2015年12月13日日曜日

先駆者

[聖書]マラキ31928
[讃美歌]259,248,241、
[交読詩編]19:8~15、
[聖書日課]、ヨハネ1:19~28、Ⅰコリント4:1~5、

今日は、降誕前第2主日です。以前は、待降節第3主日、アドベント第三主日でした。

この呼び方は、現在でも多くの教会、教派で用いられています。降誕前、という呼び方は、日本基督教団だけのものです。ルター、カルバン以来、教会は、聖書解釈や、教義の違いによって、分裂を繰り返してきました。今は、そうしたことへの反省から分裂ではなく、一致へ向かおう、ということで進んできました。教会再一致運動、エキュメニカル運動と呼ばれています。細かな違いを言い立てるよりは、同じ点、一致できるところを見出そうではないか、という運動でした。然し、残念なことに、ローマ教会は依然として自分たちの教会だけが教会であり、正しく、この外には救いはないと主張し、出て行った兄弟たちよ帰ってきなさい、と呼びかけます。これでは、再一致はありえません。

それでも、これまで一致していたものを殊更に変える必要はないだろう、と考えます。

 

口語訳聖書では、3章は18節で終わっています。その次は、41節になります。

新共同訳では、4章はありません。41節は、319節です。そしてそのまま、324節で終わります。註解書には、記述がありません。恐らく4章に分けるのは、七十人訳を軸とする翻訳、328節とするのは、マソラ・テキストを土台とする翻訳でしょう。

 

マラキは、《私の使者》という意味です。

2章は全体的に祭司への警告が記されます。独善的で、実は神のことばを無視している祭司への警告です。

67節は祭司の本来の姿が描き出されます。

「真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見出されなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち返らせた。祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である」。

これを預言者が、自分自身のことと考えているとは思えません。自信過剰は神の喜ぶものではありません。

8節は祭司の現状を批判しています。

「道を踏みはずし、教えによって多くの人を躓かせた」。

 

3章の始め、使者を送る、と語られています。これは伝統的に、洗礼者ヨハネを預言するものと考えられてきました。然し、この同じ文章が、この預言者の召命の記事である、と理解されるようです。そう言われると、そうかもしれない、と思います。

「マラキは荘重に、現に神はご自身のために道を備えるべきその使いを既に遣わしたもうたことを、神の宣言として彼らに告知する。このことが、きわめて近い時点に万有の主御自身が現れたもうことの徴なのだ、と(31)。」

「神は『使者』という言葉によって預言者マラキを指したもうのである。即ち自分の使命を、高度の、しかし他に類がなくはない自覚(第二イザヤ参照)で、イザヤ403(イザ57146210参照)に基づくと思われる言葉で表しているこの預言者マラキを指したもうのである。」カール・エリガーATD

 

マラキとは「私の使者」という意味である、とされます。七十人訳は、『彼の使者による』と訳しています。

そうすると、31は、『私はマラキ・使者 を送る』と読むことも出来ます。そのためでしょうか、多くの学者は、マラキを預言者の名前とは考えていません。この預言書は、その名を知られていない者が、主なる神に託された言葉を記したもの、と考えています。

 

マラキ書の書かれた時代は、帰還したイスラエルが、神殿の再建に励んだ頃、と考えられます。クロス王によって捕囚の民は故郷への帰還が許されました。全員が、それに応えたわけではありません。バビロンで生活の基盤が整った者たちは残りました。

帰った者たちは、他宗教の者たちが、異民族の者が占拠しているかつての我が家を見出しました。畑を見れば、見知らぬ者たちが働き、収穫しています。神殿再建を訴えられても、それに応えることが出来ません。まず自分たちの住む家を、食べるものを収穫する畑を、果樹園を必要としました。働いてくれる家畜がほしいのです。かつての所有地に対して所有権を主張すれば、彼らはバビロニア王の命令でここに入植した、と正当な権利があることを主張しました。絶えず、争乱が起きました。

 

同じ騒乱は、今現在に至るまで続いている、と私は考えています。2000年を越えています。

もはや人間の力では解決はできないでしょう。もしできるものがあるとすれば、それは神的な力の介入によるものでしょう。諸国の国境を越えて力を発揮できるお方だけが可能です。英雄待望ではなく、救いの主を待望しています。

 

こうした状況の中で、マラキは預言します。使者を送る。待望している主は突如その聖所に来る、と。使者とは誰か、待望していた主とは誰か。

 

先駆者、ローマ帝国は先駆警吏或いは警士という任務を、共和制の時代から保持していました。余り説明されていませんが、タキトウスは、その年代記の中でしばしば言及しています。先駆警士は有力者、功績のあった者が、外出する時、その行列の先頭を進み、誰の行列であるかはっきりさせ、鎮めるまたは歓迎させる役割です。功績が大きければ警士の数は増えます。官職、地位、身分の証明にもなります。従って、勝手に警士をつけることはできません。皇帝の許可または元老院の議決が、必要です。警士は、行列の時以外、どうしているのでしょうか。使者として派遣されたりしています。面白いことに、皇帝ティベリウスは、一族の将軍ゲルマーニクスの死後、未亡人となったアグリッピーナに先駆警士をつける提案に反対しています。市民の間で人気が高かった事を妬んだようです。

 

旧約聖書の中では、先駆けする役割に、これまで気付きませんでした。イザヤ403

新約聖書では、マタイ福音書の25章『十人の乙女のたとえ』などに登場します。6

「夜中に、『さあ花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした」。この声は、花婿の行列に先立つ使者であると考えられます。先触れ、と呼ぶこともできます。

 

わが国でも、封建時代に見られました。参勤交代のときなどの大名行列には、大名家の大きさ、格、身分などに応じて先触れ、先駈けがつけられました。他の大名の領地を通過しようとする時は、この先触れは使者として、その土地の領主の城へ行き、それなりの挨拶を致します。当然の儀礼と考えられています。遠国の大名は多くの他国を通過しなければなりません。

 

使者、あるいはマラキでもよろしいのですが、これが来るのは、『あなたたちが待望している主』がくる前に、その先触れとして来るのです。

私が備えているその日、大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。このことは、福音書が語っています。当時の人々の信仰に成っていたのです。

マタイ11141711、マルコ91113、ルカ117、ヨハネ121

先駆者エリヤが再来する期待が民衆の間にありました。再来しました、洗礼者ヨハネとなって。彼は、ナザレのイエスを指して、救い主が到来した、と語りました。あなたこそ来るべき方、と告白しました。その役割を果たし終えました。

 

主の日が来ると、悪を行う者は滅び、神を畏れ敬う者は義の太陽(キリスト)の翼で癒され、牛舎の子牛のように跳び回る。この主は、イザヤが預言するメシアです。42章、46章、53章などが有名です。解放し、いやし、執り成し、慰め、平安を与える救い主です。

義の太陽は、救い主として来られたキリストであり、キリストは私たちを覆い、癒し、回復させて下さる方です。「わたしは彼を癒し、休ませ、慰めをもって回復させよう」(イザヤ5718)。「神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い、翼の下に守ってくださる。神のまことは大盾、小盾。(詩編9134)。

 

マラキ書の預言は、先駆けの使者を通して、来るべき主がどのような方であるか、明示しています。感謝して祈りましょう。