。

人間は歳月を重ねて賢くなって行きます。それは自分自身を省みて、真実の姿を認めることに現れます。はじめに立ち去った年長者の姿にそれを見出し、心が熱くなります。

イエスの言葉により自分自身を再発見し、恥ずかしく感じた人。幸いな人です。

 

形式的正義は人を善に立帰らせることができず、濫りに人を裁いて自分自身も裁きに遭うより他になく、真の正義は自ら人の罪を負いてその罪を赦すことができる。この二者の間に根本的な違いがある。

 

ヘブライ人への手紙は、罪の赦しをはっきりと告げています。

本書は、手紙とされています。然し手紙の通常の形態をとっていません。挨拶もなし、名宛人もない、発信人もない、事情の説明もない。ないない尽くし、何も判らない。

そうした中で、この手紙はパウロによって書かれた、と長い間信じられてきました。

最近の学者は、発信人不明と考えています。

 

受取人、受信人と想定されるのは

10:32-34からは一度迫害にあったこと。その迫害はそれほど過酷なものではなかった(12:4)が、再び迫害にあう可能性が予見されている。(1213131213

一部の人々は神殿における儀式にはもう参加していない(10:22)。いまだに儀式に参加している人たちはそれによって自らの信仰が揺らいでいる。

 

こうしたことから、受信人はおそらくユダヤ教から改宗したキリスト教徒でありながら、迫害を恐れ、再びユダヤ教へ戻ることを考えている人々、と考えられます。著者はユダヤ教の動物の犠牲はキリストの十字架での犠牲の後では意味を持ち得ないことを強調し、「幕屋の外で」(すなわちユダヤ教を離れて)キリストに従うことを求めています。  

動物の犠牲ではなく、み子イエス御自身を犠牲に捧げることによって、神からの罪の赦しをいただくのです。罪人は、神と和解することができるのです。

み子が降誕した意味はここにあります。

 

ドイツの詩人シレジウス(162477は、次のように表現しました。

『キリストが千度ベツレヘムにお生まれになっても、

あなたの心の中にお生まれにならなかったら、

あなたの魂は捨てられたままです』

キリストは私達の信仰の創始者で完成者なのです(122)

 

 

 

 

 

ヨム・キプール(手短に)  または ヨム・ハキプリーム

いつ         2014104日、実際は103日の日没から

何をする  一日断食して、神様に罪の許しを願う祈りをする日

特徴1     断食の日、水も飲まない、顔も洗わない、歯もみがかない、ひげもそらない

特徴2     子どもと病人は多少食べる

             白を基調とした服がベスト

知っ得     シャバット(安息日)と同じ扱い。最も厳格。公共機関・交通・お店はお休み。

旧約聖書の 『ヨナ書』 が読まれる。

 ヨム・キプール(詳しく)

贖罪日は新年の10

 ユダヤ暦ティシュレー月の1日と2日は、ユダヤ新年です。そしてティシュレー月の10日はヨム・キプール (Yom Kippur) と呼ばれる「贖罪日」になります。今年(2014年)は104日が「贖罪日」です(正式には Yom HaKippurim)1年で最も厳粛な日でもありますから、「大贖罪日」とも呼ばれます。

(注意)「ティシュリ」と表記されている解説もあるようですが、正確には「ティシュレー」です。

 

2014104日がヨム・キプール

「大贖罪日」? 「贖罪日」?

 「大贖罪日」と聞くと、別の「贖罪日」もあるような印象を受けますが、この「大」は大小という発想ではなく、最も聖なる厳粛な日という意味合いを表す意味で「大」が付けられています。

 歴史的には、צומא רבה [tsoma rabba] とも呼ばれ、「大断食の日」とも呼ばれていました。この伝統から、「大贖罪日」という習慣が残ったとも推測されます。

 

贖罪日の始まり

旧約聖書の中では贖罪日について次のように述べられています。

 

 特に第7月の10日は贖罪日であり、

 あなたがたのための聖会の日である。

 あなたがたは身を戒め、

 火による捧げ物を主に捧げなければならない。

                    (レビ記2327節)

 

 第7月、つまりユダヤ新年から10日目が「贖罪日」です。正式には9日の日没から、翌日10日の日没後星が出る頃までになります。

 

 さらにレビ記16章には贖罪日に大祭司が神殿にて行う儀式について細かく述べられています。

 

 

ことによると、これは日本の教会だけのことかもしれません。御殿場教会の原簿には、「この者、陪餐停止」という文字が何回も出てきました。礼拝よりも隣組や水利組合の会合を大事にしたためだ、と聞きました。教会員には農業の方が居られません。商業などに従事する方だけでした。農業者は、この教会に居場所を見つけることは困難だったでしょう。

明治以降、來日した外国人宣教師達そして日本人伝道者達は、堅固な習慣という日本の現実を知り、さまざまな事柄で譲歩しました。葬式の前夜式、欧米には見られません。社会の風習、仏教のお通夜に譲歩。

聖餐式の回数もそのひとつです。資料がなくて推測になりますが、明治期の教会は、「聖餐の群れを形成する」ことを目指していました。端的に言えば、聖餐礼拝を目指したことになります。それはさまざまな事情・現実の前で崩されました。毎月一回はまだ良い方でしょうか。来れない人たちへの配慮、と聞きました。それでは来ている人への配慮はどうするのでしょうか。